かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

インフルエンザ予防接種後遺症か。

2015-11-30 | 気ままなる日々の記録

   土曜日にインフルエンザ予防混合ワクチンとかの接種を受け、左腕が真っ赤にはれ上がり昨夜の睡眠はトロトロしたものだった。おかげで自分は子供時代に帰り祖父といろいろ雑談に興じた。

  思いようによっては、少し気味の悪い幻想である。

 祖父は明治24年生まれで、当時岡崎にあった愛知県立第二師範学校を卒業し長い間知多半島の漁村僻地で小学校に勤め後半は校長になってその村の青年教育にもタッチしていたようである。

 祖父の時代小学校は4年までで義務教育はここまで。この上は高等科と呼ばれて小学校内に高等科1年と2年が設置されていた。

 小学校内に高等科もある学校を尋常高等小学校と呼んでいた。祖父は小学校を卒業後村久野にあった高等科へ行った。高等科を卒業したとき小学校の先生をやらないか、と声を掛けられ小学校の教員になった。いわゆる「代用教員」である。

 義務教育といっても、明治の中頃の農村では小学校も高学年ともなれば大切な働き手で、親は子供を高等科へやらなかったし、女の子は小学校へも通わせない親が多かった。

 明治政府は我が国を西洋の先進国のように高度の文明と産業と軍隊で強い国にしようと「教育勅語」を発布し全ての子どもに読み書きソロバンを教えようと力を入れそれにこたえて農村でも小学校や高等科への通学率が向上すると教員不足が起こって代用教員が急増した。

 祖父は熱心に「代用教員」を務めていたが、周りの先生から、どうせ教員をするなら、師範学校を卒業してから教員になった方がいいというアドバイスをもらって、師範学校を調べたら名古屋の第一師範学校は入学試験が終わっていて、岡崎の第二師範学校なら出願が間に合うということでそこを受験して合格し5年ほどそこへかよったようである。

 師範学校は全寮制で授業料も安く下宿や食事の心配がない。入学当時東海道線は開通していて尾張一宮から汽車に乗り岡崎で降りて寮まで歩くというのが常識のようであったが、祖父は汽車賃が高くて、モッタイナイということで、岡崎まで歩いたと云っていた。朝明るくなるのを待ってお弁当を二つ持って出発し、夜暗くなって門限ぎりぎりに岡崎の寮に着いたとのこと

   途中枇杷島か鳴海とかの農家の井戸を借りて水を飲み弁当を食べていると、そこの農家のオバサンが味噌汁を温め漬物と一緒に持ってきてくださり「学生さんかね、頑張ってるね」と励ましてくれたといいます。そのお味噌汁やお漬物がどんなお刺身より美味しかったと何度も話していた。多分塩分を体が求めていたからだろう。(T)

 

 

 晩秋の散歩道で。

   祖父は根っからの子ども好きで、紙芝居のオジサンのような話し方をし手振り身振りも心を込めて行いアッという間に子どもの心を掴んでしまう。いつの間にか子どもたちの集団の親分になってしまい、子どもたちを思うように動かすことができ、子供たちの個性を把握し適切な命令も下していく。

  最近の小学生のイジメ問題や、アンケートを実施したらいじめを見たという生徒がいた。などと云うニュースを聞いたら祖父は、担任の指導力のなさや、情報収集力の乏しさを嘆くことでしょう。

 祖父の時代担任は誰がイジメをしやすいか、誰が被害者になりやすいか担任は手に取るように知っていて、また、アンケートなんかしなくても、クラス内のことは手に取るように知っていた。雑談の中で生徒が友達に話すように担任に何でも話してくれるからである。

  祖父の話術は付属小学校での教育実習の時担任の先生から学んだと云っていた。

 それに比べると現在の教師の話力はとても足元にも及ばない。

 原因は文部科学省の怠慢と形式主義による。具体的には教員免許取得に必要な「教職単位」と云う単位の内容のなさ、昔の学歴だけで教授に収まっている人の講義を聴いて優秀な教員が育つとは思えない、

 もっとお粗末なのが教育実習である。付属の優秀な先生の指導を受けて話力をつけ、生徒の心を掴む指導力を身に着けなければならないのに、現実は一人の指導教官に5人も6人も学生が付いて2週間過ぎれば実習は終わる。

 之では立派な教師は育たない。

 酷い大学になると教育実習も形骸化してしまい2週間が過ぎれば実習も終了と云うところもあるようである。戦前の師範学校の方がもっとまじめに教師を育てていたといえる。

 戦後は教育の民主化とかで教員養成をグチャグチャにして放置してあると云うべきだろう。(T)

 

 

 


11月29日は、御粗末(おそまつ)君の誕生日。

2015-11-29 | 気ままなる日々の記録

    この施設で「お誕生会」があるそうで、お誘い頂いた。聞けばケーキが振るまわれ誕生祝の歌が歌われるという。オソマツ君はチョットためらった。第一ケーキが好きではないし、誕生祝の詩と聞いただけで落ち着かない。うちの子どもたちが通っていた幼稚園でよくやっていたが、オソマツ君が子どものときお誕生日祝いと云うものは家でやってもらったことがない。

  年齢が一つ大きくなるのはお正月で、お正月の朝は、下着から靴下や運動靴まで少し大きめの真新しい新品を身に着けていた。途中から満年齢こそが、本当の年齢だそうだということになって、お誕生日に新しい下着を着るようになったが、ケーキを食べて歌を歌うなどと云うことなど幼稚園でやることと信じていた。

  僕は折角此処の施設が誕生会をしてくれるのだそうだから喜んで参加すべきであることは100も承知していたが、「祝杯はシャンペンか、冷酒か」と聞いたらアルコール類は無いとのこと。僕は急に敷居が高く感じられた。丁重にお断りしたら、何と僕の写真とケーキを持って女子事務員の人が僕の部屋まで来て大きな声で「はぴーバーすデ―ツーユー」と歌まで歌って、写真とケーキを置いて行って呉れました。僕は唯ドギマギしていて、大声でお礼だけ言いました。明らかに老人にはついていけない文化でした。79歳は充分時代遅れでした。失礼しました。(T)

        晩秋の散歩道で。


インフルエンザの予防接種

2015-11-28 | 気ままなる日々の記録

   12月も近づき、今年のインフルエンザ接種もほぼ完了した模様。スタッフの方々は我々よりかなり早く接種されたようだ。

   昨年は施設全体でスタッフの方も含めて12人の人々が感染したそうだ。この数字は多いというべきか少ないというべきか見当がつかない。どうしても生活の場が集団なので食事を運ぶケアーさんや大勢の人々と接するリハビリの先生を通じて感染しやすいように思われる。

  当施設ではワクチン接種を勧めている。私もここ数年受けているのでもちろん 接種した。 が心配事があった。体重が少ないので大人の標準の量を打っては多いのではと思ったのだ。先生に「体重が減ったので少な目にしてください」とお願いすると「大丈夫。90キログラムでも60キログラムでもみな 同じでいいですよ」とのこと。少し熱が出たり赤く腫れることがあるかもしれませんが、と云って帰って行かれた。いつも、いらぬ心配をするのでストレスが溜まる、随分損な性分である。

  ここ数年、接種のあと数日経つと赤く腫れる。今年は3~4時間後から少し腫れぼったく赤くなってきた。次の日は赤みが縦に10センチぐらいになったが、昨年と比べると色は薄い。今日は赤みが増し12から13センチくらいになった。いろいろな薬品や食品に対してアレルギーが強く出る体質らしい。年を取ってそれが徐々に強くなって来た。これからだんだん痒くなって治るのに1週間はかかる。これくらいで済めばと自分で自分を慰めている。(E) 

      晩秋の散歩道で。


斉藤史先生で思い出したこと。

2015-11-28 | 気ままなる日々の記録

「おいとまを、いただきますと、戸を閉めて出てゆくようにいかぬなり、生は」(斉藤史)と云う記事を朝日だったか毎日だったかの短歌欄で見つけたとき雷に打たれたように母のことを思い出しました。

 当時兄は大阪の大手金属会社に就職していて社宅住まい、妹は東京へ嫁いでいて、僕だけが家から勤めに出るという生活であった。当時の母は、

 生涯で一番のんびりした生活を楽しんでいて僕と父の食事を用意していてくれていた。

   そのころから、女学校時代の友人との会合が多くなり昔の恩師《国語》を囲んで「源氏物語」を読む会とか「短歌の会」とかによく出かけていた。源氏物語も「葵の上」だったか、を女学校の国語で習ったようで、その時の先生が「他の章は、皆がもっと大人になったら読みなさい」と云われたとか。それを覚えていた友人がその先生に話を付け友人を集めて「女の怨念」を描いた部分を読んだりしていたようです。

 短歌の方も当時私立高校の国語の先生を指導者に招いて「歌会」を定期的に開き母は皆出席だったようです。

 短歌にはいろいろな流派があって、母が習っていた先生は長野に本部のある何とかいう流派でその大先生が斉藤史先生だと聞いていました。

 斉藤先生はお医者様の奥様で定期的に歌会を主催され、その歌会には全国から参加者が集まり皆が詠んだ歌をみんなで合評し合い最後に斉藤先生が講評されるといううた会のようでした。

 母もそこに参加させてもらい、斉藤先生のアドバイスが実に的確でチョットこう直されるとよかったですねおっしゃる赤ペンがすごくよく、感動的だったと云っていました。

 その斉藤先生がご存命で新聞の短歌の選評者を務めておられると知って母が生きていたらキット切り抜きを造って教科書のように大切にしたことでしょう。そのことを思い出して改めて母の冥福を祈りました。(T)

(追記)母が所属していた短歌の会は確か「しるべ会」とか言っていました。

   晩秋の散歩道で。

 


「オケツ」を「ノゾク」話。

2015-11-26 | 気ままなる日々の記録

   このお話は11月26日号の読売新聞で見たものである。あるお 医者さんが痛みを訴えるお嬢さんにいいました。「チョットメスを使っておケツをノゾキます」と。御嬢さんはびっくりして逃げだしたくなったそうです。正しくは「オケツ」は「汚血」のことで、「ノゾク」は「覗く」ではなく「除く」のこと。

   このエピソードはNHKの名アナウンサーだった青木一雄さんの随筆集にでているそうである。お嬢さんの体のどこかに化膿した所があったのでしょう。そこにメス入れて膿交じりの血液を絞り出せばすぐに痛みが取れるという治療法を述べたのでしょう。

   こうした同音異語の多いのが日本語の欠点でこれを耳言葉ではなく、目言葉=漢字を思い浮かべながら意味を受け取る言葉と云えるようです。

   さらに、「あらたし」が「あたらし」=「新しい」になったり、「さんさか」つまり[山茶花」が「さざんか」になったりといろいろ変化したようで言葉の歴史も難しいようだ。それにしても「読売」が「編集手帳」朝日が「天声人語」毎日が「余録」産経が「惷秋」と担当者は毎日これだけのエッセーを書かなければならない。大勢の読者が連日優劣を決めている中で。これは相当のプレッシャーだと思われます。さらに、ビル建設の杭打ちが話題の時は,杭に関するネタがいいわけだし、理想を云えばきりがない、そうした中でのご執筆頭が下がります。(T)

 

晩秋の散歩道で。

 

 

 


暦の上では「小雪」とか、紅葉とその落ち葉が美しい季節となりました。

2015-11-24 | 気ままなる日々の記録

   澄み切った秋の日差しに誘われて散歩に連れて行ってもらえば、道沿いの豪邸の生け垣の間から見える美しい庭木の紅葉に目を奪われます。道に舞う枯葉さえ詩情をさそいます。

   此処で思い出されるのは高校時代の国語の時間に習ったベルレーヌの詩「枯葉」です。遠い昔の記憶の糸を手繰り寄せて思い出してみます。

   以前このブログにも書きましたように僕が高校二年の頃友達の間でこうした詩を暗記することが流行して「○○を暗記したぞ」というと「それを見せて」と云うので文庫本なんかでそれを見せると、友人がその本を見ている. そこで覚えた詩をサラサラと云う. ミスなしで云い終わると、友人が尊敬してくれるという流行であった。藤村の「千曲川旅情の詩]とか「カラマツの林をいでてカラマツの林に入りぬ」とか「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」とかを、競争で覚えたのもこの頃であった。(T)

 秋の日の

 ヴィオロンのため

 息身に染みて

 ひたぶるに

 うら悲し。

 鐘の音に

 胸ふたぎ

 色変えて

 涙ぐむ

 過ぎし日の

 想い出や

 げに我は

 うらぶれて

 ここかしこ

 定めなく

 飛び散ろう

 落ち葉かな。

ベルレーヌはフランスの詩人、訳は誰だったか忘れました。上田敏か堀口大学だったではないでしょうか。青春と云うか思春期と云いますかそんな匂いにあふれた詩でしたネ。青春はフランス人も日本人も同じ感性なんですね。「げに我は」以下はオソマツ君のことのようですが、老人には、こんなにロマンチックな感性は考えられません。失礼シマシタ。(T)

          

       晩秋の散歩道で。

 


エレベーターの中でおばさんたちに、いじめられたの記

2015-11-22 | 気ままなる日々の記録

  5階でエレベーターに乗り込んだ。6回から降りてきたエレベーターでおばさん3人《ケアーさんの模様)が話に夢中だった様子で早速話しかけられた。以下оはオソマツ君、C1,C2,C3がそのおばさんたち。

c1「あれ、Oさん、こんにちは。その帽子カッコいいね。上着と合っててお似合いよ。奥さんのお

   見立てかね」

O「僕は一切家内に丸投げで、注文を付けたり、希望を云ったりしたことはありません」

C2「いいな、Oさんはいい男だから奥さんもいろいろ着せて楽しんでおられると思うよ」

O「ここで、『寿司食いねえ』と云わないかんが、生憎寿司をもっておらんで、失礼!」

C3「いいわ、いいわ、今度、お寿司屋さんへ皆で行くでしょう。その時、私たち3人は並んでカウ  

   ンターに座るから、Oさんが『寿司食いねえ』の人手を挙げてといって、私たちが手を挙げ 

   たら『大将、あの3人にマグロの上トロを握ってあげて』といってくれればいいのよ」とおっ

   しゃる。このおばさんたちには勝てない。

O「分かった分かった。そうするからこの辺で勘弁して。これ以上話していたらどうなることやら」  

  此処で3人に大笑いされた。偶然だけどお寿司屋へ行く話は本当であった。希望者を募って

  次の土曜日に出かけることになっていたのである。Oさんは、別の理由で参加申し込みを

  していなかった。

「寿司食いねえ」の話は、浪曲の広沢寅蔵の「清水次郎長伝」の一節である。

  親分の次郎長に頼まれてお伊勢さん(伊勢神宮)に代参《次郎長に代わってお参りすること。当然次郎長名で奉納金を納める)に行く森の石松が大井川を渡る船の中で居合わせた旅人と雑談中に「東海道と云えば清水に街道一の大親分がいるねえ」と云われて嬉しくなって、持っていた寿司をその旅人に勧める名場面で年輩者なら誰でも知っている場面である。以上失礼しました。

(追記》テレビ時代になって「浪曲」が姿を消したのは誠に残念である。「落語」と並んで日本の誇るべき文化であったと思われます。敗戦によって自信を失ったのか軽薄なアメリカ文化に翻弄されて真に情緒のある江戸時代に育まれた日本の大衆文化をいとも簡単に捨ててしまったのが惜しまれます。当時のマスコミ関係者や文化人と呼ばれていた人々はなにをしていたのだろうか。視聴率第一主義に翻弄されて力をうしなっていたのだろうか、もしそうだとしたら資本主義の悪い点に注意を払わず悪魔に魂を売ってしまった愚かな国の見本のようなものではないだ  ろうか。(T ) 

   

晩秋の散歩道で。      

 


ニューヨークからカードが。

2015-11-22 | 気ままなる日々の記録

   最近、メールアドレスが届いてから、しばらくはEメールばかりのやり取りが続いていたが今回は航空便なのでこれが正式な文化なのかと思っていた。ところが中から二種類の印刷物が見つかり本当はこの印刷物が送りたかったのだと推察した。

  メールによると日本文化に関するイベントが2つもありそれに出席しようとおもうと書いてあったからです。一つ目の印刷物は、ドナルドキーン氏についてのイベント、コロンビア大学の教授であるドナルドキーン氏が日本文学の翻訳に貢献され、それの受賞記念パーティーに出席するというもの。

  もう一つは、「東京物語」/Tokyo story を見て感激したという。どの程度かは分からないが。

  確かこの映画は1953年に小津監督によってせいさくされたもの、田舎に住む老夫婦が戦後間もない時期に東京に住む子供たちを訪ね、時代の変化や価値観の違いについていけず、戸惑う様子を描いたものと記憶している。テレビでも見たしビデオも家にある。そして、今でも思い出すのは、原節子の清純な姿と杉本春子のせかせかした美容師の表情などである。

  緯度の高いニューヨークは、さぞかし寒いことだろうと、想像したがそうでもないらしい。セントラルパークの木々は黄葉したものもあるが、まだグリーンの木も多いという。そして、それらが何時紅葉するか見るのも楽しみだと。

航空便が出された11月中旬は穏やかで、霧がかかった春のような日だとかかれてあった。

外国でも今頃の暖かい日を「小春日和」と表現することばがあるのだろうか。(E)

 


「困る」か「困らないか」と云う話題。

2015-11-21 | 気ままなる日々の記録

   今日は土曜日でお風呂の日であった。いつも通り10時にお風呂へ行きケアーさんのお世話になって服を脱がせてもらう。最初はお湯洗いで、次に石鹸を付けて洗い、最後に掛け湯をしながら石鹸を落としてもらう。

 その時、ケアーさんが盛んに「ありがとう」とか「お疲れさん」と云われる。

 ぼくは「いいえ」と答えていたがついに「それは僕の方の言葉で、ケアーさんにそんなこと言われると困ちゃいますよ」と云って少し話題が固くなってしまったと反省して

 「むかし「困ちゃうなあ」と云う歌が流行っていましたがご存じですか?」と聞きました。

 「そういえば若い女の子が歌っていましたねえ。かすかに覚えています、どういう歌詞でしたか?」

 と聞かれるので「たしか。「『困っちゃうな、デイトに誘われて』とかいっていましたね」と云ったら「つまり、よくもてたということね」と云われる。

 僕が「まあ、そういうことでしたね」と云えば「よくもてたのなら、全然こまらないのにねえ。

 モテないとき困るけど」とのこと。

 僕は此処に時代の変化を感じました。昔の可愛い女の子はよくモテて困ったのに今の女の子はモテないと困る、というわけです。(T)


理学療法士からお聞きした話。

2015-11-18 | 気ままなる日々の記録

僕は月・水。金と週3回リハビリを受けています。リハビリとは「社会復帰のための機能回復訓練」のことです。

 ただし、何をしても壊れた脳は修復できないそうですから、主に筋力を強くして右半身だけで目的を達成するとか、適切な作戦が必要ですから脳外科の先生の監督下で「理学療法士」の資格を持った人の指導を受けて行います。理学療法士の資格は国家試験を受けて取得するようです。

 僕が「君たちの「理学」の内容は何ですか?」と訊いたことがあります。ふつうは、理学の中に物理・化学・生物・数学を含めるからです。僕が聞いた人は「まあ、あえて言えば物理でそれも、せいぜいテコの原理ぐらいのものです」とこたえてくれた。

 大学で必要科目の単位を取ると受験資格が取れて後は国家試験を受けて取得します。

 この試験も競争試験ではなく、資格試験ですからそれほど難しくはありません。とのことでした。

 全身の筋肉の分布やある運動をするのにどの筋肉が使われているかなど、

 たはその逆でどの筋肉が弱いと何ができないかを見極める学力が必要ということのようです。僕がお世話になっている人は女性一人と男性二人です。三人とも30歳前後で大変お若い。

 医者に往診があるように、あまり動けない患者さんの家まで出かけ筋肉トレーニングを指導することもあるようで忙しい毎日のようです。

さて、女性療法士のNさんがあるとき名古屋のさかえ町付近を歩いているとき、手押し車を押して足の悪いお婆さんが歩いておられたそうです。

 Nさんは、それを見るとすぐに「チョット危ない」と思われたたそうです。

 「あのお婆さんきっと、つまずいてこの方向に倒れる」と分かったそうです。

それから、5分も歩いていると予想通りお婆さんが倒れ、Nさんはそのお婆さんの体をサッと支え抱き起し、チョットアドバイスもされたそうです。実はそのお婆さんの後ろをお婆さんの子どもさんが歩いていて、Nさんに何度もお礼をいわれたそうです。Nさんは「私の体が、無意識に反応してお婆さんの近くによっていたまでのこと」私も仕事が板についたわ」と笑っておられた。僕はこの話にいたく感動しました。後から分かったことだが、老人は反射運動が鈍いので倒れたときも捨て身で倒れるので脳震盪とか骨折も稀ではないそうです。確かにこのお婆さんも

Nさんが助けなかったら、救急車のお世話になったことだったでしょう。(T)

 


雪空の幻影。

2015-11-17 | 気ままなる日々の記録

   ただ今午後2時だというのに、雨が止んで、夕暮れのような曇り空、その上どこか薄寒い。今にも雪が降り出しそうな空模様である。まだ1か月早いとわかっていても、そう思えてくる。そういえば、僕は降りしきる雪の奥空を凝視していることが好きだ。

  次々と雪片を掃出し振りまいている空の奥に格子模様の和服にエプロンをかけて、子供の手を引いた母親の姿が見えてくる。よく見ているとその子供はどうやら僕らしい。母が突然「ホワイトクリスマスでもうすぐお正月だねえ」とか言い始める。僕はうっすら降り積もった雪に足跡を付けたくてちょろちょろ動き回っているが、終に足袋に雪が付きそれが溶け出して足が刺すように冷たくなった。母は「それご覧!じっとしていないから。すぐお家へ帰って足袋をかえましょう。」・・・・・・・。

  幻聴と幻覚かこんな光景がはっきり見えてくる。こんなことを思っていると初雪が待ち遠しい。(T)


児童虐待について、マスコミ論調に異議あり。

2015-11-16 | 気ままなる日々の記録

  離婚家庭で3歳ぐらいの幼児を父親が育てていたが、十分に養育できず、その子供が餓死したようで「最近あそこの子どもさんを見かけない] という近所の人のうわさで警察が家宅捜査をしたら、白骨化した幼児の遺体を押し入れから発見し父親を逮捕したという事件があったようで、

 この事件に関して世の論調は児童相談所の充実とか児童相談所の権限強化が中心に展開されている。

 御粗末彩重氏としては、聊か的外れの提案だと思っていますのでそのことを、書きます。

 その報道によると幼児は言語発達にも遅れがあって「ママ、ママ」とだけ云っていたとか。

 痛ましい限りだ。御粗末氏はこの問題のカギを握っているのは父親の成育歴ではないか、と思える。

 暖かい家庭で育った大人ならまあ、自分は食べなくても子どもに食べさせようとするし、その力も無くなれば父親が児童相談所や生活保護申請をするとか、助けを求めると思われます。

 つまり、この父親は親の愛情をたっぷり受けて大きくなっていないので子どもの可愛さが分からない人にそだっているのではないか。

 児童虐待」は世代を重ねることによって累積するという観点こそが大切だと思われます。

 こうした問題を考える時我が国の歴史の中で考えるべきだと思います。

 江戸時代こうした事件は起きていたか、明治・大正はどうか、何が変わったらこうした事件が起きるようになったか。敗戦によって何が良くなって何を失ったか、

 等冷静に考えてみるべきだと思います。御粗末彩重氏は、育児や家庭生活の健全化には少し乱暴ですが、「向こう三軒両隣] の協力が欠かせないと思う近頃です。先回投稿した江戸末期の我が国の下町は子供天国の国でした。参考にしてください。(T)

最終版のコンバイン。ドライバーは女性。昨年鮮やか豪快なハンドルさばきを見せていた女性のようだ。

 


江戸末期の我が国の下町風景

2015-11-14 | 気ままなる日々の記録

今日11月13日の毎日新聞に紹介されていた初代駐日公使オールコックが帰国後書いた本によると当時の日本は①子供の天国で②家の中丸見えののどかな国であったようだ。

 どこの路地も遊び興ずる子供で溢れ女ばかりか男も大勢子守りに夢中だったといいます。

 そして、夏にでもなればどの家も雨戸も障子戸も開け広げて外から家の中が丸見えで、昼寝をしている人から食卓を囲んで食事をしている家族や食事のおかずまでよく見え、隠そうという意識がなく、職人の家では主人がふんどし一本で桶を造っていたり鍋の修理をしていたりしていたといいます。つまり、プライバシーと云う意識はまるでなくご近所様には、

 全部知っておいていただくという考えだったようです。其れからおよそ100年、

 随分遠くへ来たものです、そして向かった方向はこれでよかったのか今一度考えてみるのもよいのでないでしょうか。児童虐待やら、近所の助け合いゼロの砂漠のような都会生活が、

 憧れの文明国家だったでしょうか。御粗末彩重氏としてはアメリカの後追いだけはもうやめようという感じです。(T)


蝦夷富士こと羊蹄山の麓に500坪の土地を持っていることについて。

2015-11-13 | 気ままなる日々の記録

私がこのに病にならなかったらやりたかったこととして書きました山形と新潟の県境にある山は鳥海山であったような気がします。

さて、山野商法と知りつつ北海道の土地を買った《50万ほど》訳は、当時私が読んでいた評論家兼作家の随筆に、有名な山の山麓に土地を買い甥や姪の結婚式にお祝いとしてその土地を分筆して所有権を甥や姪に移譲した登記書類を贈呈し披露宴の出席者を驚かせ甥や姪を喜ばせる話が出ていたから自分も真似ようという気があったからである。そのエッセイには落ちがあって、その土地へ行くのに車が通れる道がなく、テントを背負って一昼夜は歩かないと行けない土地であった。著者は、後日そのことをそっと甥や姪に伝えて大笑いしたと書いていた。私はそれはチョット悪趣味だと思い、羊蹄山の山麓を買う時も、レンタカーで現地に入り、当該地管轄の役場へも顔を出して買った。だから、詐欺的な要素は無い。けれど、甥や姪に贈呈はしていない。友人主催の結婚式で会費制で、お祝いを受け付けるというような披露宴ではなかったからだ。つまり時代の変化というもので、あまり先のことを計画しておいても世の中の方が変わってしまい陳腐になるだけであるということを学んだ。(T)