元AKB48の阿部マリア。
俺の推しやった。
阿部マリアは現在、
台湾にて芸能活動。
単にアイドルという立場から、
ショウビスの世界で思いっきり活動している阿部マリアは、
ある意味神になった。
が、
今回は、
阿部マリアではない、
アヴェ・マリアについて。
6月24日はとても親しくしていた女性が亡くなった。
ケイシロウを可愛がり、
ケイシロウ入社の際、
ケイシロウに優しく仕事を教えたこの女性は俺らにも優しかった。
ケイシロウは訃報を知ると、
思わず泣いてしまった。
俺も悲しかった。
それでブログ記事にしたいとケイシロウに言ったら、
サマーの訃報があったばかりやから、
人の死よりも、
別れの悲しみを越えるような記事がいいということで、
聖母マリアが一女性からいかに神へと昇りつめたかを書き込もうと思い書き込みする。
(過度な宗教色を排除するために阿部マリア画像を最初に貼った)
以下は、
ファティマの聖母マリア像の画像
(以下の記事は修道院に北村くんを連れて行った際、外国人修道士との会話を元にしているので、神学的根拠の無さとやカトリック教会法とは無縁であることをお断りする)
聖母マリアは、
神の母、
天の元后(てんのげんこう)、
無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)、
共同贖罪者(きょうどうしょくざいしゃ)と、
無数に表現されている。
大昔、
イスラエルのナザレというところにいたマリアに、
大天使ガブリエルが現れ、
イエス・キリストを身籠ることを告げられる(受胎告知という)。
マリアはガブリエルに、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えた。
やがてイエスが生まれる。
しかしイエスは神中心主義で厳格にコトに対する。
イエスの幼少時、
過越祭(すぎこしさい)と呼ばれる、
出エジプトを記念したお祭りの時に、
イエスの家族はエルサレムに旅した。
そこでイエスが迷子になる。
マリアはイエスを見つけて叱ると、
イエスは、
「わたしが父の家(神殿)にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と言い返している。
この時のマリアは一般の人としての母親として対し、
イエスは神の子として対した。
イエスが成長した時も、
群衆に福音を伝えていた時に、
マリアが迎えに来た。
その時イエスは、
群衆こそが自分の母であり兄弟やと言った。
ここでも一般の人として心配した母親のマリアに対し、
イエスは神の子として対した。
更に、
カナというところで婚礼があった。
マリアはそろそろイエスが何者かの自覚に目覚めかけていた。
マリアはイエスに、
ぶどう酒が足らないことを報告すると、
イエスはマリアに、
「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」と塩対応した。
マリアは召使い達に、
「この人が言いつけたことはなんでもしてください」と言っている。
実際そこで、
イエスは水をぶどう酒に変えた。
そんなイエスの歩みを常に遠くから見つめていたマリア。
心配性ですぐに人間的になるのを抑えて、
イエスのなさることには一切口出ししなかった。
また、
カトリック教会の教義で言う「聖霊による身ごもり」という事実が、
当時のイスラエル社会で通用されるはずがなく、
性に厳しいイスラエル社会でマリアは差別と嘲りを受けた。
そんなマリアに大事件が起こる。
なんとイエスがローマ帝国にとらわれるという出来事と、
一方的な裁判による十字架刑の宣告やった。
イエスは死罪にあたることはなにひとつしてない。
しかしこの時のマリアは、
この為にイエスがこの世に来たことを悟っていた。
自分の子供が何もしていないのに鞭打たれて、
血まみれになる。
この様子をマリアは遠くから見つめていた。
そして、
イエスは血まみれの体で十字架を背負ってゴルゴタへと登らされる。
その途上に、
群衆に混じっていたマリアとイエスの視線が合った。
互いが今までの様々な親子の思い出が心にあふれる。
けれど、
そのままイエスはローマ兵に引かれて、
ゴルゴタで十字架につけられる。
その際、
マリアはイエスのそばに来た。
イエスはマリアに弟子のヨハネのことを、
「見なさい。あなたの子です」と言い、
最後の会話をされている。
このイエスの言葉こそマリアに、
教会の母になれとの意味やった。
そして、
悲しさにあふれながらもマリアは涙ひとつこぼさなかった。
ここで人間的になって泣けば、
人類の救済の為に計画されていた十字架による罪の許しが台無しになってしまう。
だから、
マリアは必死に泣くことをこらえて神を讃えた。
イエスが亡くなった後、
イエスは十字架から下ろされて埋葬される。
マリアは人気がない夜に、
イエスがかかった十字架のそばに来て、
「神さま。一度だけ泣かせてください。その後は二度と泣くことはありません」と祈り、
ひとり、
十字架前で泣き伏した。
愛情あふれるイエスであるならばマリアも同様愛情にあふれる女性やったから、
思いっきり泣いた。
様々なイエスとの思い出に涙があふれ止まることはなかった。
その後、
イエスは復活して、
キリスト教が生まれてくる。
イエスの弟子達が大活躍する中、
マリアは表に立つことなく、
一般信徒に混じって祈祷生活をしていた。
時が過ぎ、
マリアがひとりでいた時に、
イエスが現れ、
マリアをそのまま天上へと連れて行き、
そこでマリアは天の女王の称号を神によって与えられる。
これを、
聖母マリアの被昇天と呼ぶ。
それは、
イエスの十字架刑にあって、
人間的にならず神に祈ってイエスを捧げたことが、
神の摂理を成就させるに至ったことによる。
時は大きく過ぎて、
19世紀。
フランスのルルドに聖母マリアは現れ、
奇跡の泉を湧き出させた。
20世紀の終わり近くのこと。
末期癌で余命宣告を受けた女性がいた。
様々な悪行の末に売春婦にまでなって、
好き放題していた。
そこに病魔に襲われ、
凄まじく苦しめられた。
彼女は医師より死の宣告を受けた時、
ルルドに行くことにした。
病気を治してもらおうとは思わなかったらしい。
ただ、
ルルドで聖母マリアに罪を告白したかった。
この女性は号泣しつつルルドのマリア像の前で祈りホテルに帰った。
その夜、
夢の中で聖母マリアが現れた。
聖母は言った。
「わたしはあなたが何を考え何をしてきたかをすべて知っています。けれどわたしは神の母として、あなたの罪を許します」
女性は涙ながらに目を覚まして祈り、
ルルドから帰り修道院に入った。
そしてそこで、
マリア様に罪を許された喜びを語り、
数年後に安らかに息を引き取った。
自分というものを自分自身以上に理解された挙げ句に罪を許すと言われることほど幸せなことはない。
6月24日。
俺らと本当に親しいあの女性は亡くなった。
けどケイシロウ、
俺らは生きて朝を迎え、
降り注ぐ陽射しの中風を感じながら、
呼吸しつつゆっくりと歩き、
神に与えられた命を感謝しなければならない。
そして実感しなければならない。
人は神にかたどって創られた存在であることを。
だからこそ、
争う以上に人を許し愛していかなければならない。