TAKE-LOG 竹ログ

天竜二俣城から鳥羽山城を歩く その1

今日も晴れた、しばらく雨が降ってない、
少し前にはダムの水位が少ないから節水の呼び掛けがあった。
だが今は節電も節水も聞かない。

私はいつもの散歩に出かけることにした。
人間は太陽の光に当たると免疫力が上がるのだそうだ。
全身カビだらけ?の私としては太陽に当たることは薬を飲むより
必要なことなのだと思っている。



私のブログに二俣川の写真がよく載るが
この写真の右側の黒く見える山と、その左の向こうの山は
江戸時代には繋がっていたのだ。
この切り割りを拓いたのが袴田甚右衛門喜長という人である。

江戸時代二俣川は天竜川と川口地区で合流していいたが
合流点が大河天竜の上流に向けて合流していた結果
天竜川の増水時には二俣川に逆流して村は水害に悩まされていた。
そこで袴田喜長は二俣村名主として二俣川の流れの改修を磐田代官所に
申し立てたが取り上げてはもらえなかったが、彼は村人の困窮を救おうと
自費で二俣川の改修を始めた。
袴田甚右衛門はこの工事地点が二俣川と天竜川の水位差が5m57cm
あることを確かめると、二俣川をを天竜川の下流に向けて直線に合流させるために
写真の地点に穴を開けて二俣川を通す工事を始めた。

これを知った村人は「名主が一人で村のために奔走していてくれるのを見ていて
知らぬふりはできない」という声が湧き起こり村人も手弁当で工事に参加した。
工事許可は出たものの代官所は取り上げてくれなかたったが袴田甚右衛門の
自費で工事を進め、自弁で使役した人足は4500人に上った。

その後トンネル水路は落盤により崩れ、工事は堀割りとなり写真のように切り開かれ
上流の二光の滝が切り開かれると水害はなくなって現在の市街地が
出来上がったのである。



現在の政治と公共工事や町おこしを見て、私の中では村人救済のために
生命財産を無くしても身を投げ出して実践したリーダーの
袴田甚右衛門を想うのである。

浜松の[やらまいか精神]も[本田宗一郎精神]も
この時代から養われていたのだと思う、

このブログも袴田甚右衛門の末裔の商う袴田酒店で買ったビールを
飲みながら書いているのだ。

蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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