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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

不死鳥のまち福井

2008年10月16日 | 

人口およそ27万人の福井市に古い建物はほとんど残っていない。昭和20(1945)年7月19日深夜に始まった米軍の執拗な爆撃で市街は壊滅的な打撃を受けたからである。

命拾いした市民の血の滲むような努力によってバラックが建ち並び復興もこれからという時に大地震が発生する。昭和23年6月28日の福井地震(震度7の激震)は再び甚大な被害をもたらした。

不幸は更に続いた。同年7月24日~25日、大豪雨に見舞われて九頭竜川の堤防が決壊し、市民は耐え難い状況に置かれた。福井は3度の災害を乗り越えて、不死鳥(フェニックス)の如く蘇った。

「市民憲章文記念碑」

中央公園(西三ノ丸御座所があった所)に「市民憲章文記念碑」がひっそりと建つ。そこには「不死鳥のねがい」として以下の文が刻まれている。

わたくしたちは 不死鳥福井の市民であることに誇りと責任を感じ郷土の繁栄と幸福をきずくため 力をあわせ 不屈の気概をもって このねがいを つらぬきましょう

福井駅前

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美しき気比の松原

2008年10月15日 | 

広大な松林に白浜、そして弧を描く海岸線。「気比の松原」は実に絵になる。海水浴シーズンが過ぎ去り砂浜は閑散としていた。釣り竿を立てて胡坐をかいている若者が何人かいた。

「気比の松原」

浜を歩いて波が静かに押し寄せるすぐ近くまで行った。そこで細かい砂を掴んだ。さらさら感が心地よかった。松原周辺の都市化が進んでいるのはやはり気がかりだ。日本を代表する美しい景観をいつまでも残してもらいたいものである。

私は若かりし頃に泳いだ沖縄の海を懐かしく思い出し、潮風を全身に受けて目を細めていた。沖縄は10月でも泳ぐことができる。

「敦賀湾」を眺めて沖縄のビーチの記憶が蘇った

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来迎寺で斬首された水戸天狗党員

2008年10月14日 | 

「来迎寺」の表門は敦賀城中門の移築と伝えられる。寺の西隣にあった処刑場で天狗党員353名(水戸藩の尊皇攘夷過激派)が挙兵の咎により首を刎ねられている。

「来迎寺」

「水戸烈士追悼碑」

寺を出て武田耕雲斎を始めとする水戸烈士の「追悼碑」の前で手を合わせた。続いて「松原神社」に向かう。明治7(1874)年に建立されたこの神社は刑死、戦死、病死した天狗党員411名を祀る。

「松原神社」

社務所のおじさんに聞いた道を通り「敦賀高等学校」に着いた。すっかり重くなった足を揉みながら北に行くと松林が見えてきた。

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敦賀市を流れる「笙の川」と「二夜の川」

2008年10月13日 | 

三島町1丁目を西に進み赤い橋が見えた。「笙の川」に架かる「松島橋(通称:赤橋)」で川向こうが松島町になる。欄干に持たれて鮮やかな青色の川を暫く眺めていた。

「二夜の川」

「二夜(にや)の川」は「笙の川」の西部を流れているが、元々は農業用水路として地元の人に利用されていた。高度経済成長期を境にして汚濁が激しくなったので昭和60(1985)年に「二夜の川を美しくする会」が結成された。それから清掃活動を地道に続けた結果、鯉が泳ぐまでに回復している。

松島町2丁目の「スナック将軍」

松島町一帯は旅館や民宿が非常に多い。夏場は海水浴客や釣り人が、そして冬場は蟹を食べに来る人が宿泊するのであろう。「スナック将軍」の前の道を南に向かって歩き天狗党と因縁の深い寺を探した。

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敦賀城跡に建つ真願寺

2008年10月13日 | 

結城町の「真願寺」に到着。門前で寺の由来に目を通す。この寺は元和2(1616)年の一国一城令で取り壊された敦賀城跡の一角に建っている。幸運にもちょうど戻ってこられた住職に話を伺うことができた。

「真願寺」の境内に残る敦賀城乾門の礎石

「敦賀城にまつわるものはほとんど残っておりません。乾門の礎石と伝わるものがあるだけで…この石ですよ」

「ほう、これですか。ところで城郭はどの辺りまでになるのでしょうか」

「敦賀病院から西小学校、そして寺を含むと言うことですから、かなり広いですな」

「勉強になりました。どうもありがとうございます」

お礼を言って寺を後にし、市立敦賀病院方面に歩いて行く途中でリヤカーを見かけた。魚をリヤカーにのせて売り歩く人が敦賀にはまだいることを知った。

魚の行商人が使うリヤカー

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今橋を渡り川崎町に入る

2008年10月12日 | 

「今橋」から船溜まりを望む。ここは昭和初期まで旧笙の川の河口だった。今橋西詰は江戸時代「茶町」と呼ばれ、茶問屋・宿・料理屋があり寛文年間(1661~1673年)に最も栄えた。明治7(1874)年、「池子町」と合わせて「川崎町」になった。

享和2(1802)年建造の「荘山の高灯籠」

敦賀観光ホテルの前庭にある「高灯籠」を見に行く。元々は洲崎に住む船頭庄山清兵衛が屋敷内に建造したものだ。橋の袂まで戻り「大黒屋化粧品店」の斜向かいに赤壁の建物を見つけた。


「千鳥湯」

洒落た窓の竹細工から一瞬「遊廓」かと思ったが、古くから営業を続ける「千鳥湯」という銭湯だった。敦賀城の御堀跡と言われる闇加川の北にかつて「池子町」、南に「十軒町」があった。

闇加川でサギを見た

「茶町」の絶頂期、「十軒町(現在の結城町)」に娼家戯場があったと『敦賀志』に記されている。

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博物館通りを西へ

2008年10月12日 | 

相生町の「清明神社」は古くから防火の神として町の人に信仰されたが、米軍の無差別爆撃によって焼け落ちた。陰陽師・安倍清明が正暦年間(990~994年)にこの境内で修行を積んでいたと伝えられる。

「敦賀市立博物館」

重厚な石造りの建物が神社のすぐ近くにある。昭和2(1927)年竣工の旧大和田銀行本店は現在「敦賀市立博物館」になっている。博物館の前の道は「博物館通り」とも呼ばれ、毎月第3日曜日に「清明の朝市」が開かれる。

「敦賀酒造」

通りを西に進み戦災を辛うじて免れた一角をじっくり見た。どん突きにある木造家屋が「敦賀酒造」だ。ここから北に進路をとり「船溜まり」を目指した。

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敦賀港周辺を散策

2008年10月11日 | 

「赤レンガ倉庫」は明治38(1905)年に紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社によって石油の貯蔵庫として建造された。その後、昆布の保管庫となり近年まで使われていた。

復元された「旧国鉄敦賀港駅舎」

道路を横断し「旧国鉄敦賀港駅舎(復元)」を見学。背後には青い海が広がり、海上保安庁や県警の巡視船が浮かんでいる。

敦賀港に停泊する巡視船

児屋の川に架かる「昭和橋」を渡って西に足を進める。右手に大きな倉庫が建ち並んでいた。ここから南下して「相生町商店街」に入った。

港沿いにある敦賀倉庫

ソースカツ丼の「ヨーロッパ軒本店」が建っている所にかつて「熊谷ホテル(戦災で焼失)」があった。そこは杉原千畝が発行したビザにより命拾いしたユダヤ人が休息をとった宿として有名だ。

「ヨーロッパ軒」

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栄新町の天満神社と遊里

2008年10月10日 | 

曙町から北に向かって歩く。途中石仏と「片手観世音菩薩」と記された碑を見つけた。曙交差点を渡り、かたやま酒店の前の道を北西に進むと右手に鳥居がある。

「天満神社」

「天満神社」の裏手にあった常盤区の「遊廓街」は敦賀空襲で焼失。敗戦後、赤線として復活した。栄新町から金ヶ崎町にかけての通りが該当すると思われるが、当時を偲ぶものは見当たらず、静かな住宅街に変貌を遂げている。

金ヶ崎町界隈

敦賀湊における遊里の形成はかなり古い。『敦賀志』には笙の川の西に建つ茶屋から北方にいた遊女が川東の三ツ屋町に移されたとの記述がある。その時期は万治から寛文年間にかけて(1658~1673年)と推定される。

戦前の遊廓に関する著述は極めて少ないのが残念だが、豆腐料理「豆千香とうせんか」のご主人がHPに赤線の思い出を書かれている。それによると赤線は昭和32(1957)年の夏頃に廃業していたようだ。

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気比神宮に参拝

2008年10月09日 | 

敦賀市民が親しみを込めて「けいさん」と呼ぶ気比神宮。大宝2(702)年の建立と言われているが、昭和20(1945)年7月12日夜半の米軍による空爆で「大鳥居」を残して焼失した。

「気比神宮本殿」

祭りが開かれるということで参道にたくさん露店が並んでいる。準備の様子を眺めて本殿に向かい参拝を済ませた。「角鹿神社」「大神下前神社」を見てから敦賀北小学校のグランドの北側に回り小さな祠の前に立った。

「辰雪智龍明神」

蛇神様を祀る「辰雪智龍明神」は気比神宮の鬼門(北東の方角)に位置し、戦前は花街の女性の信仰を集めた。この曙町辺りが江戸時代の「森屋敷」に相当するのだろうか。はるか昔には「芝居小屋」があったそうである。

曙町の「中川酒店」辺り

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敦賀駅で目撃した珍しいもの

2008年10月08日 | 

「JR敦賀駅」に着いて珍しいものを2つ目撃した。

先ずホームから地下道を通って改札に向かう途中、右手の窓から「小便小僧」が見えた。絶え間ない放尿によって池に波紋が広がる中、錦鯉が元気よく泳いでいる。

白くて地味な小便小僧と派手な模様の錦鯉

「こいつは面白いじゃないか」

笑みを浮かべたまま改札を出て待合所に入ると今度は悪党面のオヤジがウジャウジャいた。30年以上も前に流行った格好をしている連中が「仁義なき戦い」に出てくる下っ端と重なり再びにやっとしたのだ。

それから間もなくして、ならず者を乗せた「感謝タクシー」が駅前から勢いよく発車した。鄙びた港町に「蝿」はつきものだが、この町に対する印象はすこぶる悪くなった(笑)

駅前にある都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)の像

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ピーマンの肉詰めと祖母の思い出

2008年10月07日 | 家飯

祖母は料理が苦手な人だった。美味しいものを作ろうという意欲がなく短時間で変なおかずを作り出す名人として家族から恐れられていた。彼女の数少ないレパートリーのうちで唯一まともだったのが「ピーマンの肉詰め」である。

祖母はピーマンのヘタを取り、穴からタネを抜き、そこへ合挽きミンチで作った肉味噌を詰めて、全体を油で炒めていた。味付けはかなり濃かったと記憶する。

現在私が作っている肉詰めは彼女のそれとは大きく違う。ピーマンを縦半分に切ってタネを取る。鶏ミンチに塩、コショウ、卵白少々を軽く混ぜ合わせてピーマンに詰めて、フライパンで表面を焼き旨味を閉じ込める。

続いて肉詰めを八方だしで煮て完全に火を通す。薄味なので煮汁に水溶き片栗粉を加えてとろみをつけてあんかけにする。こうすると塩分が低めでもあまり気にならないのである。

ピーマンの肉詰め

私は健康のことを考えて作り方を変えたが、祖母の命日には彼女のオリジナルを再現して仏前に供えようかと考えている。

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秋の味覚「栗」

2008年10月06日 | 食材

今年の栗は豊作だと近所の人が話していた。道理で安く売っているはずだ。夏に雨が少なかったので甘みが強い。

栗ご飯は私の大好物である。生栗の皮むきの大変さは昨年経験済みだが、手伝ってでも食べたいと思う。新米:もち米=2:1、この割合で混ぜて炊くともっちりして腹持ちがよくなる。

秋のシンプルな炊き込みを堪能し、今度はマイタケやシメジなどをふんだんに使ったキノコご飯が食べたくなった。

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秋の味覚「鯖」

2008年10月05日 | 食材

秋から冬にかけて鯖は体内に良質の脂肪を蓄えるので非常に美味しくなる。私は生(造り)は好んで食べないが、塩と酢で軽めに〆たもの(関西ではきずし)には目の色が変わる。

〆鯖は酒のつまみで、飯のおかずとしては煮魚か焼き魚になる。私の家では煮付けを作ることが多い。トロトロの腹身があれば二膳は食べられる。変なマグロの砂ずりなどに手を出す必要はない。

旬の食材を自分の目で見て納得の値段で買う、これに尽きる(笑)

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中島屋食堂の真鯖にぎり

2008年10月04日 | 

「ここは大丈夫だろう」

長浜駅近くの古風な食堂に入ることにした。私は旅先の食べ物屋については事前に調べない主義で「己の勘」に任せている。食べ歩きの駄文を飽きもせずに書いている者の多くが「肝心の舌」に問題を抱えているのであまり参考にはならない(笑)

テーブル席に座り壜ビールと真鯖にぎりを注文した。先ずはビールで喉の渇きを癒してすしを待つ。10分くらいして品のいいお婆さんが握りを持ってきてくれた。それを見てにっこりした。まことにさりげない盛り方だ。

これが「凶の都」であれば小綺麗な皿にこれ見よがしと自慢げに盛ることだろう。内面の醜さや弱さを見せまいと虚勢を張るようでは逆に食べる気が失せる。長浜の老舗食堂は自然体を貫き余裕を漂わせていた。

真鯖は主に焼津や三陸で水揚げされたものを使っている。脂ののりと〆具合は私の好みにぴったり合った。5個で600円。今時こんな店があると知り有難い気持ちで胸が熱くなった。

無駄に金を使うばかりが幸せとは限らない。当たり前のことをふと気付かされた休日だった。「よもぎそば」は次回に食べるとしよう。

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