寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

愛媛県今治市の本町7丁目と大新田町2丁目とを結ぶ浅川橋

2018年09月16日 | 
浅川橋からかつて貯木場があった辺りを望む。近くには製材会社や材木店が残っていたので賑やかだった頃を想像してみた。そして今治城下の防衛上非常に重要なポイントであった時代のことも…。

橋2

橋3

橋を渡り切り北西方向に直進すれば交通量の多い国道317号に合流するのだが、今回はあえて旧道へと向かうのである。私は四電工今治営業所の電柱保管施設前で足を止め「あっちだな」と呟いた。

保管施設
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愛媛県今治市の浅川河口

2018年09月11日 | 
北浜ポンプ場横に位置する水門の前を通って本町7丁目へ入った。浅川河口(右岸)にはたくさんの小型ボートが係留されていた。

船

河口

穏やかな海はすこぶる美しいが、裏の歴史を色々と知る男はつい別の風景を思い浮かべてしまう。門田金属株式会社本町倉庫を見上げながら矢野ストアーの方へ向かった。

橋

橋2

食料品店は浅川橋西詰に建っている。綺麗な橋は平成11年(※1999)7月に架け替えられたものである。過去に私は伊豫水軍に行く途中にこの橋を渡っていた。

橋3
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愛媛県今治市北浜町(日本丸周辺)

2018年08月31日 | 
今治市本町6丁目4の倉庫前から北西方向を望む。サニーガーデン本町の手前にある北浜橋を渡り北浜町に移動した。

橋

水路に沿って水門(北浜ポンプ場)の方へ向かう。鉄筋コンクリート造の4階建は株式会社カインドハウス(南鳥生町2丁目)が運営する「高齢者介護施設カインドハウス北浜(平成29年2月オープン)」であった。

介護施設

介護施設2


きたはまちょう 北浜町 〒794〔世帯〕71〔人口〕215▷市の中心部。北西端は浅川河口,東は燧灘に面する。南部は住宅地,中央部にはタオル工場が点在し,北部は工場地域で製材・金属工場などの用地となっている。地内には市防水倉庫・日の丸ポンプ場がある。
『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県(昭和56年10月8日発行)』

第23回 愛媛県都市計画地方審議会(日時:昭和49年5月13日)の第131号議案 今治都市計画下水道の変更(今治市決定)を読むと「日本丸ポンプ場(跡地)」の大体の位置も分かる。

変更理由
1 日本丸ポンプ場は敷地面積1,210㎡ と狭く、またポンプ場周辺の騒音、振動、悪臭などの公害のため、当ポンプ場を北西に約300m の北浜町に北浜ポンプ場として面積6,960㎡ に変更したい。また合流地区の雨水流出量は実験式を採用しているが、将来合理式方法による合流式に変更したいため、北浜ポンプ場6,960㎡に変更したい。

新築移転した北浜ポンプ場は昭和51(1976)年5月から運転を開始した。良い機会なので『伊豫今治町全圖(明治42年11月発行)』を使って昔の地名を解説しよう。

図

図2

図3

現在の北浜町2及び3辺りが「日本丸」と表示され北浜ポンプ場付近に「淺川火葬場」がある(※7枚目の画像・右端中央が戎神社=美保神社)。『愛媛摩訶不思議ちゃんねる』の松山平野火葬場事情5における伊豫國住人さんの書き込みとも一致する。

愛媛においても今治では浄土真宗の3寺院が淺川河口部に共同火葬場を建設していたりしています。城北火葬場もこのような境内火葬場の集約化の中で成立したと思われますが、なにせ資料がないため詳しいことはわかりません。

土葬から火葬への過渡期に火葬場が悪臭問題を避けるために人家の少ない川岸などに建設される例は多かった(備後福山似たようなケースである)。その後、淺川火葬場は大正期に塵埃捨場になっている。地元の人たちは明治の所謂迷惑施設が最終的に重要な排水施設へと姿を変えた歴史をしっかりと抑えておくべきだろう。

ポンプ場
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愛媛県今治市の旧漁師町(現美保町1~3丁目)

2018年08月28日 | 
本町から美保町に入ると比較的大きな公園があった。『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の美保町の解説は以下の通りである。

みほちょう 美保町<今治市>
[近代]昭和43年~現在の今治市の町名1~3丁目がある。もとは今治村の一部。住居表示実施により成立。

公園2

神社A

海岸近くの美保神社へ向かう。私は今治の漁師町の風景を一通り眺めてから神社に参拝したのだった。美保町と名を改める前は猟師町(漁師町)と呼ばれていたそうだ。

りょうしまち 漁師町<今治市>
[近世~近代]江戸期~昭和48年の通称町名。猟師町とも書く。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。今治市街地の北東部に位置し,古い漁業集落である。貞享元年の「今治藩領改帳」によれば今治村のうちに猟師町の人口292,鰯網代8帳,船数合64艘,うち大船7艘・網船7艘・猟船50艘とある。漁師が集中したので自然と町名になった。貞享2年の町法度によると魚類の沖売りや他所売りを禁じており,町奉行の支配を受けている。また,貞享2年「猟師町屋敷改帳」によると今治村庄屋と並んで漁師町庄屋藤兵衛・組頭弥右衛門がいる。明治23年の戸数360,うち専業漁夫男536人・女526人。明治36年今治漁業組合設立。大正2年の水揚14万8,000円,うちタイ6万2,000円・カレイ2万3,000円・フグ1万3,000円・サワラ1万2,000円などであった。中央浜手に戎(美保)神社がある。現代の美保町1~3丁目のあたり。

神社B

神社C

神社D

福山でも平成10年代までは本通商店街などで魚の行商人を見かけたものだが、リヤカーを引いて得意先を回っていた婆さん(※笠岡市神島から遠征し花や練り製品まで扱っていた)は今元気にしているだろうか?

リヤカー
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愛媛県今治市本町5丁目・旧波止浜街道沿いの風景

2018年08月03日 | 
旧波止浜街道(本町5丁目)から本町6丁目付近を望む。大正期の地図では現「松月堂」までの道沿いが北新町で高野山真言宗「理性院神供寺」より先が慶応町となっている。

公園

公園2

児童館

慶応の名を冠した公園(児童館が隣接)は5丁目側にあるのだが、余所者の私には詳しい区分がよく分からない。周近は空襲の被害を免れている。参考までに『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の解説を引用する。

きたしんまち 北新町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和48年の町名。江戸期は今治藩の城下今治町の町名。今治城下8町の1つ。寛永12年松平定房入封後の元禄年間までに成立した町。町名のとおり本町4丁目の北に続き,波止浜街道に沿って作られた。元禄13年「北新町寸間改帳」には東ノ輪・西ノ輪と見え,のち1~2丁目となる。当時は茶屋・油屋・畳屋などのわずかな町家があるのみで,大半は百姓屋敷であったが,江戸中期以後町家と職人が増加し,安政6年には小松屋小次郎ら3名の町年寄の名が見える。延宝8年の人口122,明治13年の戸数141・人口607。慶応年間,当町北部に慶応町が成立。明治18~22年今治を冠称。同22年今治町の大字,大正9年からは今治市の町名となる。昭和48年現行の本町6丁目となる。

けいおうちょう 慶応町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和43年の通称町名。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。城下町今治の中心本町から延びる北新町に続き,浅川までの通りで,波止浜街道に沿う。もと北新町のうちで,慶応年間に発展した町。明治13年「越智郡地誌」に慶応橋が見える。明治末期,通りの両側は家屋が並んでおり,第二丸今綿布の工場があった。大正初期,木原商店織布工場が創業,その後四国電力の今治火力発電所や多くの染色・タオル工場が立地して工業地区として発展した。現在の本町6~7丁目・室屋町7丁目のあたり。

辻を右折すると味のあるモルタル建築が残っていた。レトロな造りに横文字の店名がまた面白い。ここから海はすぐ近くである。

モルタル建築
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愛媛県今治市共栄町3丁目及び4丁目の歓楽街

2018年07月30日 | 
共栄町3丁目の風俗店辺りがかつての京町だと思う。戦前は遊廓があったという話だが、「アイリスK」東側の駐車場がその跡地に該当するのだろうか。

歓楽街B

歓楽街C

同4丁目には数少ない戦前の建物が残っている。「今治ラヂウム温泉」が平成28年(2016)11月29日に国の登録有形文化財に登録されたことは非常に喜ばしい。岡崎直司さんのエッセイ『“MY TOWN”うぉっちんぐ 歩キ目デス&足ラテス vol.79 今治ラヂウム温泉の不思議<今治市>』には建物のことや町名の由来などが書かれており非常に参考になる。

 昨秋晴れて国登録有形文化財に選定された、この男湯と女湯が二つのドーム型に設計された建築の偉容は、大島出身の材木商村上寛造氏によって大正8年位創業された。ただ、実は正確な建築年が判明しておらず、昭和2年には存在していたという事のみ伝わっている。肝心の設計図書や、木造建築にあるような棟札の存在が無い為に、その設計者・施工会社は何れも不明である。資料が無い訳は、太平洋戦争末期、未曾有の災禍となった今治空襲によって隣接していた村上家も被災し、全てが焼失した事によるらしい。米軍機による空襲は、昭和20年4月26日、5月8日、8月5日、6日の計4回実施され、数百名の死者を数えた。 

 そもそも寛造氏は材木商で成功し、葦原でしかなかった場所に歓楽街を造り上げようと、大正期に映画館(共楽館と第二共楽館)や温泉などを興し、一帯を父京造の名から一字取って京町と名付け(今の共栄町)、一代でその夢を成し遂げた。されどもラヂウム温泉の建物は、ふんだんに手に入るハズの木材による建築とせず、当時の最先端と思われるコンクリートで計画する。

歓楽街D
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愛媛県今治市共栄町3丁目3‐1・フランス屋

2018年07月22日 | 
片原町1丁目から見た広小路。今治の目抜き通りを南西に進み瀬野汽船の角を曲がり共栄町に入った。以前から気になっていた「フランス屋」に寄った。

店

店2

店内に置かれたレトロなコカ・コーラ冷蔵庫(栓抜き&受け皿付き)がいい。昭和40年代の子どもは店のおばちゃんに代金を渡して冷蔵庫から瓶のコーラを取り出し栓を抜いて一気飲みしたものである。

私が大学を出る迄は瓶と缶が主流だった(大型ペットボトルは既にコンビニで売られていたが)。それが小型ペットボトルに取って代わるのは平成以降の話である。

パン

パン2

バタークリーム入り(フランスパン200円)とドーナツ(70円)を土産に買い求めた。どちらも適度な噛み応えがあり自分にはとても懐かしい味わいだった。後者は揚げパン風でセブンの商品とは全然別物だ(昔はこんな食感が多かった)

ドーナツ
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愛媛県今治市恵美須町1丁目・今治キリスト教旧会堂跡

2018年06月29日 | 
有津屋公園を出ると対面に「せとうち整備今治(天保山町2丁目5‐3)という自動車整備の会社があった。有津屋川に架かる有津屋橋を渡り東門町を抜けた。

橋

城

産業道路から今治城を数分眺めて内港に戻った。そして釣具屋の先、金星川の水門脇に石碑が建立されていることに私は初めて気付いたのだ。土地勘のない人のために『地域創生研究年報第7号(2012年)』中の越智真次氏の論文「キリスト教の四国伝道と今治教会の設立」から重要な箇所を引用させてもらう。

碑

(1)はじめに
 今治の商店街のアーケードに並行して金星川という小さな河川が流れている。今治城が存在した藩政時代まで,金星川は今治城の外堀としてその役目を果たしてきたのである。この流れは,今治港の内港へと注ぎ込んでいるが,河口にあたる恵美須町の商業用地の一角には,かつてその場所に今治教会の旧会堂があったことを記す石碑が忘れさられたように建っている。碑文には次のような内容が記されており,第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月5日深夜から始まり,翌6日の明け方まで続いた今治空襲によって教会堂が焼失するまで,同地に今治教会が存在していたことを今日に伝えているのである。
(中略)碑文は当時の今治教会牧師であった榎本保郎によるものである。
(中略)徳富蘆花(健次郎)は翌年の1885年(明治18年)に従兄(時雄の父小楠の後妻がつせ子であり,この時雄の継母つせ子の姉が蘆花の母久子)の時雄のもとに身を寄せることになり今治の地を踏むが,彼は後年『黒い眼と茶色の目』のなかで,日曜の朝夕,水曜と金曜の夜毎にこの鈴鐘がよい音を奏でていたと回想している。1893年(明治23年)12月からは,今治町より小学生が登校するときの時報として鳴らすよう依頼を受け,さらには正午までも報じるようになっていたようである。今治の名物となった鐘は人々から「愛の贈り物」と称されていたようである。しかし,この鐘も第二次世界大戦末期が近づく中で姿をとどめることが叶わず,1942年(昭和17年),金属回収令に基づいて強制供出を命じられ,四阪島の炉中に姿を消すことになる。(以下略)

碑2

碑3

今治キリスト教旧会堂跡
明治十二年九月二十一日此ノ地ニ四国最初ノ教会トシテ今治キリスト教会堂ガ設立サレマシタ 爾来此ノ地ハ今治ノ文化、産業開花ノ発祥地トナリ展開シテ行キマシタ サラニ我ガ国ノ精神文化ニ大キナ影響ヲ与エタ横井時雄(今治キリスト教会創立者)徳富健次郎(蘆花)モコノ地ニ在住シタユカリノ人デアリマス 此ノ教会ニハ当時米国教会カラ贈ラレタ鐘ガアリ日本三大洋鐘ノ一ツニ数エラレ朝ナ夕ナ打チナラサレル鐘ノ音ハ広ク今治全市ニ響キ渡リ今モ多クノ人々ノナツカシムトコロデアリマス 教会堂ハ昭和二十年八月五日米軍ノ空襲ニヨリ惜シクモ焼失シ其ノ後南宝来町ニ移転シ今日ニ至ツテオリマス
昭和四十八年二月之ヲ建ツ

商店街

港湾ビル

新町商店街・大和みやげものセンター前のバスターミナルが小奇麗になり港湾ビルも建て替えられて景観が様変わりしていた。船形の建物がみなと交流センター「はーばりー」である。
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愛媛県今治市天保山町2丁目4の柳瀬翁碑(有津屋公園内)

2018年06月16日 | 
額に汗をかいて今治内港の南端まで移動すると潮風が吹いており心地よかった。懐かしい風景を眺めながら沖洲橋(おきすばし)に向かう。

橋

公園

橋を渡った先(右手)が「有津屋公園(天保山町2丁目3及び4)」である。振り仮名は「あろうづや」が正しいのかな?

公園2

石碑

石碑2

公園の東側で大きな『柳瀬翁碑』を見つけた。石碑は柳瀬義富(綿織物業者・興業舎の社長を務めた人物)を称える為に大正6年(1917)に天保山に建てられたが、その後蔵敷(現旭町5丁目)に移され、昭和49年(1974)にこの公園に戻された。詳しい経緯と会社の歴史については、愛媛県総合科学博物館研究報告(2006)の資料『今治綿織物業者「興業舎」の明治から昭和の社業変遷の一面 / 藤本雅之』に目を通すことで理解出来ると思う(PDF文書として公開されている)

公園の道路を挟んだ向こう側(阿部鉄工所やIJCが経っている場所)がかつての天保山海水浴場の跡と思われる。埋め立てが進んだ結果、海岸線は北に移動した。『愛媛摩訶不思議ちゃんねる』における伊豫國住人さんの書き込みから昔は砂浜近辺が埋葬地だったことが分かる。参考までに一部を紹介しておこう。

松山平野火葬場事情2
…現在の日本において砂浜といえばあまり暗いイメージはないのだが、明治時代までは共同墓地として利用されていた場所が多く、しかもどちらかというと埋め捨て、死体処理場としての性格が強かったらしい。明治の政府通達等を見てみると「海岸部の墓地は海が荒れるたびに埋葬された死体が海に流出して不衛生なのでどうにかしろ」なんていうのがあり。愛媛においてはこの新川や今治の天保山は特にひどかったらしい。…

鉄工所
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愛媛県今治市の金星川に架かる相生橋

2018年05月31日 | 
常盤町3丁目側から見た相生橋。今治城の外堀の名残りである金星川に架かる短い橋である。欄干に平成16年(※2004)6月と記されたプレートが取り付けられていた。

欄干

橋を渡ると末広町1丁目になる。橋の袂に位置する「洋」は知る人ぞ知る名割烹。私は店の前で準備中の男性に声をかけ今治空襲について尋ねてみた。

「この辺りも焼け落ちたんでしょうか」

「そのようですね。もちろん惨状を見た訳じゃないけど。…店を出す際の工事で地下1メートル辺りから真っ黒な炭が大量に出土し空襲の凄まじさを間接的に知ったんですよ」

昭和20年(1945)8月初めの米軍の爆撃で今治の市街地の大半は焦土と化した。戦後生まれの市民から貴重な証言を聞き出せたのは非常に幸運だった。城下町福山も同様の運命を辿っており不思議な縁を感じた。

欄干2
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愛媛県今治市常盤町4丁目1‐18・今治大丸跡地

2018年05月15日 | 
よく今治に遊びに来ていた頃には大丸が営業しており中に何度か入った記憶がある。平成20年(2008)12月31日に大丸が閉店、平成25年1月に更地になった。私は国道317号・ドンドビ交差点付近から跡地を眺めて一抹の寂しさを覚えた。現在は「どんどび芝っち広場」としてイベントなどで利用されているそうだ。詳しい経緯を知りたい方はサイト『今治大丸の歴史』をご覧になるといい。

大丸跡
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愛媛県今治市南大門町1丁目3・旧今治郵便局跡

2018年05月10日 | 
駅前のもと飲み屋が段々姿を消していくが、近くに「ゲストハウス シクロの家」ができ新しい風も吹いていることが分かる。

飲食店

もと旅館

バス通りを渡り今治アーバンホテルの横を通過し北へ向う。趣のある建物を眺めながら南大門町に入った。突き当りにNTT西日本今治ビルが建っている。更に南東へ約20m移動すると慰霊碑がある。

石碑

この場所は旧今治郵便局の跡地にあたる。昭和20年(1945)4月26日午前9時過ぎ米軍が投下した爆弾によって勤務(電話交換業務)中の若き女性職員10名が亡くなった。私は手を合わせて犠牲者の冥福を祈った。

碑文
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愛媛県今治市北宝来町1丁目の旧カフェー街

2018年05月07日 | 
「まだ残ってたんだ‥‥‥」 

これが私の口から自然に出た言葉だった。予想に反して駅弁の二葉の向かいに位置する建物がしぶとく存在感を示していたのである。旧カフェー街の一部としての史料的価値は高い。

建物2

建物3

時代の流れで廃業したラーメン屋が実にシブい趣きである。定連客の回想を読んだが、店がオープンする前は赤線というよりむしろ青線として機能していたようにも受け取れる。

祠

商売繁盛を祈願するお稲荷さんを祀った小さな祠が細い路地沿いにあり当時の繁盛ぶりを今に伝えている。駅前のもと色街を若い人が見たらどんな印象を持つのだろうか。

祠2
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愛媛県今治市北宝来町1丁目の猿飛佐助像

2018年05月06日 | 
十数年ぶりに今治を訪れた。駅前の猿飛佐助像を見ると懐かしさがこみ上げてきた。忍者佐助は当地出身の山田阿鉄らが創作した架空の人物である。私は水分補給を済ませて南へ移動した。
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岡山県津山市久米川南の忠魂碑(宇垣一成陸軍大将書)

2018年01月31日 | 
吉井川右岸から宮尾の集落を進んでいく。中国電力久米変電所周辺は一面の農地である。旧出雲街道を示す石柱が民家の隣に建っていた(宮尾192付近)

電力会社

石仏

石柱には宮尾の文字も刻まれており木の下に石仏が集められていた。久米建設近くに石鳥居が見えたので少しばかり休憩することにした。

石鳥居

忠魂碑

鳥居前には御旅所の石碑、郷社八幡神社参道入口の標石があった。そして石碑の対面に位置するのは立派な忠魂碑だった(※碑の北側を流れる水路が久米川南と宮尾の境界になっている)

忠魂碑2

忠魂碑3

宇垣一成陸軍大将書の刻銘があり裏を見て昭和3年(1918)11月10日に建立されたものだと分かった。田中義一内閣の時代にあたり11月からラジオ体操の放送が始まり10日には迪宮裕仁(つぐのみやひろひと)親王(28)の即位の礼が京都御所で行われた。

踏切付近

踏切付近2

参道を北上しJR姫新線八幡神社踏切を渡る。日本ニューホランド岡山営業所の角を左折して国道181号に入り道の駅久米の里を目指した。

道の駅

ガンダム

駅の西側に展示されている巨大なZガンダム。私と同世代と思われる男性が嬉し気に何枚も写真を撮っていた。小学校の頃地元の大松模型店にバンダイのガンプラを予約して全て作り上げたので彼の気持ちは十分に理解できる(笑)。

今回の旅では小回りのきく自転車を駆使し走り回った(一部は歩き)。河辺の桝形跡から道の駅久米の里までを直線で結ぶと約11.5kmになる。途中寄り道したり道に迷ったりしたので走行距離は25kmに達したかもしれない。治安維持の観点から津山城下とその周辺を調査し旧院庄村と旧平野村の類似点を確認できたのは大きな成果だった。

地図
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