"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“特攻おばさんとの誓い”

2011-08-15 20:50:50 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。


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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/15】 致知出版社編集部 発行
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 7月15日、日経新聞朝刊の人気コラム「交遊抄」に
 こんな記事が載りました。寄稿されたのは、
 静岡銀行頭取の中西勝利様です。


        * *


戦後65年が経ち、戦争の実体験を聞く機会は
年々少なくなっている。
私の父は志願して少年飛行兵となった一人。

小学校のころ、夏の暑い日差しのなか、父に手を引かれ、
陸軍少年飛行兵学校第15期同期会のため、
靖国神社へ出向いたことを覚えている。

そんな父も40年ほど前に亡くなり、
兵隊であったことも忘れていたころ、
雑誌『致知』の2006年8月号の対談記事
「若きに逝きし君たちへ」を読んでいると、
対談者の一人が、父と同じ少年飛行兵学校15期生の
地頭薗盛雄さんであった。

お会いして父の話を聞くことができないかと思った私は、
すぐさま、懇意にしていた鹿児島銀行の
永田文治会長(当時頭取)に電話をかけ、
探していただいた。

     (中略)

その年の11月26日、鹿児島市内のホテルでお会いした。
ご夫婦でお見えになった地頭園さんの第一声は

「よう似とる」

であった。

私の知らない戦争のこと、父のことをお聞きし、
本当にいい時間を過ごさせていただいた。

     (後略)


          『日本経済新聞朝刊(2011年7月15日より)』



        * *



 本日8月15日は、ちょうど終戦66年目にあたる日。

 本日は静岡銀行頭取の中西様がご紹介くださった
 『致知』2006年8月号、
 地頭薗盛雄様の対談記事の一部をご紹介いたします。


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        「特攻おばさんとの誓い」
       
       
           地頭薗盛雄 (鹿児島県少飛会会長)

        
        
                 『致知』2006年7月号
                  特集「悲しみの底に光るもの」より


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【地頭薗】私も仲間のことは、きょうまでひと時たりとも
     忘れることができませんでした。
 
     当初は、仲間たちと編隊を組んで飛んでいる夢を
     毎晩のように見ましてね。
 
     終戦の混乱の中で、なんとか彼らの供養をしたいと
     考えていました。
     幸い、南日本新聞社に少飛四期の大先輩である
     児玉敏光さんがおられましてね。
 
     その方のお力も借りて、鹿児島県少飛会を結成し、
     慰霊顕彰事業を始めることができたのです。

     その時最初に行ったのが、出撃前の飛行兵たちが通った、
     富屋食堂の鳥浜とめさんのところでした。


【神坂】“特攻おばさん”と呼ばれて、
     皆から母のように慕われていましたね。


【地頭薗】児玉さんと二人でとめさんを訪ねた時、
     出撃した宮川軍曹が蛍になって帰ってきた話や、
     朝鮮人の光山少尉が出撃前にアリランの歌を歌った話など、
     当時の模様をいろいろ語ってくれました。
     
     その話を南日本新聞に載せたことで、
     とめさんのことが全国に知られるようになったわけです。

【神坂】 そうでしたね。
 
【地頭薗】とめさんは特攻隊員を見送る時、隊員から

    「元気に行ってくるよ。アメリカの軍艦をやっつけてくるから」
    
     といった言葉をかけられるんですが、
     そのたびに、なんとも寂しい、
     やりきれない気持ちになったんだと。
    
     あの気持ちはとても忘れられないといって、
     私が訪ねていくといつも涙を流されていました。
 
【神坂】 私が訪ねた時には、

    「僕の生命の残りをあげるから、
     おばさんはその分、長生きしてください」
     
     と言って、うまそうに親子丼を食べて
     出撃していった一人の少年飛行兵のことを語って、
     
     
     「あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた」
     
     と涙をにじませていました。


【地頭薗】私はそのとめさんから、
  
    「自分が死んだ後も、どうか慰霊顕彰は続けてください」
    
    と頼まれた。しかし、最初はいろいろ反対されて
    なかなかうまくいきませんでした。
    
    粗末だった観音堂を新しくしようと
    地元の議員に働きかけた時も、
    軍国主義の復活につながるからと反対されたりしましてね。
    
    しかし私は、祖国を救いたいという純粋な気持ちで
    あの世へ行った特攻隊員たちの気持ちを忘れないために、
    説得を繰り返しました。
 
    努力が実って、昭和三十年には特攻平和観音堂を建立し、
    第一回知覧特攻基地戦没者慰霊祭を開催することができました。
    
    四十九年には特攻勇姿の銅像「とこしえに」を
    建立することができ、慰霊祭も年々盛大に
    行われるようになりました。
    
    銅像の建立のことを報告しに行った時、
    とめさんが私の手を取って涙を流された姿は、
    いまも忘れられませんね。

──────────────────────────────────── (以上)

静岡銀行の中西頭取、存じ上げております。

伝統的な地域金融のビジネスの中に、新しい風を送っていらっしゃる方です。

 

“特攻おばさん”と呼ばれて、 皆から母のように慕われていた”、食堂屋さんのとめさん。

“「元気に行ってくるよ。アメリカの軍艦をやっつけてくるから」”

“「僕の生命の残りをあげるから、
     おばさんはその分、長生きしてください」”

若い特攻隊員たちのとめさんへの言葉、それは、お母さんへの言葉のようにも聞こえます。

 

地頭薗さんが、観音堂を新しくしようしたとき、軍国主義の復活につながるからと反対を受けました。

それは、国を守るために若くして亡くなられて行った方々への思いであって、軍国主義の復活とは違いますよね。

そうしたすり替えは、今でもたびたび見られることではないでしょうか。

気をつけなければならないと思います。

 

“祖国を救いたいという純粋な気持ちで あの世へ行った特攻隊員たちの気持ちを忘れない”

今日は終戦からちょうど66年目、大切にしていきたい言葉だと思います。