朝から太陽も出る一日となったが浜松地方は台風の東風が強い。
空梅雨の影響で天竜川も川幅は狭く、支流の川も冬期の水量しかない状態だ。
雨が降らない日をいつもの二俣城の散歩に出かけた。
ヤマタケの蔵を出て旧町並みを行くといくつかの蔵群を見る事ができる。
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この蔵は小説家有吉佐和子さんが戦時中疎開していた蔵である。
二俣の蔵群の中で唯一伊豆石で作られている。
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やがて清滝寺に到着する。
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清滝寺山門を通り
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清滝寺の本堂を通り石段を上がると徳川信康廟がある。
以前このブログの二俣城散歩1で徳川家康の家臣で二俣城主の大久保忠世のことを書いたが
大久保忠世が二俣城主でいる間にとんでもない大事件が起こった。
それは、家康の長男 徳川信康切腹事件である。
この事件は徳川家康の幼少期の歴史から語らねばならない、
徳川信康は父家康の長子として永禄2年駿河府中(今川家)で生まれた。
母親は今川義元の一族の姫様であった。
父親の家康は当時松平元康といい今川義元の一武将とはいえ捕虜同然の境遇をすごした。
三河の戦国大名松平宏忠の子として生まれ、幼名は竹千代といい幼くして父の暗殺という
悲運に会い、駿府今川家で元服して次郎三郎元信と名乗った。
そして政略結婚で今川一族関口氏の娘を嫁とった。
義元は一門の子女を松平氏に嫁がせることにより 当時進めていた三河地方の攻略に家臣らを動員して
今川領国拡大を図った。
信康出生にはこうした戦国の世の事情があったのだ。
元康(家康)は永禄元年以来三河各地で、反今川の勢力や織田信長軍と交戦し
しばしば敵を敗走させている。
ところが桶狭間の戦いに敗れた義元の死を契機に今川方から独立をして
祖父以来の居城岡崎城に入り、三河の織田方の諸城を攻略した。
しかし元康(家康)は突然織田信長と手を結んだ。これは今川氏真との敵対を意味して
駿府の妻子とは離れ離れとなった。
元康(家康)は今川の敵となったが、妻子は今川の血を引いているので殺される事はなかったのだ。
永禄5年3月、三河西郡城(蒲郡)が元康(家康)に攻略され、城主鵜殿長照の遺子2人が捕らえられた。
(その1人鵜殿氏長はこの後二俣城を守ることになる)
長照の母は、今川義元の妹なので長照と氏真は従兄弟の関係である。
松平側は今川方と、鵜殿長照の遺子2人と元康(家康)妻子の交換を成功させ
母築山殿と信康母子を岡崎に迎えることができたのだ。
(つづく)