「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

貝原益軒に学ぶ①「わが此世に生れ、食にあき、衣をあたゝかにき、居り所をやすくして、天地のたからを多くつひやせる素餐の罪を、すこしまぬかるよすがともなりぬべし。」

2021-03-05 17:10:34 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第四十一回(令和3年3月5日)
貝原益軒に学ぶ①
「わが此世に生れ、食にあき、衣をあたゝかにき、居り所をやすくして、天地のたからを多くつひやせる素餐の罪を、すこしまぬかるよすがともなりぬべし。」                      
(『大和俗訓 自序』)

 今回からは、福岡が生んだ大儒・貝原益軒の言葉に学んでいく。益軒は、寛永七年(1630)福岡城内東邸で、父貝原寛斎の五男として生まれた。寛斎は、藩の文書・記録を職務とする祐筆だったが、一時職を失い、その後は地方役人として郊外の郡村を転々としている。如何なる人にも礼儀正しく接し、儒学を好み、医学の心得もあった。益軒は幼い時から学問を好み、次兄の存斎から儒書を学んだ。その後、長崎や江戸・京都に幾度も赴いて学びを深め、藩主の世子の侍講を務める等、その実力は群を抜いていた。自己の養生に務めて正徳四年(1714)八十五歳で歿した。当時としては異例の長寿である。

 益軒は、晩年に、和字を使って数多くの「教訓書」を著した。『益軒十訓』と称せられる「家訓」「君子訓」「大和俗訓」「和俗童子訓」「楽訓」「五常訓」「家道訓」「養生訓」「文武訓」「初学訓」がある。他にも、「和字家訓」「五倫訓」「神祇訓」がある。何故、かくも多くの教訓書を記したのか、その事を益軒は「大和俗訓」(七十九歳)の「自序」に次の様に記している。

「高い所に登る為には必ず麓から歩み始めねばならないし、遠くに行く為には必ず近い所から始めねばならない。それ故、不幸にして漢字(漢文)を知らない人の為に少しばかり私が聞いた世の中の理を、今の俗語を以て書き集めた。」

「世の中の愚かな夫婦や分別のつかない児女に、人としての道を諭す事が出来ればと思うばかりである。」

「この書に限らず、かねてより身近な教訓とも言えるような事を大和の小文字(和語)で種々書き記して来たので、世の中の道学者と呼ばれる人には笑われるかもしれないが、私が志した事でもあるので、世の人の謗りなどは恐れるには足りない。つくづく思うには、私が天地の限りない恩恵を被り人と生まれた幸せは、愚かな身では、その大いなる徳の万分の一を幾世かけても報いる事は難しい。せめてこの様な浅はかな書を作って、世の中の無学な人や、子供達、卑しい生業の男女を教え諭して、世の中の一助にでもなれば、私がこの世に生まれ、食にも不自由せず、暖かい衣服を着て、安住して天地の恵みの宝を多く費やしている素餐(才能や功績が無くて徒に禄をはむ事)の罪を少しでも免れるよすがとなるであろうと思うからである。」

「八十路も迫り、何事も無く過ごせばやがては草木と同じ様に朽ち果ててしまう。それが残念なので、我が身の才能の拙い事も忘れ、みだりに筆を起こしているのである。老いらくの身は心も眼もたどたどしい。間違った事を記している怖れがあるが、それは、志を共にする人が後世に書き改めて世の人々を諭してくれれば、誠に願わしい私の本意にかなうのである。」

 晩年の日々を、自らの生の意義を深く見つめて、筆に魂を刻み続けた益軒の「求道心」が伺われる文章である。私達も、この様な意義ある晩年の日々を送らねばならないと思う。

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