かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

斎王 哀しき雅(みやび)か聖なる巫女(みこ)か

2010-11-21 | 
三重県多気郡明和町の斎宮歴史博物館を訪ねました。ここは斎宮遺跡であると同時に再現博物館で、発掘は現在も続けられています。

                               

斎王(いつきのみこ)とは、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・南北朝と660年間にわたり天皇の名代として伊勢の大神に仕えた76人の若き女性たち(伝説の斎王9名を含む)の総称です。彼女たちは、新しい天皇が即位すると、その天皇直系の未婚女性の中から占いで選ばれ、都での約3年間に及ぶ潔斎生活ののち、最盛期には500人のお供と共に、様々な儀式を行いながらこの地にやってきました(斎王群行と言った)。

                  

ここでの生活は、正月の神宮遥拝に始まり年200日にも及ぶ諸行事を主宰するとともに、伊勢神宮の大祭では大宮司から神が宿るとされる太玉串(ふとたまぐし)を受けとり、瑞垣御門(みずがきごもん)に立てるという大役を年3回、外宮と内宮で計6回受け持っていました。さらに、男子禁制・仏教的諸事禁止、和歌を始めとする諸学問と雅な所作の学習が課せられていました。 任が解かれるのは天皇の退位(崩御または譲位)や斎王自身の病気あるいは斎王の肉親の不幸などのときでした。つまり、いつ任が解かれるのかが、本人を始め誰にも分からないという点にあったといいます。

          
              

斎王が住む場所を斎宮(いつきのみや)といいました。ここには、多くの女官をはじめ大勢の下働きの男たちの暮らしもありましたので、第二の御所のような生活空間がありました。しかし、南北朝以後天皇の力が衰えるとともに財政が逼迫、天皇が代わっても新たに斎王群行さえ行うことができず、いつしか斎王も斎宮も歴史からその姿を消していきました。『万葉集』を始め『伊勢物語』『源氏物語』『大和物語』『大鏡』『栄華物語』等々多くの文献に残された斎王と斎宮(さいぐう)でしたが、昭和45年まではその場所さえも定かでない状態でした。

              

住宅地造成工事中、偶然に発見された土器からここが「幻の宮」跡地ではないかという研究者の指摘により調査を開始し、次々と発見された土器・柱穴や井戸の遺構により斎宮の全貌が明らかにされ、昭和54年137haの地域が国の史跡に指定されました。発掘は現在も続けられています。
南北朝以前の我が国の歴史に思いを馳せるとき、この歴史博物館の重要性は言葉では言い尽くせないほどの重みがあります。当時の人々にとっての神々と政治については、考えれば考えるほど夢と謎の深まりを感じます。


信長の非情、一乗谷朝倉遺跡

2010-11-12 | 
歴史好きな友人の企画で朝倉遺跡を訪ねました。元来は「山歩きの会」ですが近ごろこうした平地歩きの企画も多くなりました。
 天正元年(1573)朝倉氏は柴田勝家を総大将とする織田軍に敗れました。この戦の前に織田軍は浅井・朝倉の連合軍に敗れ、浅井家に嫁いでいた信長の妹のお市の方と娘3人の悲劇は有名です。
 朝倉氏は、先祖が現在の兵庫県あたりの名門豪族で、応仁の乱の折に越前に進出、北国街道と美濃街道の交差するこの要衝に地に城と立派な城下町を築き、武勇財力ともに北陸では屈指の大名家として怖れられていました。しかし、捲土重来、万全の準備のもとに襲いかかった織田勢には万策尽き、出陣時に3万を誇った軍勢も、城に逃げ帰ったのはわずか数百人だったと言います。

                 

 その数年前、織田軍は比叡山の焼き討ちを断行しています。敗北を宣言し兵を引いた比叡山側になおも追い打ちをかけ、僧兵と何の関係もない修業僧を殺し寺社に火を放ったのです。この所業を知っていた朝倉城下町の人々は、「朝倉敗れる」の知らせを聞くや全員が僅かな家財を抱えて逃げ出したと言います。 噂に違わず、数日後に城下町にたどり着いた織田軍は、無人の城下町に火を放ち、一乗谷は3日3晩火の海だったそうです。そして約450年、つい50年ほど前までは山間(やまあい)の静かな山村でした。

                 

 この地が京都の金閣寺や銀閣寺とならぶ国の重要文化遺跡に指定されるに至ったキッカケは、何と昭和40年ごろから行われた「耕地整理」でした。田畑を整地して農業の機械化を実現するための工事です。工事中の田畑から見事な石組や礎石が出土、さらに武家屋敷からは当時の生活を知る上で欠かせない生活用具までも大量に発見されたのです。皮肉なことに、これらの用具は大量の灰に包まれていたために、その後土砂に埋まっても極めて保存状態が良かったと言うのです。写真の上2枚は、焼き討ち前の城下町を復元した模型、下の2枚は、左が発掘中のもの、右が発掘された石垣の上に復元された家屋です。

美しきかな大自然

2010-11-07 | 気ままなる日々の記録
 11月2日午前5時45分、昨夜来の雨がやみ、薄い靄のかかった庭に出ました。夏の間は午前5時に、最近では5時半に新聞を取りに出るのが習慣になっていているのですが、この日は雨かもしれないと思い迷い15分だけ遅く出ました。庭の木々はたっぷりと水を含みところどころに水溜りもありました。ビニールに包まれた新聞を小脇に挟み、ふと振り返った時に目に飛び込んできたのがこの美しい虹でした。70有余年我が家に掛るこれほど見事な虹を見たことがありません。全身に電流が流れたかと思われるほどの衝撃、急いでカメラを取りに走り出すまでに数分は要したと思われます。(友人の指摘により虹の時刻が間違っていることが分かりました。カメラの時刻設定に齟齬が発生していたことが原因でした。推定6時15分ごろです)

        

この日は快晴、野菜の手入れにいそしみましたが、そのとき見つけたのが大切に育てているブロッコリーの葉裏に産み付けられた憎き青虫の卵。うっかりしていると2~3日で大切な葉は網状にやられてしまいます。しかし、と私は手を止めました。卵がなんと美しく並んでいることでしょう。やっぱ、大自然は偉大です。

              
 卵の斜め下に5ミリほどの幼虫が写っているところも見ていただきたいです。こいつが大食漢です。