かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

玉ねぎを収穫しました。

2010-05-31 | 気ままなる日々の記録

爽やかな快晴に恵まれ朝から農作業。玉ねぎを収穫して、その跡に苦土石灰と鶏糞を撒いて耕運機をかける仕事です。2~3日のち、グリーンハウスで育てている「バナナ瓜」の苗を定植する予定。11時に作業終了、たっぷり汗した体を冷水摩擦で拭き取る。そよ風が心地よく至福の時間、今日が今年最初の至福の日となった。

 可愛がっているキイウィの赤ん坊、順調に大きくなっています。こうなると施肥の衝動に駆られます。慎重に慎重にと、離れた所へ3か所ずつ化成と鶏糞を埋め込みました。(写真は左が5月23日撮影のものです)

 


気の重い朝の光景

2010-05-28 | 随想

 その日の朝、私は友人とちょっとした散策に出かけるため彼を迎えに車で出かけました。彼の家はある中学校の正門前にあり、大勢の生徒たちのはつらつとした登校風景を久しぶりに眺めることができ、最徐行しながらも、明るい気分で生徒たちに声援を送っていました。正門前には二人の男の先生が立っておられ、生徒たちに大声で「おはよう!」「おはよう!」と言っておられました。
 友人の家で、彼が用意をして出てくるまで奥さんと立ち話などをして「お宅のお孫さんは遅刻ゼロですねえ」と私。「いいえ、いいえ、それが毎朝大騒ぎですのよ」と奥さん。
 彼が出てきたころには生徒の流れはすっかり途絶え、5~6mおきにパラパラと、二人また一人と来るほどになっていました。そのとき門の方から大きな声が聞こえてきて、振り向くと「おーい、急げ! 遅刻になるぞー」と何度も先生方の声。
 ところが、それを聞いて走り出す生徒も、急ぎ足になる生徒も一人もいません。今まで通り、おしゃべりをしてゆっくり歩いている生徒や下を向いてとぼとぼ歩いている生徒ばかりです。先生の声が聞こえていないはずはありません。私は、本当にびっくりしました。生徒たちにとって先生方の声は、あたかも電車の通過音と同じ騒音以外のなにものでもない様子だったのです。

 やっと出てきた友人に「おい、今の中学校はこんなんか」という私に、彼は「ここ数年かなあ、ひどいもんだ。とくに女子生徒がいかん。ふてくされた奴が多いよ。男の悪はまあ走るが、女の悪は無視だ」という。そう言われて校門の方を見ると、先生方は相変わらず「おはよう!」と言っておられるのに、遅れてきた生徒の方はプィと横を向いて、ゆうゆうと門を通り抜けています。私の気持ちはアッという間に、暗い洞窟の中に落ち込んでしまいました。
 どうなっちゃったんだ。この子たちの学校生活が楽しい筈はない。何とかしなければいけないのだが、何をどうすればいいのだろう。第一、中学校で先生が校門で「おはよう!」などということには、どこか欺瞞があるのではないかという気がします。全校生徒に「おはよう!」といい合うほどの人間関係がある先生などいるはずがない。その欺瞞を生徒たちはどこかで見抜いているのではないか。そして同様の欺瞞が学校の中に溢れているのかもしれません。
 しかし、この視点も甚だ軟弱です。集団教育の中にはある種の「方式」があって、その「方式」は、自己を確立しようと模索している年代の子どもたちにとっては、すべてが欺瞞と見えるのもまた事実ではないでしょうか。
 こんな全体的な問題ではなくて、生徒の個人的な問題かもしれません。生徒の成育歴や最近起きた家庭内の問題が起因しているのかもしれません。
 私は暗い洞窟でもがくばかりでしたが、いずれにしても、後回しにせず大人たちが今直視しなければならない問題だと思います。


信楽と百済寺を巡る

2010-05-28 | 気ままなる日々の記録

 人里離れた山野を歩くのが好きな友人たちと「信楽(しがらき:滋賀県甲賀市)と百済寺(ひゃくさいじ)を巡る」旅をしてきました。最初に訪れたのが「紫香楽宮跡(しがらきのみやあと)」、ここは天平14年(742)に聖武天皇が遷宮を予定して離宮を造営された跡地とか。礎石が残るのみでしたが人力だけで配置された石の大きさと多さに感嘆。このあと陶芸の郷に入り「ろくろ坂」「窯場坂」を散策、最後に写真の「陶芸の森」へ入り「陶芸館」「産業展示館」を見学しました。

 百済寺は、聖徳太子の命により百済人のために建立された近江最古級の古刹、歴史の荒波にもまれながらも1400年の法灯は守られ、今では、池泉廻遊式のおくゆかしい旧庭と眺望の見事なパノラマ庭園を楽しむことができます。この日はとくに雨上がりの新緑が夕日に映え、そのあまりの美しさに仲間の一人が「われわれ参詣者のために、御仏が庭に水を打って下さったのでは……」と呟いたほどでした。山頂には、殷殷と続く余韻の見事さによって「昭和の名鐘」と呼ばれる大鐘があり、これまた、寸志奉納で打つことも許されていました。


練習:複数枚の画像を取り込む。

2010-05-25 | 気ままなる日々の記録

                                                                                                                            

庭の花1

クレマチス:日本名は「てっせん」

 

庭の花2

つつじ:間違えたかな?庭の花ではなくて、トレッキングのときの撮影かな?

 

庭の花3

これは、裏庭の花に間違いありません。

 

 つまらない原稿で済みません。もう少しこの画面でいろいろ練習してから、削除します。とりあえず、3枚並んだことで成功! 本日の学習はここまでとします。


先回の続き

2010-05-23 | 気ままなる日々の記録

これが私の家のキィウイの棚です。昨秋に植えた雌株がいかに小さいかお分かり頂けると思います。棚の上の蔓はすべて雄株のものですが、雌株の日照を確保するために余分な蔓は剪定で削除しています。

今小さな雌株に8個の実がついています。何とか今秋には8個の収穫を期して手入れを怠らないようにしようと思っています。


朝一番に見るもの

2010-05-23 | 気ままなる日々の記録

最近、朝一番に見にゆくものがキィウイの赤ん坊です。
どうやら確実に着果したようです。

キィウイは雌雄異株、しかも相性が合わないと着果しません。
昨年夏の猛暑で雌株が枯れてしまいました。雄株が枯れていないので、原因は他。「除草剤じゃないか?」という声もありますが、私としてはこの声に同意していません。
昨年の9月、雌株を購入するのに苦労しました。雄株が古すぎて種類が不明。いわば博打のような勝負をかけて今春を迎えたのです。

 


「ご先祖様の人数」について

2010-05-18 | 随想
最近ある機関誌の依頼を受けて書いた随想を転記します。この機関誌には「視点・論点」「木葉木莵(コノハズク)の呟き」などの項があり、この稿は「コノハズク=森の老賢者」に寄せたものです。


「ご先祖様の人数」のお話

 先月は偶然にも親戚の法事が二度もあり、大切な日曜日がつぶされました。毎日が日曜日の身とはいえ、日曜日には特別な予定や思いがあることに変わりはありません。

 最初の家でお目にかかったお坊さまは、お見受けしたところ傘寿を超えた高僧で恰幅もよく、低音の読経も家中に響き渡っていました。読経が終わったらお坊さまが着替えをされ、みんなが揃ってお墓参りに出かけるのがこの地方の慣例ですが、この日はお経のあと短いお話がありました。
 「今日はみなさん、お忙しいところを、こうやってお参り下さって、いい供養をしてちょうだぁしたなも」から始まって、要するに私たちが今生きているのはご先祖様のお陰で、そのことに思いを馳せ常々感謝しながら毎日を過ごさなければならない、というお話でした。
 「一人には二人の親がおり、その親にもそれぞれ二人の親がおり、そのまた親にも二人の親がござるわけで、ここまででも2×2×2で、8人の人の血が私らあの体に流れておるわけで、そのうちの誰が欠けておっても今の私らはここに居らんわけだなも。こうやって、まあ10代遡っただけでも、2×2×2と2を10回かけんならん、そうすると1024にもなるそうで、そう考えると命というものは本当にありがたいものですわなあ」と続きました。2の10乗は確かに1024です。このころから私は少しむっとしてきましたが、曹洞宗の老僧に免じて、不快を顔に出さないように努めていました。

 ところが二週間後の日曜日に出かけた二軒目の親戚でも同じ話を聞かされました。こちらは浄土宗で、このお坊さまは30歳代後半で、5年ほど前会社員をやめて親の後を継いだ人でした。なにしろ2を10回かけて1024になるところまで同じでした。

 「ちょっと待って下さい」と言いだしそうな衝動を抑えるのに、どんなに苦労したことか。お行儀よく聴いている中学生や高校生もいるではないか。こんな話を聞かせてこの子たちの人生が間違うかもしれないぞ、と思ったものです。
 これは多分、宗派を超えた仏教会のような機関が、遅ればせながら布教の一環として、年忌法要の機会を捉えて檀信徒に話すべき小話のマニュアルを作ったのではないか。そこに10代遡って1024の話が載っているに違いない、と思いました。

 もしそうだったとしたらお粗末なマニュアルだといわなければなりません。1代を30年として10代で300年です。この計算で2000年前まで遡るとご先祖様は、2の66乗(2000÷30=66、6……。以下少なく見積もるためにどんどん切り捨て)ですから、ちょっと対数計算をして少なくとも1000京(京は兆の一万倍)を超えます。現在の世界人口を70億として、この数は現在の人口の10億倍以上、多分すべての人が平野に立っているだけでも海にこぼれる程の人数でしょう。なにしろご先祖様の誰一人が欠けていても今の私たちはいないのですから。さらにいうと、一人のご先祖様が1000京人です。このマニュアルを作った人はこんな簡単な矛盾に気がつかなかったのでしょうか。対数(普通なら高校一年生で学習)がちょっと苦手であったとしても、アダムとイブの子孫が現在の人類だとする教義と対抗するわけだから、それに備える論理が必要だ、くらいの問題意識があって当然です。

 掛け算が使えるのは「重なりがない」場合です。小学校で教えるときの最留意点です。
「従兄結婚」はいうまでもなく、何代遡っても血縁でない婚姻の場合のみ掛け算が利用できますが、狭い島や村の中で何百年もの間営々と守り継がれた民族の歴史の中で、そんな婚姻は不可能です。さらに民俗学が明らかにした、外からの血を求めての「鬼祭り」や「旅人接待」の習俗に思いを馳せれば、1024の怪しさにすぐ気づくはずです。これをもとに、仏教会の硬直化や退廃にまで言い及ぶのは乱暴でしょうか。それでも仏教フアンの私としては、何とかして欲しい気持ちも強いのです。

 実は、若い方のお坊さまは親の代からよく知っている人で、気軽な間柄でもあります。
二軒目の法要を終えた日の夕食時、私は思い余って家内にこの話をしました。そして思い切って若和尚に進言しようか、とまで言いました。しかし家内は即座に「止めなさい!あなたの話はいつも角々している。ありがたいお話じゃない。誰もあなたのようなことは考えていないわよ」といいました。こうなってはもう断念するしかありません。
 この話題は「木葉木莵の呟き」にも不向きだったかもしれません。曲げて「ヒキガエルの呟き」ということでお許しを頂きます。


自分のブログの編集に四苦八苦

2010-05-11 | 気ままなる日々の記録
テキスト「やさしく楽しく学ぶ GOOブログ」が少しも易しくない。基礎知識の欠如は明らかで、説明文の中のカタカナ単語が意味不明。説明文は、私を優しく誘導しようとしていてくれるようだが、実態は慇懃無礼。私の疑問や戸惑いに少しも答えてくれなく、混乱は増すばかり。しかしこれは、私がコンピューターの気持ちや仕組みを理解できず、察しの悪い石頭の持ち主であることを示してもいるわけで、根は深い。