「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑰ 宮家 儀 「20年8月18日、北千島・占守島四嶺山にてソ連軍を撃退、戦死した戦車中隊長」

2021-02-02 13:27:36 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
終戦後のソ連の侵略に立ち向かう
宮家  儀(みやけ はかる)S14卒
「20年8月18日、北千島・占守島四嶺山にてソ連軍を撃退、戦死した戦車中隊長」

 宮家儀は熊本市城山半田町の出身。小学校では全ての学年で級長を務めた。妹によれば、綺麗好きで自分の部屋は自分で掃除して管理していたという。済々黌在学の時、母親は男の子がポケットに手を入れのは見苦しいと、ズボンのポケットを縫いつぶしたと言う。一人息子故に厳しく育てられた。それ故、親が頼む事なら「勉強があるけどなあ」と言いながらも畑やお使いに直ぐに走った。その代わり、ご飯の時も本を読みながら食べていたと言う。甘党で饅頭や羊羹が好物だった。姉妹が三人居て四人で三賢堂や本妙寺に遊びに行く為に仲良く連れ立つ姿に母親は目を細めていたと言う。

 済々黌から陸軍士官学校(56期)に進んだ。陸士を卒業して戦地への赴任を前に家族で皇居と靖国神社に参拝。靖国神社で「お母さん、未来の僕の家、もう一度、来んといかんですよ。もしものことがあっても、めそめそしたら、見苦しかですよ」と述べ、母親は「なんでも、よくいうことは聞いてくれたから、あんたのいうことも、母さんは聞いて、決して泣かんよ」と拝殿の横で約束したと言う。

 宮家は満州に展開する戦車第11聯隊に赴任した。昭和19年2月、満州国東安省斐徳を出発、日本本土防衛の任を受けて、朝鮮→門司→山陽→東海道→東北線を経て青函連絡船経由、小樽へと移動した。

 3月中旬に高島丸に乗船して4月中旬には千島列島最北端の島である占守島(しゅむしゅとう)に到着、5月中旬迄には聯隊主力は終結を完了した。宮家大尉は19年11月から20年6月までは聯隊本部付、6月15日に第二中隊長を命じられた。

 20年8月16日、終戦の報が伝わる。宮家少佐は翌日に中隊全員に伝え、「また、今後、如何なる状況になるかも知れぬ。お互い、別れ別れになろうこともあろうから」と、その日、中隊に残っている被服の新品などは全部取り出して、古品と交換、夜に、中隊全員で会食を催した。

 ところが、17日午後10時45分頃、ソ連軍は対岸のカムチャッカ半島南端のロパトカ岬から、占守島の国端崎に砲撃を行い、占守島の竹田浜に上陸を開始した。スターリンは、日本がポツダム宣言を受諾した空白に乗じて、火事場泥棒的に千島列島に侵攻し力づくで奪い取ろうと考えていた。わが軍は平和裏での停戦を予想していたが、ソ連はあくまでも武力による占領を企図していた。ソ連軍の公然たる侵略に対し、わが守備隊は戦闘を決断した。

 18日午前3時、宮家中隊に戦闘準備が下った。戦隊本部は島の南西部千歳台にあった。朝6時宮家隊長は小型自動車で戦場となっている島の北部の四嶺山(標高約170m)に先行、隊車8両も二時間かけて駆け付けた。そして、四嶺山の一峯である女体山に向かい、午前9時頃、その鞍部から、上陸したソ連兵の中に突入、砲塔から身体を乗り出して小銃で射撃しながら反転しつつ、戦闘を繰り返した。しかし、敵の対戦車銃弾が、宮家大尉の眼部より後頭部に貫通、ものもいわず、車内に崩れ落ちて戦死した。この戦闘で宮家隊長以下16名、聯隊では連隊長以下95名が戦死した。

しかし、この激戦によってソ連軍は竹田浜まで撤退を余儀なくされ、翌日には日本軍に包囲されて殲滅の危機に陥った。この間停戦交渉が行われ、21日に漸く停戦が実現し、23・24日に日本軍の武装解除が行われた。わが軍の損害は死傷者約700人、ソ連軍は海上で約4千人、陸上では3千人を超える犠牲を出し、イズベスチア紙は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民の悲しみの日である」と述べた。わが軍の勇戦の間に民間人は一部を除き、島を脱出する事に成功している。日本敗戦後にソ連が満州や樺太などで行った残虐行為を考える時、千島列島に攻め寄せたソ連軍を一週間も足止めした功績は大きい。

【遺詠】
散りてなお香りは高し若桜進まん道はただ誠なり

【遺書】(通信紙に認められた分)
 皇国保護の任に当ります。その折、九段の桜の下に会いましょう。戦死の報あらば、「宿望大成御慶祝被下度候(下され度(たく)候)」と、門口に大書し下されますよう願上げます。そして、祝宴を挙げて下さい。そのとき、再び米英撃滅に出かけておりますから。
 私は、生を享けて二十有五年のこの方、親不孝をなさなかったという信念があります。私は、真面目を一生の訓えとしていました。微力とはいえ、勉強、その他に最善の努力を払ったつもりで、今さらの如く満足です。
 姉様 私の杖であったと、一言で尽きさせて下さい。
 妹へ 年を経るに従い、姉兄を凌ぐ立派な妹になってきた。嬉しい。忠孝一本、孝、すなわち忠なり。いつまでも親に孝を尽くされよ。

【遺信】(両親あて)
 皇軍将校中の将校たる、私の今日までの経路を、今、静かに御両親様方、想起して下さい。
 今日あっての私です。否、今日あっての私の御両親様ではありませんか。
 陸士採用通知ありたるときの喜び、陸士休暇帰省の喜びは、一体、なんのための喜びであったでしょう。今日に至るまでの、道程中の喜びではありませんか。それが、今、目的に達せんとする、今までにないことなれば、今までの喜びよりは、数段の違いがなければなるまいと思います。
 すなわち、皇国民としての最大の喜びです。大いに喜んで下さい。本当に、いろいろお世話になりました。御両親様が、ただ、汗と油で老躯に鞭うち、子供のため働かれ、私を中学に入れて下さいました。また、私は遅れながらも陸士を突破、入校しました。御両親様の誠心、真面目によって、私は生かされてきたことを、ようやく知ったのです。だから、真面目こそ、私の旗印となりました。
 これが最後の便りと信じます。決して、生還は出来ません。十中九分五厘まで、充分覚悟して気持を平静にしていて下さい。また、心配されて身体を弱くなされないように、切に切に、お願いいたします。
                                                                             (昭和19年3月1日、小樽にて)

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