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労働法務:「ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論と労務コンプライアンス

2007-01-11 | 経営実務
ホワイトカラー・エグゼンプションに関する話題が引き続きブログの世界をにぎわせていますが、その中でも次の2つのブログのエントリを見ていて『今の議論に欠けている視点』が少しずつ見えてきました。

●労働は時間ではない(池田信夫blog)
●「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入を阻害しているのは経営側である。(想像力はベッドルームと路上から)

この二つのエントリを読み比べていて感じたのが、「日本の労使慣行の変遷と将来のあり方」について、もっと深く考えなければこの「ホワイトカラー・エグゼンプション」について導入すべきか否の議論は「おとしどころ」が見えてこないということです。

「想像力は~」のエントリでは、ホワイトカラー・エグゼンプションの導入に反対する理由として「経営者による労務コンプライアンスの軽視・欠如」を次のように指摘しています。
確かにホワイトカラー・エグゼンプションに関して、「残業代ゼロ法案」などとするのは短絡的ではあるが、それを呼び込んだのはコンプライアンスを軽視し、本来の経営者としての責務を忘れたまま「経営努力=リストラ(本来のリストラクチャーとは別の意味の)」としてきた経営側の短絡に他ならない。その総括は本当になされたのか。

確かにこれはある側面からは正しい指摘であると思います。しかし、その前提となる指摘である
現状で既に労使間の契約は不履行の状態に置かれているわけだ
については、「過去の労使慣行」においてはやや疑義を挟まざるを得ない部分を持っていると私は考えます。

少なくとも過去の日本における「労使関係の大前提」は「終身雇用」でした。経営者は、労働者を一度雇用すれば「(のっぴきならない状況に陥らない限りは)継続して雇用を続けなければならない」というのが大原則です。この考え方は、リストラの嵐が吹き荒れたバブル崩壊以後もまったく変わっておらず、「解雇権濫用の法理」や「整理解雇の4要件」等といった形で脈々と生き続けており、労働紛争の最終的な解決の場でもこの考え方を前提としています。

一方、「自由な解雇が出来ない」という経営者側の制約は、経営の「自由度・柔軟性」に対して強い影響を与えます。そこで過去の労使関係では、「解雇の自由」に制限を加えることの一種の対価として、「原則として経営者の指示には従わなければならない」という形で、勤務地や職務内容、待遇といった「労働条件」の変更について自由度を与えるという選択が行われました。例えば、勤務地の変更である「転勤」は、今でも「経営側の裁量」が幅広く認められています。

経営者は「契約の終了」というオプションを破棄する一方で、「労働契約の白紙手形」を得ることによって「会社の経営状況に応じた柔軟な対応」を実現してきました。一方、労働者も「多少自分の思いとは異なっても会社の意向に従っていれば、(会社がつぶれない限りは)原則的に解雇はされない。」という形で雇用の安定と保証を得てきたことになります。

つまり、過去の労使関係の延長線上にある現状の多くの「正社員」については、そもそも「前提となる労働契約」というものが非常に曖昧であり、ある種の「白紙手形」と同じ状態になっていると考えてられます。これは労働時間についても同じことであり、「労働基準法に定められた基準を満たす範囲においては、会社は労働者に対して働き方を自由に命じることができ、労働者は個人の意思でこれを拒否することはできない。」ことになります。

翻って「ホワイトカラー・エグゼンプション」を考えますと、これは「過去から労使関係」そのものと一線を画す性格のものであるということを伺うことが出来ます。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」を導入するためには、経営者側は制度を適用しようとする労働者に「個別の同意」を取り付ける必要がある上、「業務遂行の手段及び時間配分の決定等に関する具体的な指示」を手放さなければなりません。このことは、過去の労使関係の前提となっていた「経営者による自由な指揮命令」に対して大きな制限をかけるものです。

しかしながら、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の元では、仮に「予め設定した成果が出せない(=職務を果たせない)」としても、「残業してまで仕事をするか否か」は労働者の自己裁量の中に置かれます。「労働者が職務を果たさないことに対するリスク」は会社(経営者)が負うものとなりますが、「解雇が非常に難しい」という現状の中では、「成果を出すことが期待できない人は、『ホワイトカラー・エグゼンプション』の対象外にする」までの選択肢しか取り得ないことになります。日本では、一旦「待遇」を挙げてしまうと、一度に下げられなくなることから、このままの状態では、経営者から見れば「労働コストの高止まり」というリスクを背負っていかなければならなくなるといえます。

ここまでの検討から、「ホワイトカラー・エグゼンプション」を現在の状況のまま導入することは、まともにやってしまえば「パワー・バランスの変化」を生じることになりますし、そうでなければ、経営者側が手放したはずの指揮命令権を行使してしまう「コンプライアンス上の問題」を引き起こすことになりかねないと私は考えます。その点においては、「『ホワイトカラー・エグゼンプション』の導入を阻害しているのは経営側である」の指摘は傾聴に値するものの、違った角度からの見方もできると感じます。また、労働は時間ではない
については、意見への賛否を考える以前に、「労働時間制限」と「指揮命令権」の関係に触れていない点で「片手落ち」であると考えます。

以前のエントリの繰り返しになりますが、ホワイトカラー・エグゼンプションの本質的な異議とは、あくまでも「働き方(=労使関係)の選択肢を増やす制度」であると私は考えます。もちろん、「今までとは異なる労使関係」を導入するわけですから、そこからは必然的に「格差」が生じます。こうしたことを前提として、「会社勤めにおける働き方のオプションを増やして多様な労使関係を認める」のが良いのか、それとも、「会社勤めをする以上は同じ労使関係の下に置き、同じような結果(対価)を得られるようにする」のが良いのかを考えることが、今の「ホワイトカラー・エグゼンプション」を巡る議論では必要なことであると私は考えます。

また、最後に一つだけ。池田氏のブログでも情報産業における勤務実態に触れられていますが、「SE/プログラマー」と呼ばれる方々には、「ホワイトカラー・エグゼンプション」を認めるべきではなく、本来であれば「裁量労働制」も認める対象ではないと私は考えます。なぜなら、彼らは「指示に基づいて指示された作業(設計書の作成、プログラマー)を行う」ことが本来的な使命であり、端的に言えば「ネクタイを締めたブルーカラー」に過ぎないためです。もしIT業界の中で「ホワイトカラー・エグゼンプション」が認められるとすれば、それはあくまでも「目的の成果物を完成させるための時間量を確保するための予算と指揮命令権」を有している人、すなわち「プロジェクトマネージャー」でなければならないと私は考えます。(同様に、TV局のADについては全く同じことが言えるのではないかと考えます。)

ということで、今日はここまで。一気に書き上げましたので分かりにくい部分もあるかと思いますが、ぜひご質問やご意見をお待ちしています。


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2 コメント

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Unknown ()
2007-01-12 12:13:48
今日は誕生日だね、おめでとう~☆
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Re: Unknown (Swind)
2007-01-12 23:09:20
兄様(ってなんか変な感じがゞ(^^;;)>

はい、誕生日でした(^-^;)
ココで来るとは思っていなかったのでびっくりしたけど、ありがとうですm(_ _)m
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