パラリンピックが伝えるもの
オリンピックの感動が去り、高校野球の祭典夏の甲子園大会もあとは本日の決勝戦を残すのみとなった。
そして、今また我々の心を揺さぶるパラリンピックの熱気がテレビなどを通して連日報道されている。
普通の人間は自分の立ち位置、自分の視点でものを見る。
自分が普通であり、自分を基準にしかものを見ない、いや、見れないのである。
先天的であろうが後天的であろうが、心身に障害を持つことは即、特殊の存在と位置付けてしまう。
多くの健常者は彼らの持つ幾多のハンディーに同情はしつつも、現実的には何もできない、もしくはしない自らに多少なりとも、無意志の負い目を感じているのかも知れない。
自らの障害をすべて受け入れ、そのハンディーそのものを個性として受け止め、あくまでも明るく前向きに生きる彼らの姿は尊敬と感動以外何もない。
パラリンピックが始まる前日、ラインをやり取りしている小学校生の孫たちにも、パラリンピックの観戦を勧めた。
人生の永遠のテーマであり、思春期の最初の難問でもある、「人生の意味」とか、「人間何のために生きるのか」とか、考えることも教えることも何もない。
唯ひたすら、彼らのパラリンピックのテレビ中継を見せることが一番の教育なのではないかと心底思っている。
知識や理屈ではない。彼らの生の映像が全てを教えてくれるのではないかと思う。
パラリンピックは人間の生き方、あり方を含め、私が孫たちに伝えたい多くの大切なことを伝えてくれるような気がする。