かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

突然ですが、旧制高女のお習字の時間。

2016-03-31 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君の母親は戦前布袋町にあった旧制高等女学校の卒業である。

 その母親から聞いた話であるが、お習字の時間、B4の用紙を縦にした習字用紙に6字くらい漢字の諺を書くと左はしの一行に「愛知県平民○○次郎左衛門五女○○××子」と書かねばならなかったという。母は五女と云うのが恥ずかしくて、隠していたと云っていた。せいぜい三女までなら隠さなかったと笑っていた。

 そこで僕が「クラスに平民以外の人がいたの?」と聞けば「士族」と云う人が一人いた」と云っていた。

昔は女性の結婚年齢が大体決まっていたので僕の高校の同級生に親が僕の母親と同級生と云う友達が沢山いた。

この母と同級生の士族さんの子どもも僕の同級生だった。

まあ愛知県北部の江南市のことだから、平民以外は士族がチラホラだが、

名古屋のお城に近くに行けば士族は沢山いて華族などもいたことであろう。勿論名古屋には皇族はいない。

 今の若い人はまるで知らないことだろうが、戦前には「身分制度」というものがあって、生まれたときから身分で差別されていた。

 この問題で有名なのが例の「」問題である。

島崎藤村の小説「破戒」もこの問題を扱っていた。

 そういえば僕の知人に犬山市池野に「士族」出身の人がいた。

彼の先祖は尾張藩が造った貯水池としての入鹿池の水門を管理するお侍さんだったとのことである。

つまり、五条川の水門管理の侍である。水田を耕し米を作っている農民にとって、用水の管理は命がけである。

一方で水門を開けてくれと云う百姓がおれば、他方には閉めてくれと云う百姓がいるという難しい仕事を担当した侍であった。多分水門の開閉計画を相当早くから発表し農民に徹底していたことだろう。

 それでも、「切り捨て御免」の侍でないと務まらない水門管理だったかもしれない。

 歴史的には血の流れたこともあったであろう五条川で今は長閑な花見である。平和を始めとする政治がまあまあうまくいっている御蔭である。(T)

 


此処のマイクロバスのお世話になり「お花見」に連れて行って貰いました。

2016-03-31 | 気ままなる日々の記録

行き先は五条川堤でした。

五条川の水源は入鹿池とか聞いた覚えがあります。

天下分け目の戦いが終わって日本は徳川幕府の時代に入りました。

江戸に居を構えた徳川家康将軍は水戸、紀伊、尾張を御三家として、

江戸に攻め込もうとする反対派を防御し、挟み撃ちにするよう盤石の布石を敷きます。各藩は今までの戦闘モードを改め自国の産業の振興を図り豊かな藩になるような政策をとります。

明治になっても同じですが平和な時代が30年も続くと直ぐに人口爆発に困りました。

いわゆる農家の次男・三男問題です。彼らには耕す田畑がないのです。明治になってもこの問題の解決策が見つからないまま、中国東北部に進出して、其処に農地を確保して国内にあふれている農民をそこへ移住させようとしたのが太平洋戦争の始まりです。つまり、工場労働者として農村の次男三男を働いてもらうという政策を思いつかなかったのです。明治の御三家尾張藩も田畑の開発に力を入れます。最初に手掛けた大工事が入鹿池を堤で囲んで貯水池・水源地として、荒野に用水を造り田畑にしようという政策でした。この工事によって造られた用水が「五条川」で当時江戸で突然変異として人気の高かった「ソメイヨシノ」と云う桜の苗を堤に植えたわけです。桜の名所を造ると大勢の人がそこを通るので堤を踏み固めるのに絶好だったといいます。

 今我々が楽しんでいる五条川の桜もその名残だと云えると思う。この五条川ですが岩倉の方も流れていてここ大口町よりも周辺の人口密度が高いので、花見客が岩倉方面の方が断然多い。

桜の木が驚くとは思うのだが、岩倉の方は桜の木の枝枝にぼんぼりを付けたりして夜の花見を楽しむ人が多い。ここはそこまでもいかない。

これはこれで素朴でいい。東京の上野公園まで行くともう狂気である。

とはいえ、発病前の自分は狂気の真ん中にいつもいて、お酒を飲みすぎ翌日は半病人だったから大きな口は叩けない。

 今日はお天気にも恵まれ狂気ではない健全なお花見を楽しんできた。ありがたいことです。(T)