かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

駄文を弄しました。

2013-07-05 | 随想

 ここ数日、梅雨らしくグズグズしたお天気の上に高温、庭仕事もままならず、エアコンの「除湿」をかけて読書三昧。ご報告することもなく、今日の収穫と最近投稿した「駄文」を転載させていただきます。

     

      

 右上はプラムの「大石早生」と「サンタローザ」、大石早生は終わりで「サンタローザ」は真っ盛りです。サンタローザに付くカビはどうやら「夜蛾」の吸汁が付ける傷跡が原因のようで、全体を防虫網で覆うしか打つ手がないようですが、今年は根元を綺麗にしたことと「夜蛾」の発生が遅れたたことによって、半分くらいは収穫できそうです。味は「サンタローザ」の勝と思います。左上と下はただ今収穫中の野菜は、この他ナス、トウモロコシ(収穫終了)などです。

 昔の友人たちのサークルに私も途中参加(恩のある人たちに頼まれて)、そのサークルが毎月「機関誌」を発行していて、その「埋め草」に駄文を弄しました。ちょっと場違いですが4~5枚のイラストを補って、「埋め草」に「埋め草」の使用をお許しください。

 

美しい二つの「心象風景」

---「歌人」と「数学者」と---                     

 NHKのラジオ第一放送に「明日への提言」という番組があります。早朝、四時過ぎからのインタビュー番組ですが、私は、いつの間にか“愛聴者・イン・ベッド”のメンバー入りをしています。

 4月20日は歌人馬場あき子さんがご登場、さすがに歌人で、豊かな語り口で素敵なエピソードをたくさん話しておられました。

彼女は昭和三年のお生まれで、現在、日本芸術院会員、朝日歌壇選者で、古典や能に造詣が深く、和服がお似合いのご婦人だそうです。

 彼女は生まれて間もなく、お母さんが結核を発症して隔離病棟に入院。そのため母方の祖母に溺愛されて育てられたとのこと。ここで、彼女の語り口を思い出して、以下に再現してみます。

 「私はね、小学校5年や6年になっても、算数の簡単な足し算や引き算が、全然できなかったの。だから公立の高等女学校は全部落ちて、算数の試験がなかった私立の高等女学校に進んだんですの。

 私が、算数ができないと云うんで、母の妹が私に問題を出しますの。5年生か6年生だったと思いますよ。『庭に鶏が13羽いました。そのうち3羽が逃げていってしまいました。残りは何羽でしょう』ってね。

                         

 そうすると、私はまず庭に13羽の鶏がいるところを思い浮かべますでしょ。コッ、コッっていいながら、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしている鶏を思い浮かべて、それが逃げ出したんなら、きっと生垣に穴の開いたところがあって、そこから逃げ出したんだわ、鶏は一羽逃げ出したら、次々にその後をついて行くから、あっという間に全部いなくなってしまうわ。

 まあ、どうしよう、って思って、でもそんなことを言ったら叔母さんに悪いから、でたらめ、六羽、あっ、七羽、って答えると、叔母さんが、まぁ~、って大声を出しますの。そうすると祖母がね『いいの、いいの。算数なんかできなくったって、この子はお利口さんだから。変な問題は出さないで』って叔母を叱りますの。……」

 私は、床の中でちょっと笑った後で、すごくいいお話だと、深く感動しました。そうなんです。〝13〟などという抽象的な数はこの世に存在しませんし、まして「13-3」などという数式も、厳密にはこの世に存在しません。

 義務教育で学ぶ「数」を支えているものは「集合数」と呼ばれる数と「順序数」と呼ばれている数ですが、集合数にしても具体的には「3個」であったり「3m」であったり「3㎏」であったり「3㎡」であったりするわけです。それに「3番」とか「3人目」が加わって、そこから「3」という数を抽象してイメージするところから数学が始まっている訳です。

 馬場さんはきっと、ずーっと大きくなってから、鶏が13羽いても、小石が13個あっても、同じだということに気付かれたのでしょう。

 しかし、このことに気付くと、13mから3㎏を引き算したりする間違いを起こします。その代表が数学の得点と英語の得点の合計点で順位を付ける時の、順位の意味の取り違いです。厳密には、二つの教科の得点の合計に意味を持たせるには多くの仮定が必要です。(東大の入試改革が話題になっています) 

 ここで思い出すのが「博士が愛した数式」という映画です。原作は小川洋子氏で、いろいろな数学の美しさを小川氏に伝授したのが当時御茶ノ水女子大教授の藤原正彦氏でした。

 交通事故による脳の損傷で記憶が80分しか持続しなくなってしまった元数学者の「博士」(寺尾聡)と、博士の家の新しい家政婦(深津絵里)として働き始めた「私」とその息子「ルート」との、美しい心のふれあいを数式と共に描いた作品でした。

 野球の練習中に他の選手とぶつかり救急車で病院に運ばれたルート。病院に駆けつけ待合室で取り乱す「私」に、寺尾がそっと紙とサインペンを渡して、「この紙にゆっくりスーッと、直線を引いてごらん」と云います。

                         

 深津は怪訝な顔をしながらも、線を引いて返しますと、寺尾が「ああ、いい直線が引けましたねえ」と微笑み、そのあと「でもこれは、本当は線分でね、直線ではありませんね。直線を引こうと思ったら、この線分の端にサインペンをもう一度置いて、ずーっと地球の果ての、宇宙の果ての、その先までも描き続けなければならないし、もう一方の端も伸ばさなければならないので、一生かけても直線一本が描けません。

 でも、やっぱりこれはあなたが書いた美しいいい直線です。そう、人間はすべてのものを心で観ているんです」と云います。深津はここでハッと気が付きます。博士が〝落ち着いて! 冷静に! 前向きで美しい心で現実を観ましょう!″と自分に訴えていることに。

 そのあと、ルートが元気に病室から出てきて、ドクターが「軽い脳震盪でもう心配は要りません」と告げます。 

 集合数や順序数から抽象数を考えたり、線分を観て直線を思い、幾つかの直線の中に横たわる法則を考えたりして、そのどれもが美しいと思う人間の心、つまり「抽象風景」の中に美しさを見つける心と、歌人の馬場さんをして、愛くるしい鶏の動きに気を取られて引き算を出来なくしてしまう人間の美しい心、つまり「具象風景」の中に引き込まれ思考停止状態になる人間の心、この二つの「心象風景」は、決して二者択一的ではなく、この二つの心こそが人間にとって最も大切ものと思われます。

 例えば、線分を観て直線をイメージすることを好む人には、「人の死」は、現象面での終焉であるけれども、霊魂は永遠で、過去を遡っても未来に向かっても魂は永遠で、「輪廻転生」とか「弥陀の本願」が真理であると思われることでしょう。

 また、馬場さんのように、移ろう自然を慈しみ命の世代交代にさえも深い感慨を覚える人には、死者が荼毘に付されれば「煙になって空に昇る」のであって、そのことにさえ美しさがあるということになるのでしょう。

 私たちの世代は、どちらかと云うと抽象の世界に重きを置き、二者択一的に「真理は一つ」的な思考に慣らされてきたのではないでしょうか。しかし、現実はもっと奥が深く、具象風景に心を震わせ、同時に抽象風景の中に美を感じる心の中にあるように思われます。

 私は、これからも意識して、この二つを自分の胸に抱き続けたいと思っています。 

 最後に、蛇足ながら馬場さんの美しい心は良く分かるが、抽象数や直線の方の美しさは良く分からないなあ、とおっしゃる方のために、世界で最も美しいと言われている公式を紹介しておきます。

 その名は『オイラーの公式』。

 準備として①πとe。この二つの数は非循環無限小数(さらに超越数)で、小数にすると無規則に無限に数字が続きます。π=3.141592……、e=2.,718281……です。次に② i 。この数は虚数単位と呼ばれていて、2乗すると「-1」になります。さてオイラーの公式ですが、それは

   『e iπ=-1』     です。

 「 iπ乗(アイ・パイ乗)? 指数に i(アイ)が入ったらどうなるの? 」と聞かないでください。

 それを気にすることは、馬場さんが鶏に気を取られて引き算ができなった状況と似ています。ここは抽象風景の世界です。数学は新築と増築はしますが、改築はしません。つまり、実数の世界の計算ルールを、そのまま iの入った複素数の世界に適用し、実数の世界は複素数の世界の一部という世界を造るのです。

 無限小数が指数に無限小数をi倍したものを持てば、また無限小数に虚数数単位を含んだ厄介な数になると思われるのに、可愛い「-1」になるところが美しいのです。

 証明はそれほど難しくはありません。ただし、オイラーはやはり天才でした。

 蛇足の蛇足ですが、高校程度の数学から、「オイラーの公式」の証明までを易しく解説した本に《吉田 武著「オイラーの贈物」東海大学出版会》があります。

 2010年1月の発行ですが、よく売れているそうです。購入者はリタイア世代の「抽象風景愛好者」だとか。リタイア世代万歳! 

 


ひきがえるの呟き

2011-03-21 | 随想

 今日は朝から雨。こんな日はいつもいそいそとパーソナル・チアーの沈み込み、本を読んだりうたた寝をするのだが、今日はそんな気にならない。福島の原子力発電所が心配で、ついついテレビの前にいき、ニュースを探してチャンネルを回すことになる。そこでだが、最近の民放は観ているとだんだん気が変になることに気づいた。これは私だけのことだろうか。 

 少し混んだ電車の中、妊娠中の大きなお腹が映し出され、「こころは誰にも見えないが、心遣いは誰にも見える」とナレーションが入り席を譲るシーンとなる。続いて老婆が階段を登るシーンとなって、「思いは誰にも見えないが、思いやりは誰にでも見える」というようなナレーション。例のACとかが提供しているコマーシャルが、洪水のように流されている。続けて2回繰り返されることも稀ではない。この10日間、あまりテレビを観ない私だが、何百回も見せられた気がする。そして最近では、これが始まると何だか気が変になる。「お前は、心遣いも思いやりも足りないよ。もっと優しい心を持ちなさい」と注意され、謝っても謝っても、同じ注意が続いているからだ。変になった頭の奥で「うるさい!」という声がする。そしてついに番組制作者に「お前たちこそ、視聴者への思いやりも心遣いもないではないか」と叫んでいる。まさに「上から目線」でなければこんな番組はできない。大震災以後、民放各社が置かれている経営環境についての概要は理解できる。しかし、それにしても酷い。「いっしょにあそぼ」というと「あそぼ」という、から始まる金子みすずさんの素敵な詩も、こんなに粗末に扱われては汚れてしまう。金子さんも「もう止めて!」といっている気がする。「公共広告機構」とか云っていたスポンサーもよく分からない。最近は「会員社の支援によって活動している」とかなんとか書いてあるが、これもよく分からない。 

 善意・良心・サービス・進歩というオブラートの中に、手段を選ばない利潤という毒が隠されていないか。大震災に見舞われた「円」は、ちょっと前までは安くなるのが、経済というものだったが、今日では最高値で推移している。これでは瀕死の病人の血を吸い取るようなものではないか。この陰にウォール街の投資ファンドの影が見え隠れしている。日銀もやがて瀕死の痛手を負うだろう。こんな時だからこそ安っぽい「上から目線」は止めて欲しいのだ。

 

 

 お口直しに「サクランボ」をどうぞ。といってもこれは「サクランボの花」です。数年前、盆栽仕立ての実のついたサクランボの木を買ってしばらく玄関脇に置いていたが、枯れそうになって庭の隅に下ろしたもの。大きくなって今年はたくさん花が咲きました。ついでに、満開の八重紅梅を2階の窓から撮りました。 

  


舞露愚事始め

2011-02-04 | 随想

舞露愚(ブログ)事始め 

 

 

インターネット上で溢れているブログに「愚かさを露出して、それでも、楽しく舞うもの」という意味を込めて、こんな字を当ててみました。その上、その愚かな舞を私も始めてしまいましたので、その経緯と効用を初心者の目で書いてみます。

ブログとは何のことでしょう。実は英語の造語で、インターネット(Wb)上で記録(Log)するという意味で初めはWb log(ウェブログ)と呼ばれていた分野が、いつの間にか短縮されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになったものです。ちなみにLogの意味は、①丸太、②航海日誌、③運転記録、などです。つまりログ・ハウスのログに日誌とか記録という意味もありました。しかし、これではまだ何のことか分かりません。手短に命名すれば「公開日記」のことです。

ブログの最大の特徴は筆者の匿名性と読者の不特定多数性ということでしょう。中にはタレントや政治家・評論家などが実名でブログを出している場合もありますが、圧倒的に多いのは簡単なプロフィールとニックネームで公開している人たちです。

作り方は簡単です。トイレット・ペーパーのような長い巻紙を思い浮かべて下さい。最初に、筆者だけが書き込めるようにパスワード決めて登録します。続いて、業者が用意した表紙の写真やページのレイアウトなど指定し、タイトル入力すると、自動的に目次や索引が表示されます。つまり、これだけでもう「公開日記」の装丁ができあがりました。後は、中央部分にお気に入りの写真を載せたり文章を書き込んだりすれば完成です。出来上がったブログは、インターネット上の巨大な無料公開図書館に並べられます。こうした図書館は世界中に沢山あって、例えばヤフーやグーグルにも日本語対応コーナーが用意されていまが、私はNTT系の「goo:グー」を使っています。実は、この図書館は上記の巻紙、つまり書き込むだけでカッコいい日記帳になるノートを無料で貸してくれるのです。業者は、ブログの両サイドに企業の広告を小さく載せ、その広告料で儲けています。

 

最初に書きましように、ブログは今、日本中に溢れています。最近の話題と言えば「毎日新聞英語版事件」でしょうか。「ちょっと見てよ。許せない!」とブログで若い女性が声をあげました。対象は毎日新聞社が海外向けに英語で配信している『毎日デイリーニュース』で、そこには「ファストフード店で女子高校生が性的狂乱」とか「息子の成績向上のために、勉強時間の前に性的関係をもつ母親」とかいう低俗な記事が溢れていました。最初のブログを見た読者が『毎日デイリーニュース』で確認し、自分のブログにも「許せない!」と書きました。こうして英字紙を気楽に読む女性たちの怒りは頂点に達します。「日本人を貶めている」「三大紙の一つが何たることか」。そんな中で「この英語版に広告を出している企業に抗議と不買のメールをしよう!」と呼びかける人が現れ、この提案が爆発的な支持を集め広告主へ抗議が殺到、ついに企業は広告掲載を中止します。ちょっとお粗末なのは当の毎日新聞で、事態の推移にまったく気づかず、どう対処すべきかも分からぬまま時間を浪費しました。労組の中には「報道の自由」を盾に担当のオーストラリア人記者を守ろうとする声もあったとか。途中で「毎日新聞は名誉棄損など、明らかな違法行為に対しては、法的措置を取る方針」という声明を出したから治まりません。炎はますます燃え上がり、結局、担当記者が懲戒休職3ヵ月、担当常務も減給となりました。この事件以後も「ブログ論壇」ともいうべき世界は盛況で、中国漁船衝突映像や米国公文書の漏洩事件も、こうしたブログ世界でのありふれた小さな出来事の一つと見るべきでしょう。[参考文献:文春新書「ブログ論壇の誕生」佐々木俊尚著]

 

それはさておき、現在一番多いグログは、猫や犬などペットの日常を紹介するもの、外食した料理を写真入りで論評したもの、自宅の庭の草花を自慢げに公開しているものなど、いかにも庶民的な自画自賛型のブログです。読んでいてそれほど面白くもありませんが、書いている人は多分ワクワクして書いているだろうなあと思えるものたちです。自画自賛型のブログは、あるいは、路傍の名もなき小さな草花にも似て、道行く人は誰も目にとめてくれませんが、一生懸命咲いている、と言えるかもしれません。そして私が始めたブログも、もちろんこの自画自賛型で、昨日こんな庭仕事をしたとか最近こんなことを思っているということを淡々と書いています。

 私は、自分のブログのタイトルと接続方法を、兄と子どもたち及び親しい友人に知らせています。千葉と兵庫に住む子どもたちへの近況報告であり、兄や友人への心境報告でもあるのです。ブログのいいところは、電話や手紙あるいはメールと違って押しつけがましくない点です。子どもたちは、私のブログを見ているのかいないのか、会ったときも直接話題にすることはありません。しかし、帰省して夕餉の食卓で杯を汲みかわしている時などに、突然「『聞く』と『訊く』くらいはきちんと使い分けてよ」とか「うちの生垣はイヌマキだよな」と言うのは子どもたちだし、「接ぎ木をした柿の木を見せてよ」というのは我が家に立ち寄った兄嫁です。こんな時、一瞬戸惑いますが、すぐにブログに書いたことを思い出し、なぜか訳もなく嬉しいものです。

 

 私がブログを始めたのは、近くに住む84歳の「野菜作りの師匠」に教えて貰ったからです。この人の職業は農業兼撚糸業、74歳のときにワードを覚え、「これは面白い!」とパソコンを購入、基本操作を自学自習。2年後にはブログを開かれました。私は数年前、この人と一緒にある仕事をしたのを機会に親しくなり、それ以後この人を野菜作りの師匠と仰ぎ、季節ごとに、播種・施肥・耕作と何から何まで教えを乞うようになっていました。ある時師匠が「わし、ブログをやっとるで、見てちょう」とのこと。見せて頂くと、農作業や野菜の生育状況が写真入りでていねいに書いてありました。とくに使った肥料の袋や散布した薬剤の瓶の写真などは、本当にありがたい教科書です。この人のブログの定期閲覧者は今では1000人を超えているとのことです。

 

 分析哲学の泰斗大庭健氏の著書に『私はどうして私なのか』(岩波現代文庫)という名著があります。私たちの世代は、自我について、デカルトの「われ思う、ゆえに我あり」から始まると教わったものですが、どうやらそれは間違いのようです。詳しくは本書に譲るとして、正しくは、まず他者の存在を認識し、その他者が自分をどう見ているかを考える中で自我が芽生える、というのです。つまり「他者あり、ゆえに我あり」だというのです。世俗を捨て、孤独を愛し、独自の美意識の中で日常を過ごそうとする自我も、実は他者の存在を意識しての自我であるという指摘には、重いものがあります。「人間は社会的な存在である」と言われる所以です。

悪化する自分の病状を克明に報告しているブログもあります。ブログを始めたら、草花や昆虫を見る目が冴え、日々が発見の連続であると書いている高齢者のものもあります。そうしたブログには出会った時は、自ずと頭が下がります。

 私たちの世代は今、未だ経験したことのない年齢を積み重ねながら毎日を送り、そのことを意識する年齢になりました。その上、私たちを取り巻く「世の中」は世界的な怒涛にさらされ大きく変貌しつつあります。そしてこの変貌は、誰の性でもないのに、私たちが今まで安心して身を置いていた「人の(ぬく)もり」という台地を揺るがし、身を寄せていた「常識としての価値観」という柱さえ引き抜こうとしています。こんなとき「ブログを書く」ということは、改めて自分の毎日を確認し、時には鳥の目で自分を眺めて見るということ役立つのではないか、毎日充実呼び寄ないか、と考えています。ブログ更新200閲覧者訪れてくだってい

これからブログをお始めになる会員の方、もしよろしかったらそっとアドレスを教えて頂けませんか。私もお教えします。

 

(本稿は、所属する同好会の機関紙に寄せた一文を、一部加筆・修正したものです)

 

 


あゝ 耕作放棄地!

2010-10-07 | 随想
                   
                    
                   

 上の写真は今日私が除草薬を散布してきた「耕作放棄地」です。

 

 かつて畑であったところが雑草で覆われていますので、年4回、草刈りまたは除草薬の散布をしています。最初が4月下旬、次が6月下旬、そして9月の中頃と11月下旬です。隣の畑が耕作地の場合は草刈りを、そうでないところは6月と9月に限り除草薬散布をしています。今年は9月になっても猛暑続きであったので9月分が今日までかかりました。一回の作業を終えるのに1週間から10日かかります。この作業は私にとってかなりの重労働で、毎回憂鬱な気分になりますが、自分に課せられた義務だと観念して続けています。

 

 少し前までは「休耕地」と呼ばれていたものが、いつの間にか「耕作放棄地」と呼ばれるようになりました。マスコミのネーミングでしょう。しかし、私はこの呼び名に本質を見誤った悲しい響きを感じています。せめて「耕作断念地」と呼んで欲しいと思いますし、もっと言えば「落涙断腸地」です。たった10年ほど前までは「休耕地」を耕してくださる人が近所にいました。もちろん「お礼」などなしで「どうぞどうぞ」と使っていただいていました。しかし耕作者の高齢化に伴い返却され、その後の耕作を希望される人がいなくなったのです。

 

 何百年にもわたって、地域の人々や我が家の先祖が、懸命に護り耕してきたこれらの農地、多くの人の命を支えた豊穣の農地を、かくも無残な姿にしている現代という時代や自分に慙愧の念を禁じえません。有効に使って下さる人がいたら大いに使って頂きたいと思っていますし、お譲りしてもいいとも思っています。しかし、農地は法律上自営農家しか買うことができないそうです。でも、この地域では自営農家はもうほとんどありません。その上、農地には家も工場も建ちません。その意味で農地は「再利用不可地」と呼ぶべきでしょう。農地は今や溶かすことが禁じられた金属ゴミです。法律が地域の実情や時代の変化に合わなくなっていて、土地という貴重な資源が再生不能なゴミになっています。私はこのゴミのために固定資産税を払い、ご近所にご迷惑をおかけしないように草を刈り、そっと薬剤を散布しているといえなくもありません。


                                               

  上の写真は、今日除草薬を散布した畑の東側の境界で、竹藪になっています。ここは最近竹藪になってしまった道路(道路予定地?)です。しばらくすると竹との戦いが始まるかと思うといよいよ憂鬱です。

「巨大シッポの妖怪魚と愛くるしい稚魚たち」(前篇)

2010-08-06 | 随想
「巨大シッポの妖怪魚と愛くるしい稚魚たち」
(所属の研究会編集部から急遽穴埋めを依頼され書きました)

6月26日、友人に誘われるまま、彼の車に乗せてもらってある講演会に出かけた。会場には500人ほどの聴衆がいて、ときどき爆笑が起きる楽しい会であったが、今思うと、私はそこで安眠妨害の毒を盛られてしまった。講師が語った次の二つのことが気になってしかたがない。

 《歴史上、最悪の王様も極貧の貴族も、石炭よりも小麦が安いからといって、ストーブで小麦を焚いた人物はいなかったし、小麦用のストーブを開発した職人もいなかった。 
 小麦は食糧だからである。
 それなのに今、アメリカではトウモロコシからバイオ燃料をつくる大工場を幾つも建設している。これが米国の農家の所得向上と脱化石燃料社会への移行を推進する一石二鳥の政策だという。しかし、これによってアフリカでは餓死者が急増し、対策を急いでいるが、実は打つべき手がない》
 《日本は世界に冠たる食糧輸入国であるが、輸入した食材を調理したあと残飯として捨てている国としても世界のトップクラスに入っている。食堂で、レストランで、コンビニで、各家庭で膨大な量の食べ物を捨てている。しかし、計算上とはいえ、この廃棄食糧で全アフリカの乳幼児餓死者を救うことができる》

 確かにどこかがおかしい。決定的におかしい。私自身についていえば、サブプライムローン不況とかで、就活中に卒業式を迎えてしまった高校生が膨大な人数になるという記事を読んだとき、胸が引き裂かれる思いがした。彼らに何の落ち度もない。何の落ち度もないフツ―の若者が大量に突然地獄に投げ込まれた。しかも世界的な出来ごとであった。解雇された労働者も数百万人にのぼりその家族も地獄に落とされた。有史以来のどんな天災よりも大きな災害で、失われた富は第二次世界大戦の損害を上回るという記事を読んだこともある。
 寝苦しい夜、浅い眠りの中で盛られた毒が効き始め、うなされてしまう。講師は数年前まで名大院で資源材料工学を教えておられた教授で、政府の審議会や専門委員会の委員を務められた人だ。先生は何度も《ソロバン勘定がすべてに優先する社会が、それほど長続きするはずがない》といっておられたが、この「長続きするはずがない」という言葉が私を苛(さいな)む。
 確かにどこかがおかしい。決定的におかしい。私自身についていえば、サブプライムローン不況とかで、就活中に卒業式を迎えてしまった高校生が膨大な人数になるという記事を読んだとき、胸が引き裂かれる思いがした。彼らに何の落ち度もない。何の落ち度もないフツ―の若者が大量に突然地獄に投げ込まれた。しかも世界的な出来ごとであった。解雇された労働者も数百万人にのぼりその家族も地獄に落とされた。有史以来のどんな天災よりも大きな災害で、失われた富は第二次世界大戦の損害を上回るという記事を読んだこともある。
 半醒半眠の脳の中で、幾つかの言葉が浮かんでは消える。サブプライムローン、債権の証券化、金融商品と金融工学、商業から産業を経て金融に入ったとかいう資本主義、金融ビックバン、金融立国アメリカ、などなど。これらはつまり何なのだ。
 軽い頭痛を覚え、ため息混じりに「今夜も熱帯夜だ」と呟いて寝返りをうつと、突然これらの言葉に関する幾つかのパロディを思い出す。

 《金融というのはお金の流れ、経済活動(実物経済)を魚にたとえると金融は尻尾。尻尾が正常な時には魚はスイスイ泳いでたくさん餌を食べ大きくなる。つまり世界が豊かになる。ところが最近は尻尾が巨大になりすぎて、尻尾が少し振れると体の方がガタガタ揺れて、魚は前へ進まず沈んでしまうんだ。つまり失業者が溢れる世界同時不況。》
 《どうして尻尾の巨大化が進んだかというと、アメリカが増え続ける貿易赤字に困って、資本移動の自由化=「金融立国」政策をとったからさ。世界に出て行ったドルを取り戻すために「金融商品」を売り出して世界の金融機関や資産家に買ってもらったんだ。話題のサブプライム・ローンも、「債権の証券化」という手法で売り出された》
 《債権の証券化とはね、つけで飲んでいくお客の多い飲み屋の女将が、お客への請求書をいろいろ混ぜて幾つかの束に分けて、金持ちに売ることなんだよ。金持ちは請求書の束を安く買って額面通りの金額を回収すれば儲かるし、女将は現金が入って次の仕入れができるというわけ。問題は焦げ付きね。サブプライムの場合は、品のいい紳士(権威ある格付け会社)が出てきて『焦げ付きは少ないですよ』というものだから、世界の銀行や年金基金などが買ったわけ。ところが焦げ付きがひどい。あとで調べたら出てきた紳士は女将のイロだったわけ》
 《金融商品の開発には、NASAで働いていた数学者や大型コンピューターが動員され、顧客のために低利でお金を貸してくれるノン・バンクや、損をしたときに支払われる保険まででき、その上先ほどに紳士が保証したりで、至れり尽くせりの業界を創った》

 ここで突然あのケインズ先生が言った「金融業界にあっては、情報を知っている人はそれを公に書くことはできず、書くことのできる人は情報を全く知らない」という言葉を思い出す。つまりは賭け、ウォール街は今や先物取引に狂奔する巨大な賭博場と化している。
 猫の目のように変わる円相場に一喜一憂し、小さなギリシャ政府の財政不安が日本の派遣労働者の生活を破壊する。こんな理不尽・不条理が世界を覆っていて、その上、確たる改善策が全く見あたらない。現在の処方箋は、取り合えず基軸通貨としてのドルを守るために、先進国中央銀行の協調介入と公的資金の投入なのだが、これがまたジャブジャブ通貨(実物経済の数倍にもおよぶ流通通貨)の元凶で、賭博資金の供給源になっている。
 人類の英知が生みだした『信用通貨』だったが、その中に孕まれていた鬼子は、いまや巨大な『投機マネー』として育ち、制御不能な悪魔となって、アジアやロシアの通貨を弄び、先物取引で石油を食い荒らし、穀物を手玉にとり、敵対的買収という手法で大企業さえ獲物にしている。餌食になった会社は投資ファンドに経営権を奪われ、リストラと資産売却によって増配、株価が上昇したところで売り抜かれてしまう。後に残るのは破壊された地域経済とやせ衰えた会社のミイラだけである。このありさまはもはや、トゲトゲの巨大な尾をもつ妖怪が、雲に乗って人々の住む上空に現れ、暴れまわっている風景に似ている。
 世界経済のダッチ・ロールと呼ぶべきか、いや地球規模での地殻変動、地球上のすべてのプレートの境界で、すべての海溝・トラフで歪が蓄積し、一触即発へと突き進んでいるというべきか。

夏には下駄

2010-06-23 | 随想
夏には下駄がよく似合う。庭に出るときは言うに及ばず、自転車に乗るときも下駄はぺタルによくフィットしてくれる。
 昨年の秋、愛用の下駄の鼻緒が切れた。ところが、どこの店にも鼻緒がない。やっと見つけた店にも下駄はあったが鼻緒はなかった。この下駄は数年前平湯温泉へ行った帰りに高山市で買ったものだから、鼻緒を買いに高山へ行こうかとも思った。
 今年も梅雨に入って焦った。そして藁にもすがる思いでネット通販を探し回った。女性用の浴衣と下駄のお店はたくさん見つけたが、鼻緒だけの単品売りはない。
 諦めようとしていた矢先にやっとヒットした。しかも納得の価格。すぐ発注した。販売は広島のお店であったが、翌日には宅配された。日本はなんとステキナ国なんだろう! 早速鼻緒の付け替え作業をした。自然に鼻歌が出る。前の部分は、座金を噛ませて針がねも使い独創的な方法で留めた。今年の夏も楽しくなりそうだ。
 鼻緒が切れたから、新しい下駄を買うということだけはしたくない。

 

鳩山さんの辞任演説を聞いて

2010-06-04 | 随想

 写真を3枚並べることに挑戦しました。まだ私にとっては難しい仕事でした。何とか並びましたが、大きさがそろいません。なお、この写真は今朝庭で撮ったもので、家内の丹精によるものです。

 

 ところで、昨日、民主党の両院議員総会での鳩山さんの「辞任の弁」をテレビで見ました。しかし、どうも私の心に響くものがありません。何をいまさらと言うか、言い訳がましいというか、とにかく、なよなよしい限りでした。そのうちに、ああ、この人も「草食系の人なんだ」ということに気がつきました。

 以前に、一般的な、女性と男性の会話の違いを書いた文を読んだことがあります。女性の場合は恋人に「逢いたいのだけれども、急な仕事が入って、時間が取れない」ということは是非伝えたいことなのだけれども、男性の場合は、結局逢えないのだから、そんなことを伝えても仕方がない、と思うというのです。女性の場合は「気持ち」が大切であるのに対して、男性の場合は「事態」が大切だということができます。その意味で、鳩山さんは草食系=女性的と言えるかもしれません。

 政治家やリーダーと呼ばれる人に草食系は不向きです。問題は、最近の日本では、議員をはじめ世の評論家と称する人が、やたら草食系好きだ、という点にあると思います。断って置きますが、小沢支持などという次元の低い話ではありません。

 私たちの手もとに届く情報は、テレビも新聞も週刊誌も、すべて編集されたものであることを考えると、いつの間にか日本では、ほとんどの編集者が病的なまでに「草食系好み」になっていること、このままではよきリーダーは育たないということに、私たちは注意すべきだと思います。


気の重い朝の光景

2010-05-28 | 随想

 その日の朝、私は友人とちょっとした散策に出かけるため彼を迎えに車で出かけました。彼の家はある中学校の正門前にあり、大勢の生徒たちのはつらつとした登校風景を久しぶりに眺めることができ、最徐行しながらも、明るい気分で生徒たちに声援を送っていました。正門前には二人の男の先生が立っておられ、生徒たちに大声で「おはよう!」「おはよう!」と言っておられました。
 友人の家で、彼が用意をして出てくるまで奥さんと立ち話などをして「お宅のお孫さんは遅刻ゼロですねえ」と私。「いいえ、いいえ、それが毎朝大騒ぎですのよ」と奥さん。
 彼が出てきたころには生徒の流れはすっかり途絶え、5~6mおきにパラパラと、二人また一人と来るほどになっていました。そのとき門の方から大きな声が聞こえてきて、振り向くと「おーい、急げ! 遅刻になるぞー」と何度も先生方の声。
 ところが、それを聞いて走り出す生徒も、急ぎ足になる生徒も一人もいません。今まで通り、おしゃべりをしてゆっくり歩いている生徒や下を向いてとぼとぼ歩いている生徒ばかりです。先生の声が聞こえていないはずはありません。私は、本当にびっくりしました。生徒たちにとって先生方の声は、あたかも電車の通過音と同じ騒音以外のなにものでもない様子だったのです。

 やっと出てきた友人に「おい、今の中学校はこんなんか」という私に、彼は「ここ数年かなあ、ひどいもんだ。とくに女子生徒がいかん。ふてくされた奴が多いよ。男の悪はまあ走るが、女の悪は無視だ」という。そう言われて校門の方を見ると、先生方は相変わらず「おはよう!」と言っておられるのに、遅れてきた生徒の方はプィと横を向いて、ゆうゆうと門を通り抜けています。私の気持ちはアッという間に、暗い洞窟の中に落ち込んでしまいました。
 どうなっちゃったんだ。この子たちの学校生活が楽しい筈はない。何とかしなければいけないのだが、何をどうすればいいのだろう。第一、中学校で先生が校門で「おはよう!」などということには、どこか欺瞞があるのではないかという気がします。全校生徒に「おはよう!」といい合うほどの人間関係がある先生などいるはずがない。その欺瞞を生徒たちはどこかで見抜いているのではないか。そして同様の欺瞞が学校の中に溢れているのかもしれません。
 しかし、この視点も甚だ軟弱です。集団教育の中にはある種の「方式」があって、その「方式」は、自己を確立しようと模索している年代の子どもたちにとっては、すべてが欺瞞と見えるのもまた事実ではないでしょうか。
 こんな全体的な問題ではなくて、生徒の個人的な問題かもしれません。生徒の成育歴や最近起きた家庭内の問題が起因しているのかもしれません。
 私は暗い洞窟でもがくばかりでしたが、いずれにしても、後回しにせず大人たちが今直視しなければならない問題だと思います。


「ご先祖様の人数」について

2010-05-18 | 随想
最近ある機関誌の依頼を受けて書いた随想を転記します。この機関誌には「視点・論点」「木葉木莵(コノハズク)の呟き」などの項があり、この稿は「コノハズク=森の老賢者」に寄せたものです。


「ご先祖様の人数」のお話

 先月は偶然にも親戚の法事が二度もあり、大切な日曜日がつぶされました。毎日が日曜日の身とはいえ、日曜日には特別な予定や思いがあることに変わりはありません。

 最初の家でお目にかかったお坊さまは、お見受けしたところ傘寿を超えた高僧で恰幅もよく、低音の読経も家中に響き渡っていました。読経が終わったらお坊さまが着替えをされ、みんなが揃ってお墓参りに出かけるのがこの地方の慣例ですが、この日はお経のあと短いお話がありました。
 「今日はみなさん、お忙しいところを、こうやってお参り下さって、いい供養をしてちょうだぁしたなも」から始まって、要するに私たちが今生きているのはご先祖様のお陰で、そのことに思いを馳せ常々感謝しながら毎日を過ごさなければならない、というお話でした。
 「一人には二人の親がおり、その親にもそれぞれ二人の親がおり、そのまた親にも二人の親がござるわけで、ここまででも2×2×2で、8人の人の血が私らあの体に流れておるわけで、そのうちの誰が欠けておっても今の私らはここに居らんわけだなも。こうやって、まあ10代遡っただけでも、2×2×2と2を10回かけんならん、そうすると1024にもなるそうで、そう考えると命というものは本当にありがたいものですわなあ」と続きました。2の10乗は確かに1024です。このころから私は少しむっとしてきましたが、曹洞宗の老僧に免じて、不快を顔に出さないように努めていました。

 ところが二週間後の日曜日に出かけた二軒目の親戚でも同じ話を聞かされました。こちらは浄土宗で、このお坊さまは30歳代後半で、5年ほど前会社員をやめて親の後を継いだ人でした。なにしろ2を10回かけて1024になるところまで同じでした。

 「ちょっと待って下さい」と言いだしそうな衝動を抑えるのに、どんなに苦労したことか。お行儀よく聴いている中学生や高校生もいるではないか。こんな話を聞かせてこの子たちの人生が間違うかもしれないぞ、と思ったものです。
 これは多分、宗派を超えた仏教会のような機関が、遅ればせながら布教の一環として、年忌法要の機会を捉えて檀信徒に話すべき小話のマニュアルを作ったのではないか。そこに10代遡って1024の話が載っているに違いない、と思いました。

 もしそうだったとしたらお粗末なマニュアルだといわなければなりません。1代を30年として10代で300年です。この計算で2000年前まで遡るとご先祖様は、2の66乗(2000÷30=66、6……。以下少なく見積もるためにどんどん切り捨て)ですから、ちょっと対数計算をして少なくとも1000京(京は兆の一万倍)を超えます。現在の世界人口を70億として、この数は現在の人口の10億倍以上、多分すべての人が平野に立っているだけでも海にこぼれる程の人数でしょう。なにしろご先祖様の誰一人が欠けていても今の私たちはいないのですから。さらにいうと、一人のご先祖様が1000京人です。このマニュアルを作った人はこんな簡単な矛盾に気がつかなかったのでしょうか。対数(普通なら高校一年生で学習)がちょっと苦手であったとしても、アダムとイブの子孫が現在の人類だとする教義と対抗するわけだから、それに備える論理が必要だ、くらいの問題意識があって当然です。

 掛け算が使えるのは「重なりがない」場合です。小学校で教えるときの最留意点です。
「従兄結婚」はいうまでもなく、何代遡っても血縁でない婚姻の場合のみ掛け算が利用できますが、狭い島や村の中で何百年もの間営々と守り継がれた民族の歴史の中で、そんな婚姻は不可能です。さらに民俗学が明らかにした、外からの血を求めての「鬼祭り」や「旅人接待」の習俗に思いを馳せれば、1024の怪しさにすぐ気づくはずです。これをもとに、仏教会の硬直化や退廃にまで言い及ぶのは乱暴でしょうか。それでも仏教フアンの私としては、何とかして欲しい気持ちも強いのです。

 実は、若い方のお坊さまは親の代からよく知っている人で、気軽な間柄でもあります。
二軒目の法要を終えた日の夕食時、私は思い余って家内にこの話をしました。そして思い切って若和尚に進言しようか、とまで言いました。しかし家内は即座に「止めなさい!あなたの話はいつも角々している。ありがたいお話じゃない。誰もあなたのようなことは考えていないわよ」といいました。こうなってはもう断念するしかありません。
 この話題は「木葉木莵の呟き」にも不向きだったかもしれません。曲げて「ヒキガエルの呟き」ということでお許しを頂きます。