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 2022年最初の城攻めとして、正月に静岡県静岡市にある駿府城へ行ってきました。

 実は駿府城は、数年前に仕事で静岡へ行った時に、空き時間を利用して見て回ったことがあるんですよね。ただ、当時はそれほど城に興味があったわけでもなかったので、今回はもう少しじっくりと眺めてきました。



 駿府城は現在のJR静岡駅から1㎞ほどの所にあります。

 元々駿府には今川館があり、今川氏の本拠地として機能していました。しかし桶狭間の戦いによる今川義元の討ち死などで今川の勢力は衰退し、今川館も武田によって焼き払われてしまいます。
 その武田も織田・徳川連合軍によって滅亡し、駿府は徳川領となります。そして1585年に築かれたのが駿府城です。その後、徳川の関東移封により、駿府城には豊臣配下の中村一氏が入ります。

 そして時代は徳川の世に。最初は駿府藩が存在したのですが、1605年、将軍職を秀忠に譲った家康は、大御所と言う立場で駿府城に入ったため、駿府藩は廃藩となります。翌年から天下普請により、駿府城は大々的に改修されます。これにより、大御所の居城にふさわしい、巨大な城として生まれ変わったのでありました。
 1609年に家康の十男・徳川頼宜が駿府に入って駿府藩が復活していたのですが、家康の死後、頼宜は紀州藩へ移封となり、駿府藩はまたもや廃藩。1625年には徳川秀忠の三男・忠長が入ってまた駿府藩が復活しますが、忠長は三代将軍家光と仲が悪かったことに加え、行状にも問題があり、改易。以降、駿府は幕府の直轄地となり、幕末を迎えることになります。



 駿府城はJR静岡駅から徒歩10分程度の所にあります。



 駿府城は本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる、輪郭式の平城。一番外側となる、三ノ丸を囲う水堀(外堀)も、一部は街中に残されています。



 堀の内側、三ノ丸の南側の辺りには静岡県庁があります。





 県庁の横を抜けると、駿府城公園の入り口に出ます。
 本丸と二ノ丸を合わせた部分が駿府城公園となっており、公園全体が水堀(中堀)と石垣によってぐるりと囲まれています。





 二ノ丸の南側から駿府城公園へ。





 ただ、この公園は史跡全振りではなく市民の憩いの場としても整備されていて、子供の遊具も設置されています。 



 で、南側から公園に入ったのですが、順路の都合で一旦外に出て、二ノ丸の南東隅にある、東御門から公園に入り直します。



 二ノ丸の南東隅には巽櫓が建てられています。



 東御門は枡形虎口となっています。



 内側から見た東御門。

 東御門の櫓門と、巽櫓とを合わせた部分が資料館となっています。ただ、この資料館は以前来た時に見学済みなので、今回はパスしてしまいました。今考えると、また入ってみても良かったかなぁ。



 この資料館のチケット売り場に、日本100名城のスタンプがあります。
 駿府城の図案は巽櫓と東御門ですね。



 改めて、駿府城公園の中をうろつきます。



 駿府城公園の周囲は二ノ丸の水堀にぐるりと囲まれているので、当然本来なら本丸をぐるりと囲む水堀(内堀)もあるはずなのですが、今はごく一部にしか残っていません。
 ここはそのごく一部である、本丸堀の跡です。右側の石積みのある所が、本丸の南東角に当たります。



 少し北に移動したところにも本丸堀の跡があります。



 ここには、内堀と中堀をつなぐ水路が設けられています。



 水路には鯉が泳いでいます。



 公園の北東には紅葉山庭園があります。四季折々の植物を楽しむことができるようですが、この庭自体は2001年に作られたもので、歴史的なものではありません。
 個人的にはあんまり興味がなかったので、入りませんでした。



 公園の北側には北御門があります。そこにかかる北門橋から、また一旦公園の外に出てみます。



 公園の北側の堀です。



 北門橋のそばには桟橋と船がありました。
 2021年から、「菱舟」という、水堀の中を舟で観光できるサービスが始まっているのですが、菱舟はもうちょっと装飾の施されたかっこいい感じの舟なので、これは水堀の整備にでも使われているものでしょうかね。



 北側の土塁の上を歩くことができます。



 水堀の方へ下りていく階段がありましたが、立ち入り禁止でした。



 公園の北側には、馬場先御門という本丸天守に向かう重要な門の跡があったのですが、今はその形跡は残されていません。



 続いて公園の中央部、本丸の辺りへとやってきます。



 「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」で始まる、有名な徳川家康の御遺訓の碑。徳川家の現当主・徳川恒孝氏の書によるものです。



 家康手植えのミカンの木。家康が隠居していた時期に、紀州から献上されたミカンだそうです。



 そして本丸跡に立つ、家康の像。
 大御所時代でしょうか。老年に差し掛かっていますが、左手に鷹を持ち、まだまだ意気軒高な様子が伝わってきます。



 そして天守台の跡へ。
 駿府城は明治時代に廃城となり、天守も取り壊されてしまいました。今はその天守台の発掘調査をしている最中なのですが、発掘現場の様子を見学することができます。





 こちらが発掘現場。
 奥に高く積まれた土がよく目立ち、まるでそこが天守台のようにも見えるのですが、それは発掘調査で掘り返した土を積んでいるだけ。手前の黒いシートのかけられているところが天守台跡となっています。



 この場所には豊臣が支配していたころに築かれた天正期の天守跡と、家康が大御所として入ってから築かれた慶長期の天守跡が重なるように存在しています。
 この写真で言うと、手前にある石垣は石を加工したり、大きな石の隙間に小さな石を詰め込んでいる打込接で作られた慶長期のもの。奥にある石垣は石を加工していない野面積みで作られた天正期のものとなっています。
 また、それらとは別に、今川氏が支配していた頃の遺構や遺物も発見されているようです。



 ここは慶長期天守の南西の角の部分。この辺りは江戸時代に一度地震で崩れ、その後作り直しているらしいので、角に大きな石を使った算木積みとなっています。



 プレハブ小屋ですが、天守の発掘調査についての情報を知ることができる、「きゃっしる」という建物もあります。



 実際に触ることができる石垣も置いてあります。



 岩を割るために穿たれた穴の跡。



 作業担当の大名ごとに、目印として書かれたマーク。「下」?



 天守台の北側へ。



 石垣の石が積まれていますが、これは廃城になった際に水堀を埋め立てるのに使われていた石を、発掘したものだそうです。





 今度は西側の出口。清水御門跡と、そこにかかる西門橋です。
 ここにも櫓門があり、枡形虎口となっていたのですが、今はその形跡は残っていません。





 西側の水堀。



 公園の南西側は広場になっていて、子供用の遊具も設置されています。



 南西隅にあるのが坤櫓(ひつじさるやぐら)。



 一般的には見張りや防御拠点としての役割を持っているのですが、この坤櫓は武器庫としても機能していたようです。

 坤櫓も中を見学することができます。展示内容は、櫓の建築方法についてのものがメインです。床がスケルトンになっていて、木の組み方などを見ることができます。
 まあ、ここも前に見学済みだったので、この時は入りませんでしたけど。



 大御所家康の城ということで、天下普請で築かれた巨大な城でした。

 ただ、公園の周囲を囲む水堀こそ残っていますが、遺構の痕跡が消し去られて普通の公園になっている箇所が多かったのは残念でした。やっぱり元の地形に凹凸の無い平城だと、立地は良いし、更地にしやすいしで、遺構が失われ易いんですかね。これが山城だったら、廃城後も再利用されずにそのまま放置されるから、割と遺構が残りやすいんですけどね。こればっかりは、致し方ないところではあるのですが。
 まあ、在りし日の駿府城を感じるという点については、天守台の発掘調査に期待ですね。今調査しているのは、天守跡地の整備方針を決定するためらしいので、天守の復元までされるかどうかは分かりませんが、かつての駿府城の威容を分かりやすい形で示してくれるのではないかと楽しみにしております。



(おまけ)



 天守台の向こうに富士山が見えます。



 巽櫓の外側に、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの銅像がありました。
 作者の十返舎一九が静岡市出身だそうで、東海道中膝栗毛の刊行200周年を記念して建てられたそうです。


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