かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

寒波到来。

2018-01-28 | 気ままなる日々の記録

 第1日目は、朝から晴れて、とても、予報のように雪が降るとは思えない天候であった。日差しも明るく春近しという感じさえあった。

 お茶会の後で中庭に出てみると、ちらちらと雪が舞い始めたが、風に乗ってくる雪のようであった。日は出ているし空も青かった。ところが、その1時間後、辺りが急に暗くなり、近くの景色さえ見えない程吹雪交じりの雪が降り始めた。皆廊下の窓際に集まりワイワイと雪見物となった。

 裏日本の舞鶴からの方も見えたので「久しぶりの雪で懐かしいでしょう」と、訊いたら暫くして微妙な答えが返ってきた。「この辺の人々は、雪が降ると大騒ぎをして、見に来るがそんなことはしない。誰も雪が降ったとも言わない、酷い時は、12月から、2月まで毎日のように降る」とおっしゃる。もう生活の中に溶け込んでいる様子でとんでもない愚かな質問をしたと恥ずかしかった。

  

 寒波到来三日目、また雪が舞った。予報では最高気温3℃と報じていた。お風呂のヘルパーさんは、道路が凍っていつもは30分の道のりが、今日は1時間30分もかかったと、ぼやいてみえた。

 昼前3℃の気温はどんな寒さか気になってカメラを持って外に出た。想像以上に寒かった。

 シベリアのサハ共和国では-70°C を記録したと云っていたが、どんな寒さだろうか。

  

                 残雪と池の氷。

 


自問自答の楽しみ。

2018-01-28 | 気ままなる日々の記録

  いい歳とは言えまだしばらくは思考力は残されているようで、1日24時間個室のベッドに横たわって気の向くままに考え事をしていると、結構楽しいものである。こんなことを呟いていると、毎日会社にでかけ、会社の利潤向上のために働いておられる若い人に叱られそうですが、まあお許しいただいて年寄りの独り言を聞いてやってください。ここ数日無い知恵を絞って考えていたテーマに「5~6千年前、アジヤ大陸に麦を栽培する農業が普及して、収穫した麦を粉にし貴重な食料にする文化が普及したのだが、アジヤ大陸の東側では、それが、うどんになり、西側ではパンになった。この違いは何処から生まれたのだろう」と云う疑問だった。

 広大な大陸の東ではうどん、西ではパンに加工された。そしていずれも人類にとって大切な食料の王様にまでのし上がった。小麦をすり潰し粉にするところまでは同じであったのに、どこでどう別れて一方はうどんになり、他方はパンになったのか、そこが分からなかった。今日的にはこうしたことを研究する分野を「文化人類学」というのだろうけれど、オソマツ君の若い時分にはそうした視点は無く、ただ時代区分によって縄文時代から、やよい時代に入りやがて、鉄器時代とともに中央集権的な小国が乱立し戦争を繰り返し巨大な王朝国家が出現した。と云うように教えられた。いわゆる「狩猟採集の時代」である。

 

 ところで、昨夜ふと気が付いたのだが、当時は横穴式住居で、人々は急峻な山のふもとに自然にできた横穴の奥に入って雨や風をしのぎ、穴の奥には常に火を焚いていて暖をとり、食べ物を煮たり焼いたりしていた。人々にとって大切なものは各家庭で守られていた火種であったと思われます。ところで、パンとうどんの違いを生んだ自然条件は、昨夜ふときずいたのだが、近くで石炭が沢山手に入ったかどうかであったのではないだろうか?此の点ヨーロッパの方は炭田が豊富で案外簡単に石炭が手に入り、調理も「焼く」調理法が普及しアジヤの方はアジヤモンスーン地帯を中心に薪としての枯れ木を転移入れることが容易で煮る調理法が中心になった。一方石炭が身近にある過程では簡単に焼くことができます。従ってヨーロッパの調理法は焼くことが中心になり、ステーキが中心になったのではないかと思われます。一方アジアでは、同じ牛肉でもステーキするのではなく鍋で煮ていただきます。今のところパンとうどんの違いを生んだのは石炭の有無だったろうと考えています。蛇足ながら、其処の浅い鉄製の鍋に牛肉を入れ野菜やこんにゃくをいれたものを「すき焼き」と云っていますが、その名前の由来は知りません。料理の呼び名は地方によっていろいろあって、面白い。お正月の「雑煮」にアンの入った餅を入れる地方があるそうで、面白い。これについてのエピソー度は次回に書きます。以上。

 

 

 


初雪に思う。

2018-01-25 | 気ままなる日々の記録

 

 

雪やコンコン

霰(あられ)やコンコン

 

降っては降っては

ずんずん積もる

犬は喜び

庭駆け回り

ネコはこたつに

丸くなる。

 

 一昨日今年初めての雪が降った。僕は子供の頃から雪が降るのを見ていることが好きだった。

「雪は3,000m上からのラブレター」と云った人がいたが確かにそんな気もする。ラブレターと云う言葉に含まれる暖かさが、雪にもあるように思われる。

 

 僕が子どもの頃覚えた歌にはそれなりの、子供らしい情緒があったが、今の子供たちの歌は、アニメか漫画か知らないが、ケンカモノや戦争ものばかりで、全く美しい情緒がない。

大宅荘一氏だったか、民放が始まったときだったかに、一億総白雉化が進むと云っていたが、まさに、その通りになった。日本には、

奈良時代、平安時代に育まれた日本的情緒があったが第二次世界大戦に敗れてからあっという間に、

下品なアメリカ文化に汚染され、何かと云うとすぐに若い女性が短いスカートの下からパンティーストキングの

太い足を出して踊るステージ映像ばかりになった。

 戦争に負けるということはこういうことかと惜しまれるが、思えば同じ敗戦国でもドイツは二度の敗戦によっても独自文化を 見失っていないように思われる。

 平安の時代に開花した、もののあわれに通ずる日本文化、ソシテ室町時代の茶の湯文化こそを大切にし、世界に誇れる日本文化を育み我々が育てた平成文化を次の世代に受け渡し軽薄なアメリカ文化を駆逐し心静かに人生を見つめる日本文化を育てそうした落ち着きと深みのある文化を次の世代に渡したいものである。

 此処でのNHKの役割は重いと思われる。蛇足ながら、ここで

始めてアメリカに勝つことになると思う。(T)

 

 

 

 

小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-
                             島崎藤村

小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど          野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず          歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の           岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」     -落梅集より-
                             島崎藤村

昨日またかくてありけり         今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)      明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の          消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば          砂まじり水巻き帰る


火災発生か?

2018-01-25 | 気ままなる日々の記録

   寒い日の夜明け前のことである。夢うつつの中で、隣の部屋のテレビの音がやかましいなと思いながら、うとうとしていた。だんだん意識がしっかりしてよく聴いていると、テレビの音ではない。廊下へ出て聞くと火災報知機が作動し「火災が発生しました、急いで避難してください。」といっているではないか。

 夢の中にいるような気持ちで本当であってほしくない気持ちと主人をどうして連れ出そうかと云う気持ちとあいまって、とりあえずケアーさんの指示を仰ごうと待っていた。ところが、こういう時に限ってなかなか現れない。

 いつも訓練の時に云われている非常口へと云う言葉を思い出して、非常口近くへ行っても70代の女性が一人いるだけである。非常口のランプは相変わらずせわしなくフラッシュを続けアナウンスの方はいつの間にか止んでいる。

 やっと現れたケアーさんは海外からの方で、「心配ない、心配ない」というだけで話を聞いてもよく分からない。エレベーターもとまり誤報らしいということを個人的に聞いただけで、何の説明もない。

 20人以上もいる5階の入居者も誰も出てこない。寝ていてきこえなかったのだろうか。聞こえても理解できなかったのだろうか、今までの訓練が、少しも生かされていないことを、感じた。 

   誤報後の説明がないことも落ち着かないし納得がいかない。


世界は広いようで狭い。

2018-01-14 | 気ままなる日々の記録

野菜不作の証明

  年も押し迫った大晦日に、珍しい人の訪問を受けた。一人は親戚の同世代のひとであるが、もう一人はその孫である。孫の方は小さいときから、親に連れられ海外から、一時帰国するたび我が家にやってきていた。主人が孫の父親が就職するとき保証人になったからである。律儀な人で、年に1~2回は挨拶にみえた。孫の方は徐々に遠のき15年ぶりの再会である。海外育ちのため学校は全て英語で、日本語がおかしくなったとき、主人が手助けして近くの日本の学校へ2か月ほど通ったことがあった。

  現在は単身で米国に住み、フロリダにある大学に通っていた。あるとき、日本へ一時帰国をし、再び米国へ入国しようとしたら、入国拒否にあってしまったというのである。それだけではない。まるで法に触れたような扱いを受け中東のドバイまで、送られてしまったのである。

  言葉の都合もあり、米国でプロゴルファーを目指して頑張っていたが、それは、むりなことになり日本で就職を決めたそうだ。

  トランプ大統領になり、いろいろな政策が打ち出され、自分の身近なひとまで、影響を受けるとは、思ってもみなかった。

 生後6カ月からの、海外生活なので、きっと日本語は、読み書きに置いて不自由なことがあると思う。

 逞しく、日本に慣れて行ってほしい。(E)

    


江戸時代の人々の豊かな感性。

2018-01-13 | 気ままなる日々の記録

  今手元に「旬を楽しむ”日めくり七十ニ候”」という文春文庫があります。

 この本によると、1月14日は「寒九の水汲み」といって、小寒から数えて九日目に雨が降るとその年は豊作になるという縁起のいい雨が「寒九の雨」そして、

 寒九に汲んだ水は清く澄んでいて飲めば薬になると云われ、日本酒の仕込みや化粧水や紙すきに用いられてきたといいます。

 これらは、多分江戸時代に生まれた農村の伝承文化でしょうが、こんな言い伝えに一喜一憂して励まし合い笑い合って暮らしてきた江戸時代の農家の人々の生活の知恵に敬意をはらうことなく、

 「野蛮な迷信を信じて」などと切り捨てる資格が現代のわれわれにあるのだろうか?と思われます。

 「寒太郎(寒の初日)に寒いと夏は日照りになる。「寒四郎(寒の四日目)に晴れると豊作になる」と云い伝えはさまざまでした。

 これらを、「迷信」と切り捨てるのは簡単ですが、過酷な条件の中で、何かと理由をつけて、豊作を祈り日々に希望を繋ぎ努力してきた、農民たちに思いを寄せたいものです。

 以上参考文献は文春文庫旬を楽しむ「日めくり七十ニ候」白井明大著です。失礼しました。(T)

 

コメントを下さったT・Sさま、

 日本もアメリカも、都会の中にもっと豊かな自然を感じさせる公園を作るべきだと思いますが如何でしょうか。

 勿論公費で、都市計画の骨としての公園です。

 赤外線カメラを至る所に設置し犯罪を未然に防ぐ設備を有する公園です。

 勿論費用は高額ですが、そうした設備のある都市は人気が出て地価も上がり十分ソロバンが遭うとおもわれます。

  問題は行政と住民に豊かな発想力があるかどうかだと思います。

 公園のあちこちに小さなアンテナを立てて、散策する市民に向けてBGMを流すサーヴィスもあるといいですね。

  市民が健康になって、健康保険の自治体負担額が減少し八方よしだ、と思われますがいかがでしょうか?(T)


初雪を顔一杯に受け止め「今年は端から縁起がいいわい」

2018-01-12 | 気ままなる日々の記録

 ここの施設では「お茶会」と称して1階のテーブル席で御饅頭とお茶が振る舞われる。

今日もいつものようにオソマツ君は妻君と一緒に出掛け、舞鶴ご出身の書家と話し込んでいた。

午後4時ごろだったが、もう夕暮れを思わせる程外は薄暗く寒そうな気配だったが、 思い切って、蓮池に出て、板張りの回廊を巡った。

 さすがに風邪は冷たくすぐに身震いするほど背中が冷えた。 そして粉雪が舞った。こうなると、オソマツ君の童心が騒ぎ、 この雪を顔面で受けて時々舌で雪を舐めてみたくなる。

自然に童謡の「雪」が口をついて出る。「雪やコンコン霰やコンコン降っては降ってはずんずん積もる、 犬は喜び庭駆け回り、猫はこたつに丸くなる」と、うたいながら空を仰ぎ口を大きく開けて雪を口で受けて舐めていた。

 10分もそうして遊んでいただろうか。背中が寒くなって身震いした。 これがオソマツ君にとって一番悪い事態である。体が体温を逃がさないように反応して血管を収縮させると、 その瞬間に血圧が急上昇するからだ。

それに気が付き急ぎ建物の中に逃げ込んで、一息ついた。 おもむろに体を動かしてみたが異常はなく、ホッとして部屋へ逃げ帰った。

 80歳の老人が子どもに帰ってこんなことをしていて、体にいいわけがない、と反省頻り。 それでも何事も起こらずよかったと内心よろこんでいる。

 書家のご子息は名大の医学部ご卒業で、尾張北部の大きな病院の院長さんだ。

オソマツ君は受験野郎で、名大の医学部がどんなに難しい大学かということを良く知っている。 書家のご子息は舞鶴の高校からこの名大にこられたのだ。

 僕が其れを云うと、息子は家内に似たのだろうとさりげなくおっしゃる。ここが書家の偉い所だとしみじみ思った。

 

 

 


大丈夫か?トランプさんのアメリカ?

2018-01-11 | 気ままなる日々の記録

  アメリカ・ファーストで大統領になられたトランプさんだが、前政権が牽引してまとめたTPPから、真っ先に脱退したりして、これでは世界のリーダーとは言えない。

 アメリカの飼い犬のように忠誠を誓っている日本はもはや独立国とは言えないのではないかと思います。

猛獣がうごめくジャングルで銃もピストルも持たず、丸腰で立っておられるのでしょうか?

 日本人は観念論が好きで、理想を掲げて自己陶酔におちいることがすきで、極めて危険です。

 ついこの前まで「八紘一宇」などとわめいたのは、何処のくにだったでしょか? 「建て前」や「観念論」に溺れることなく肉食動物が沢山住んでいるジャングルにあっては 常にピストルと機関銃で身を守り、逃げ足を早くするための訓練を怠らず、用心深く生きる道を考えるべきだとおもいます。

 非武装中立は肉食動物が居ない草原での生き方で、寅やライオンや大蛇がうごめくジャングルでは空理空論だと思いますがいかがでしょうか?(T)

    


全宇宙の始めについて。

2018-01-11 | 気ままなる日々の記録

 ただ今1月11日[木]午前2時41分、ここの施設の5階の廊下を東に進んだ付き当たりの窓から仰角22,5°方向に満月が煌々と輝いていて感動!

 乏しいながらも太陽。地球。月の位置関係を思い描き、ようやく「多分こんな位置関係だろう」という構図がイメージできやっと部屋へ戻ったところです。

 御蔭で骨の髄まで冷えて、急ぎ布団にくるまりたい衝動にかられ、ガタガタ震えています。

もう少し文学的才能があったら、寒空に浮かぶ月を見た時の感動をここに書くことができたでしょうが、

残念ながら美しすぎて言葉が出ないありさまで、急いでこの駄文を認めているところです。シツレイシマシタ。続く。(T)


大晦日

2018-01-04 | 気ままなる日々の記録

  60代までは、私は大晦日は紅白歌合戦を始めからゆったりと観たいと思っていた。この夢はなかなかかなわず、いつも風呂掃除とかトイレの掃除が残ってしまい全部かたづけてから見始めると8時過ぎになってしまった。

  此処に入居すると新年を迎えるための仕事もなく、夕食は6時頃出てくるので、十分に時間がとれる。そうなってくると、皮肉なもので見たい気持ちが薄れあまり夢ではなくなってきた。

  昨年も暫く見ていたらあまり楽しくなくチャンネルを変えて「もう一つのショパンコンクール」と云うのを見た。

 今年はと云うと、伊藤英明大シベリアと云う番組を見ることに決めた。昨夜第一部の放映があったようだが、それは見ていない。今回は極寒の冬イルクーツクからブリヤート共和国、ハバロフスクなどを経由してサハリンにたどり着くという計画だった。遠い昔先人が辿った道を行くということらしい。バイカル湖近くにあるブリヤート共和国にはブリヤート人という人々がおり、それらの人々はDNAの調査で日本人と全く同じと云う研究結果がでたそうだ。確かにテレビに出た人びとは日本人と本当に似ていて遠く離れたシベリヤの地であたかも日本語をはなしているような、錯覚に陥った。旅人伊藤英明も「僕の遺伝子に刻まれた太古の記憶のせいだろうか。ブリヤートの人々にあったとき安らぎを覚えた」という言葉を残してこの地を去っている。 

 イルクーツクから間宮海峡まで一面の銀世界、或る時は壮絶な吹雪、或る時は見たこともないような美の世界、そして-50度Cの極寒の地、そんな画面を長く見ていて私の頭の中まで凍りついたような気がした。凍りついた頭をやわらげるためにいつもは7;30から始める館内ウオークを9時から始めた。年の暮に良い番組を見て知識が増えたと喜びながら・・・。(E)

    

                                            妹からの手造りおせち

 

 

 

 

 


「正月や冥土の旅の一里塚めでたくもあり愛でたくもなし。

2018-01-01 | 気ままなる日々の記録

  正月や冥土の旅の一里塚めでたくもあり愛でたくもなし。

この歌は一休禅師の狂歌と云う説もあるようだが正解は不明です。

 正にオソマツ君の心境で子どもの頃のようなお正月についての思い入れは失われてすでに久しい。

 ただ、子供の頃はお正月から新しい下着や靴を使っていたから、それが嬉しかった。

 小学生の1~2年生になると急に運動量が増加し靴下や足袋によく穴があいた。母は、新しいものを買っていたが、其れを履くのはお正月からとすることが好きな人で、 お正月の朝「寒い!」といいながら、下着や足袋を新しいものにしたり、していた。

 オソマツ君のお正月の思い出です。

  昨夜もNHKの「紅白」をテレビで見ていましたが、知らない歌手の知らない歌ばかりで、

 昔の様なワクワクした気持ちにはなることもなく、いつの間にか眠っていて、ハッと目が覚めた時慌ててテレビを消したようなことで何から何まで前出の狂歌の心境でした。

  小生は、昭和11年生まれですから、昔の年齢の数え方だと小生は時々自分が何歳になっているのかわからなくなります。

 こんなとき、自分は昭和11年生まれだということは忘れていない。

 でもこれが役に立たないのだ。そこで、昭和11年は1936年と云うことを覚えておき、今年の西暦は2018年だから、今年の11月29日で82歳かな。従ってただ今81歳らしい。

 ああ疲れた。全部西暦に統一すればよかったと思えてならない。和暦というのか、元号と云うのか知らないが使い勝手が悪く今の子供たちは第一昭和を知らない。平成天皇がお亡くなりになると新しい元号を決めてまた元年から始めることになります。ここで思い切って元号を廃止していましばらく平成を続けて平成が3桁になるくらい続けて新しい元号にする、というのはどうだろう。

 ただ、今振り返ると、昭和初年頃若い人は「生きがいとは何だろう」とか「死とは何か」など人生哲学について随分考えていたようです。三木清著「人生論ノート」がよく読まれ、旧制高校の学生たちは善とは何か?についてよくぎろんしていたようである。私ががくせいのころは、社会主義とはどんな政治体制か?それで暴走したりしないか?と云う議論をよくやっていた。原水爆実験反対運動も盛んで、全学連の国会前のデモ行進で東大の女子学生が亡くなって大きな問題になっていたこともあった。全学連の中央が、核丸派とか共産党派とか、その他いろいろな派閥に分裂し主導権争いに終始しその影響が愛知県にまで及んで訳の分からない論争をあちこちでやっていた。今思うと若者たちも時代ごとにいろいろな流行の中に投げ出され、翻弄されていた。

 手元に三木清氏の「「人生論ノート」と云う本があります。旧制高校の生徒はこうした哲学をこのんだようですが、オソマツ君のせだいになると、サルトルの「実存主義」とは何か、とか、「社会主義社会とはどんな社会で、その長所と短所はどんなものか、と云う議論が多かった。議論は盛んであったが、どの意見も正誤が不明で議論にならない議論であったと云える。戦後の教育改革で、高等教育の大衆化が薦められたが、それによって、大学のレベル低下を招き、日本社会の脆弱さを招いたきがします。

 第五福竜丸の久保山愛吉さんがアメリカに水爆実験に撒き混まれ被爆されおお騒ぎになったとき、アメリカの核実験には反対するが、ソ連の核実験には反対しないと云いだすグループが出て皆が呆れた。其れや是也を含めて、我が国は12歳の少年の域を出なかった。我が国の精神年齢の低さはあれから、修正されただろうか?僕には一向に変わっていないきがする。(T)

   

                                                 鏡餅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(T))