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TAKE-LOG 竹ログ

"どうする家康"10回側室をどうするの(家康ツアーズ)出演が終わって一年経った

[どうする家康]の10回目の”側室をどうする” の回の家康ツアーズに出演して一年経ち、月日の流れの速さに驚いている。

徳川家康の母於大の方が三河松平家の家臣に木綿の作付を奨励していた事から、
木綿と三河木綿を製作する模様の撮影が竹島クラフトセンターで行われました。
(私の手紡ぎと機織りの模様が放映されました)
その思い出の2023年2月6日のブログを投稿します。



今日は、ちょっと洒落て 歴史散歩と称してカメラザック姿で 私の散歩が始まった。

今日はどこを歩こうか 光明山古墳でも行こうかと思ったが

1月13日にNHK大河ドラマ ”どうする家康” の家康紀行の
(第10回側室をどうする)のコーナーで糸紡ぎと機織りの光景を撮影、
竹島クラフトセンターと三河木綿のロケハンも終わって久しぶりに故郷の
家康と信康が関係する足跡を訪ねた。

本田宗一郎資料記念館と諏訪神社まで歩くと左に二俣城にあった井戸櫓が見える

この井戸櫓は二俣城に籠城の時天竜川から水を汲み上げる井戸櫓を再現したものだ。

すぐに清瀧寺山門が現れて門をくぐる。

清滝寺境内にも梅の花が咲き始め心和むひとときだ。

梅の花を愛でながら清滝寺の境内を行くと

おっと!

松潤さんの家康様の大河ドラマポスターが掲示板に貼られていた。

清瀧寺に”どうする家康”のポスターが貼られていてもなんの不思議もない!

ここは家康の嫡男岡崎二郎三郎信康の廟所である

本堂の前を過ぎると左側に階段が現れて信康廟の案内があり私は階段を登る

徳川家康の生涯で最大の苦悩の時が妻瀬名と息子信康を失う時だったと思う

何故こんな事になってしまったのか?

今のドラマ展開では考えられない事態の現場が今私の歩く道にある
 

いよいよ岡崎二郎三郎信康の御廟所に入る

もう何十回も御参りしている御廟所だが恐れとか心の高まりを
感じたことはない、
私には心静まるところの一つでもある

NHK大河ドラマ ”どうする家康”で出て来る名前が読み取れる

 
信康公の廟所に入ると正面に朱塗りに徳川家の葵の紋が見える
 
「今、NHKの撮影があったのよ」
 
と、青瀧寺の奥様が門を開けて招いてくれたので遠慮なく拝観と
御参りをさせてもらった。
 
 
元二俣城主で三方原合戦で戦死した中根正照
信康事件当時の城主大久保忠世
殉死した吉良於初(小姓)の墓石にも合掌した。
 

小姓の”吉良お初”の存在は私の気になるものである、

吉良の名があるが愛知県西尾市の吉良と関係があるのでろうか、

信康公の廟所に入ると正面に朱塗りに徳川家の葵の紋が見える

 
 
信康ここに眠る
あのような悲劇がなければ二代将軍となり日本の歴史も変わったかも知れない、
墓前に、どうする家康の紀行ロケハンの報告をして御廟所を出る
 
 
清瀧寺を出て二俣小学校の裏山を登る
大した傾斜の登りでは無いのだが何時も喘ぎ喘ぎ登る階段が続く
車道に出ると二俣城方面へ向かう
300mも歩くと、二俣城跡(大手門)入り口の道標がある
 
 
天竜三河国定公園の看板だ
私の子供のころからある看板だから五十年以上前の物である
そうだ、ここは国定公園なのだ。
 
 
少し遊歩道を登るとブロックで作られた小屋が現れる
これが二俣城の井戸である
 
(井戸小屋の中には剣之泉 誠喜是善志の文字が読めた、徳川家に伝わるあの殀刀の血を洗った井戸であろうか)
 
二俣城は今川、武田、徳川と有力家臣が城主となったが
先日の”どうする家康”のドラマの中で今川の神ノ郷城主の鵜殿氏も
かつて今川義元に二俣城主にと願い出た逸話がある、
 
二俣城の攻防には井戸の水がキーワードであり、
天竜川の急流に作った井戸櫓の攻防が歴史を変えたかも知れない、
 
そしてこの剣の泉の井戸の水で信康と吉良の於初の血を洗ったのであろうか、
 
 
二俣城の大手門から城内へ、いよいよ二俣城へと入る
古戦場は今川、武田、今川、徳川といずれも激しい攻防戦が
繰り広げられた北遠の要の城に今日も私は訪ねた
 
 
本丸へ向かうと古城の雰囲気と戦国の時代を感じる
 
ここで幾多の人が戦い死んでいったことか
それを想うと心痛む処でもある
 
 
二俣城本丸と天守跡である
 
戦の最中にこの本丸二の丸に数百数千の兵が戦いの中に暮らしたのであろう
”海老すくい”など勇気を鼓舞する踊り舞いをしていたのだろうか、
 
小さな天守台だが築城の歴史は古く二俣笹岡古城は足利時代と言われ
野面積みの石垣の天守は私たち二俣の子供の遊び場であった。
 
 
本丸から下ると二の丸との間に空堀があって当時は相当な
急崖で阻まれていたことであろう
 
 
坂道を降りきると眼下に天竜川の崖が現れ天然の要塞であったことを思わす、
ここで、私が想うことはこの天竜の流れを夜陰に隠れて下れば太平洋へ、
山並を秋葉山を経て武田の勢力圏に入れば妻瀬名の血をつなぐ信州へ
逃れることも出来たのにと思い天竜川の流れと秋葉山への山を眺めた。
 
家康の本心が信康を遠い二俣に蟄居地を決めたことに秘められていないだろうか、
 
信康よ逃げるなら逃げてくれ!
父と子の悲劇の叫びが聴こえる様だ。
 
(私は天竜川の堤防に立っている、家並みはかつて天竜川と二俣川の河原であった)
 
ここは二俣川と天竜川との合流地点で天然の急な堀と渕に囲まれていた。
家並みの向こうの山は鳥羽山城で天竜川は急カーブして鳥羽山城の南を
えぐる様に流れている
 
後の旧陸軍中野学校二俣分校がこの地にあったことも考えれば、
二俣城の地形が戦の守りと攻めの要素として魅力の地であったのだと
思いながら天竜川の急流を眺めた。
 
今日のお散歩はここまでで、
次は鳥羽山城と徳川家康と田代家の関係を訪ねてみようと思う、
 
 
 
 

蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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