ここ数日、梅雨らしくグズグズしたお天気の上に高温、庭仕事もままならず、エアコンの「除湿」をかけて読書三昧。ご報告することもなく、今日の収穫と最近投稿した「駄文」を転載させていただきます。
右上はプラムの「大石早生」と「サンタローザ」、大石早生は終わりで「サンタローザ」は真っ盛りです。サンタローザに付くカビはどうやら「夜蛾」の吸汁が付ける傷跡が原因のようで、全体を防虫網で覆うしか打つ手がないようですが、今年は根元を綺麗にしたことと「夜蛾」の発生が遅れたたことによって、半分くらいは収穫できそうです。味は「サンタローザ」の勝と思います。左上と下はただ今収穫中の野菜は、この他ナス、トウモロコシ(収穫終了)などです。
昔の友人たちのサークルに私も途中参加(恩のある人たちに頼まれて)、そのサークルが毎月「機関誌」を発行していて、その「埋め草」に駄文を弄しました。ちょっと場違いですが4~5枚のイラストを補って、「埋め草」に「埋め草」の使用をお許しください。
美しい二つの「心象風景」
---「歌人」と「数学者」と---
NHKのラジオ第一放送に「明日への提言」という番組があります。早朝、四時過ぎからのインタビュー番組ですが、私は、いつの間にか“愛聴者・イン・ベッド”のメンバー入りをしています。
4月20日は歌人馬場あき子さんがご登場、さすがに歌人で、豊かな語り口で素敵なエピソードをたくさん話しておられました。
彼女は昭和三年のお生まれで、現在、日本芸術院会員、朝日歌壇選者で、古典や能に造詣が深く、和服がお似合いのご婦人だそうです。
彼女は生まれて間もなく、お母さんが結核を発症して隔離病棟に入院。そのため母方の祖母に溺愛されて育てられたとのこと。ここで、彼女の語り口を思い出して、以下に再現してみます。
「私はね、小学校5年や6年になっても、算数の簡単な足し算や引き算が、全然できなかったの。だから公立の高等女学校は全部落ちて、算数の試験がなかった私立の高等女学校に進んだんですの。
私が、算数ができないと云うんで、母の妹が私に問題を出しますの。5年生か6年生だったと思いますよ。『庭に鶏が13羽いました。そのうち3羽が逃げていってしまいました。残りは何羽でしょう』ってね。
そうすると、私はまず庭に13羽の鶏がいるところを思い浮かべますでしょ。コッ、コッっていいながら、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしている鶏を思い浮かべて、それが逃げ出したんなら、きっと生垣に穴の開いたところがあって、そこから逃げ出したんだわ、鶏は一羽逃げ出したら、次々にその後をついて行くから、あっという間に全部いなくなってしまうわ。
まあ、どうしよう、って思って、でもそんなことを言ったら叔母さんに悪いから、でたらめ、六羽、あっ、七羽、って答えると、叔母さんが、まぁ~、って大声を出しますの。そうすると祖母がね『いいの、いいの。算数なんかできなくったって、この子はお利口さんだから。変な問題は出さないで』って叔母を叱りますの。……」
私は、床の中でちょっと笑った後で、すごくいいお話だと、深く感動しました。そうなんです。〝13〟などという抽象的な数はこの世に存在しませんし、まして「13-3」などという数式も、厳密にはこの世に存在しません。
義務教育で学ぶ「数」を支えているものは「集合数」と呼ばれる数と「順序数」と呼ばれている数ですが、集合数にしても具体的には「3個」であったり「3m」であったり「3㎏」であったり「3㎡」であったりするわけです。それに「3番」とか「3人目」が加わって、そこから「3」という数を抽象してイメージするところから数学が始まっている訳です。
馬場さんはきっと、ずーっと大きくなってから、鶏が13羽いても、小石が13個あっても、同じだということに気付かれたのでしょう。
しかし、このことに気付くと、13mから3㎏を引き算したりする間違いを起こします。その代表が数学の得点と英語の得点の合計点で順位を付ける時の、順位の意味の取り違いです。厳密には、二つの教科の得点の合計に意味を持たせるには多くの仮定が必要です。(東大の入試改革が話題になっています)
ここで思い出すのが「博士が愛した数式」という映画です。原作は小川洋子氏で、いろいろな数学の美しさを小川氏に伝授したのが当時御茶ノ水女子大教授の藤原正彦氏でした。
交通事故による脳の損傷で記憶が80分しか持続しなくなってしまった元数学者の「博士」(寺尾聡)と、博士の家の新しい家政婦(深津絵里)として働き始めた「私」とその息子「ルート」との、美しい心のふれあいを数式と共に描いた作品でした。
野球の練習中に他の選手とぶつかり救急車で病院に運ばれたルート。病院に駆けつけ待合室で取り乱す「私」に、寺尾がそっと紙とサインペンを渡して、「この紙にゆっくりスーッと、直線を引いてごらん」と云います。
深津は怪訝な顔をしながらも、線を引いて返しますと、寺尾が「ああ、いい直線が引けましたねえ」と微笑み、そのあと「でもこれは、本当は線分でね、直線ではありませんね。直線を引こうと思ったら、この線分の端にサインペンをもう一度置いて、ずーっと地球の果ての、宇宙の果ての、その先までも描き続けなければならないし、もう一方の端も伸ばさなければならないので、一生かけても直線一本が描けません。
でも、やっぱりこれはあなたが書いた美しいいい直線です。そう、人間はすべてのものを心で観ているんです」と云います。深津はここでハッと気が付きます。博士が〝落ち着いて! 冷静に! 前向きで美しい心で現実を観ましょう!″と自分に訴えていることに。
そのあと、ルートが元気に病室から出てきて、ドクターが「軽い脳震盪でもう心配は要りません」と告げます。
集合数や順序数から抽象数を考えたり、線分を観て直線を思い、幾つかの直線の中に横たわる法則を考えたりして、そのどれもが美しいと思う人間の心、つまり「抽象風景」の中に美しさを見つける心と、歌人の馬場さんをして、愛くるしい鶏の動きに気を取られて引き算を出来なくしてしまう人間の美しい心、つまり「具象風景」の中に引き込まれ思考停止状態になる人間の心、この二つの「心象風景」は、決して二者択一的ではなく、この二つの心こそが人間にとって最も大切ものと思われます。
例えば、線分を観て直線をイメージすることを好む人には、「人の死」は、現象面での終焉であるけれども、霊魂は永遠で、過去を遡っても未来に向かっても魂は永遠で、「輪廻転生」とか「弥陀の本願」が真理であると思われることでしょう。
また、馬場さんのように、移ろう自然を慈しみ命の世代交代にさえも深い感慨を覚える人には、死者が荼毘に付されれば「煙になって空に昇る」のであって、そのことにさえ美しさがあるということになるのでしょう。
私たちの世代は、どちらかと云うと抽象の世界に重きを置き、二者択一的に「真理は一つ」的な思考に慣らされてきたのではないでしょうか。しかし、現実はもっと奥が深く、具象風景に心を震わせ、同時に抽象風景の中に美を感じる心の中にあるように思われます。
私は、これからも意識して、この二つを自分の胸に抱き続けたいと思っています。
最後に、蛇足ながら馬場さんの美しい心は良く分かるが、抽象数や直線の方の美しさは良く分からないなあ、とおっしゃる方のために、世界で最も美しいと言われている公式を紹介しておきます。
その名は『オイラーの公式』。
準備として①πとe。この二つの数は非循環無限小数(さらに超越数)で、小数にすると無規則に無限に数字が続きます。π=3.141592……、e=2.,718281……です。次に② i 。この数は虚数単位と呼ばれていて、2乗すると「-1」になります。さてオイラーの公式ですが、それは
『e iπ=-1』 です。
「 iπ乗(アイ・パイ乗)? 指数に i(アイ)が入ったらどうなるの? 」と聞かないでください。
それを気にすることは、馬場さんが鶏に気を取られて引き算ができなった状況と似ています。ここは抽象風景の世界です。数学は新築と増築はしますが、改築はしません。つまり、実数の世界の計算ルールを、そのまま iの入った複素数の世界に適用し、実数の世界は複素数の世界の一部という世界を造るのです。
無限小数が指数に無限小数をi倍したものを持てば、また無限小数に虚数数単位を含んだ厄介な数になると思われるのに、可愛い「-1」になるところが美しいのです。
証明はそれほど難しくはありません。ただし、オイラーはやはり天才でした。
蛇足の蛇足ですが、高校程度の数学から、「オイラーの公式」の証明までを易しく解説した本に《吉田 武著「オイラーの贈物」東海大学出版会》があります。
2010年1月の発行ですが、よく売れているそうです。購入者はリタイア世代の「抽象風景愛好者」だとか。リタイア世代万歳!