「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

竹島の不当支配を許した憲法の「平和主義」―竹島を巡る日韓攻防史から尖閣諸島防衛を考える―

2020-08-01 13:15:06 | 時局問題
竹島の不当支配を許した憲法の「平和主義」
 竹島を巡る日韓攻防史から尖閣諸島防衛を考える
( 『祖国と青年』平成24年12月号掲載)  多久善郎

 尖閣諸島奪還を唱える世界保釣連盟は、「韓国が日本から独島(竹島)を争って奪回した事を他山の石にしよう」と呼びかけている。尖閣諸島の防衛を考えるに当って我々は、竹島が何故に韓国により不当支配されるに至ったのか、その歴史を振り返る中で対応の問題点を考えていきたい。

   李承晩の暴挙と、竹島の実効支配を巡る攻防

 大東亜戦争の敗戦後、連合国は、世界有数の実力を有した日本漁業を抑えこむ為に、その操業区域を厳しく制限し、朝鮮半島の漁場、黄海、東シナ海の漁場を閉鎖した。それがマッカーサーラインといわれるもので、竹島はラインの外側とされた。その後、昭和26年9月8日にはサンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月の条約発効と同時にマッカーサーラインは撤廃される事となった。この間、韓国は連合国への加盟を要請したが、日本と戦ってもいない韓国を戦勝国扱いは出来ないと拒否された。そこで、韓国は講和条約で日本が放棄すべき島として、対馬・独島(竹島)・波浪島(実在しない島)を要求した。だが米国のラスク国務次官補は、竹島の領有権について「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、われわれの情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」と返答して拒否した。更に韓国政府は、韓国漁業保護を名目に日本漁船を竹島周辺海域から締め出す事を考えて、マッカーサーライン維持を要望したが、米政府は受け入れなかった。そこで韓国は、講和条約締結の日に国務会議を開き「漁業保護水域宣言案」を通過させた。その中には「我国はマ・ラインの恵沢を受けている」「のちに日本と漁業協定を締結する時に、我国の立場を有利にすべきである。」「対日講和条約が宣布されるまえに宣布することによって、(略)我国もまた既定事実として主張することができる。」との文言があり、連合国が与えた恩恵を既成事実化して、今後の対日交渉を有利に導こうとの思惑があった。

 それを受けて韓国の李承晩大統領は、昭和27年1月18日、韓国国務院告示第十四号「大韓民国隣接海洋の主権に関する大統領宣言(平和ライン宣言)」即ち「李承晩ライン」を一方的に設定し、日本漁船の立ち入りを禁止した。当然、日本政府は抗議声明を発表した。2月11日、済州島西南100キロの地点で、三洋水産所属の底引漁船石宝丸(75トン)が操業中韓国警備艇により無警告で銃撃され岡山船長は船橋を血に染めて倒れて停船した。警備艇は同船の漁獲物と漁具を没収して去った。正に海賊行為に他ならなかった。4月28日、講和条約が発効、竹島は朝鮮に帰属する地域から外れ、日本領として確定した。だが韓国は、米軍の勢力圏が竹島から外れた事に乗じて、実力で竹島を強奪する事を企図する。日本に統治されていた屈辱(恨)を「日本から領土を奪う事」によって晴らすという訳である。5月16日、島根県は、竹島での海驢漁業を知事の許可事業とし、20日には、外務大臣及び農林大臣に、竹島の米軍爆撃演習地からの除外を陳情(翌年3月19日に実現)。7月13日、日本は「海上保安庁巡視区域(ABCライン)」を設定した。当然、竹島はその中に含まれていた。9月27日に国連軍は、朝鮮戦争に伴う防衛水域として、マ・ラインに準じたクラークラインを設定したが、暫定的なものだった。しかし、韓国は実力行使に出る。10月には巡視船「いき」が韓国警備艇の銃撃を受けた。

 朝鮮戦争が休戦に向かう中、昭和28年1月12日、李大統領は「李ライン」内に出漁した日本漁船拿捕を指示し、日本への圧力を強めた。国連軍として共に戦っている米国が制止するはずは無いとの判断だった。2月4日、第一大邦丸事件が起こった。公海上で操業中の福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕、第一大邦丸漁労長の瀬戸重次郎氏(34歳)が被弾して死亡した。韓国側は銃を乱射しており、明らかに殺害を目的とした暴挙だった。2月27日、韓国政府は独島(竹島)の領有権に関する声明を発表。4月20日、韓国側資料によれば、韓国の「独島義勇守備隊」が竹島に上陸し、その後3年8か月間滞在となっている。しかし、6月27日に海上保安庁が竹島に上陸し彼等を発見した際の証言として、日本の『海上保安庁の思い出』の中には「海岸付近のバラック小屋から、寝とぼけ眼というよりも兎の目のように赤くした韓国漁民6名が飛び出し、迎えてくれた。彼等は、素もぐりでワカメ等の採取を行っており、眼病を患っていたのである。彼等は、ウツリョウ島から来島し、既に10数日になるが迎えの船が来ないとか。」(小川健治氏)と記してあるので、「独島義勇守備隊」なるものは、後の創作に過ぎない。韓国漁民が不当上陸して漁労活動を行っていたのだ。5月に島根県水産試験船「島根丸」が、竹島に韓国人漁夫が上陸して、アワビなどを採取しているのを発見。韓国政府に抗議するも、韓国側も領土権を主張。日本政府は、拿捕事件の頻発化に伴い、5月23日に漁船保護対策に関する閣議決定を行い、朝鮮半島周辺海域に常時巡視船2隻を配置する事とした。5月28日及び6月11日・17日・28日と日本漁民が竹島へ上陸(韓国側資料に「日本の独島侵犯」と表記)。6月17日、海上保安庁は「竹島周辺海域の密航密漁取り締り強化」を決定、27日に巡視船2隻で第一次竹島取締りを実施、竹島に上陸して設標、前述の韓国人6人に退去勧告を行う。更に、海上保安庁と島根県が共同調査を行い「島根県穏地郡五箇村竹島」の標識を立てた。7月になると、韓国国会は独島(竹島)に「独島警備隊」を派遣する事を決議。7月12日、竹島に上陸していた韓国民間人による「独島義勇守備隊」が海上保安庁の船に発砲。7月27日に朝鮮戦争の休戦が実現、クラークラインは停止される。9月3日、韓国海軍は、韓国水域を侵犯した日本漁船を「今後は発砲、撃沈」すると警告、8日午前零時を期して、李ラインからの日本漁船の追い出し、捕獲を行うと通告。愈々拿捕が本格化した。この事態に対し、福岡保安部所属「くさかき」船長の根本孝彦氏は意を決して韓国海軍を捕捉し、8日正午頃に韓国側海軍司令艦に接舷し移乗して韓国政府の暴挙を詰問した。だが、話は平行線だったという。以後、10月30日までの二か月間で拿捕・拉致された漁船・漁民は42隻508名に達した。これらの漁民は釜山地方院で裁判にかけられ、罰金を科せられ、漁船を没収された。この中には9月28日に拿捕・抑留された海上保安庁巡視船第二京丸も含まれる。それでも、海上保安庁は10月23日には竹島に赴き、韓国側が設置した領土表示を撤去し日本の領土表示を設置した(韓国側資料)。11月27日、わが国は「韓国周辺及び東支那海方面公海におけるだ捕事件対策強化措置要綱」を閣議決定。両海域に常時6~7隻の巡視船を哨戒させて、拿捕を防止する事とする。韓国では12月1日に李ラインを前提とした「魚族保護法」が国会を通過、更に海洋警察隊を設立し、李ラインの警備強化を図り、警備範囲を順次拡大、12月30日以降、慶尚北道鬱陵郡警察署の管轄とした。

    昭和29年の攻防、屈辱の8月23日

 年が改まって29年1月18日、韓国の沿岸警備隊が竹島に領土標識を設置した。2月4日には第六あけぼの丸が韓国フリゲート艦に後ろから追突されて沈没し、漁船員25名中21名が死亡するという暴挙が起こる。2月10日、日本外務省は覚書を送り、竹島は日本固有の領土である事を伝えて抗議した。更に現状確認の為に巡視艇を派遣し、韓国が設置した標識を取り除き、竹島が日本領である事を示す標識を立てた。2月20日、巡視船「さど」が韓国警備艇から銃撃を受けて拿捕され、済州邑まで連行される。「さど」は「以後絶対に李ラインを侵さない」との屈辱的な誓約書をとられて釈放された。同じく「くさがき」も銃撃を浴びせられている。李ラインでは巡視船に対する連行・臨検事件が3回、銃撃事件が15回起こった。3月1日、海上保安庁は、第7管区海上保安本部に「だ捕事件対策本部」を設置、水産庁と海上保安庁の連絡が緊密化される事になった。更には巡視船の武装化を決断、3月末まで8隻に機関銃を装備する。何と、この時まで日本の海上保安庁船艇は非武装だったのだ。だが、この武装化について当時の山口傳海上保安庁長官は「本来の沿岸警備業務の為」であり「李ラインへの対抗措置ではない」と述べている。その結果、これ以降も、海上保安庁の船は装備武器の不使用を余儀なくされる。『海上保安庁の思い出』の中で吉海公教氏は「限りない憤り」と題して次のように記している。「李ラインといっても、なにも、海上に線が引かれているわけではない。しかし、この見えない線をわけて、漁撈に熱中する日本漁船を、情容赦もなく銃撃し、拿捕する韓国警備艇であり、それに対して、漁船保護に出動する我々は、何の手出しも許されなかった。基地出発に際しては、重い40ミリ砲の砲身をはずし、倉庫に格納しなければならなかった。若かった我々は、船の大きさ、スピード、装備と、どれをとっても負ける事のない韓国警備艇に対して、いたずらに無抵抗をつづけなければならない我々自身に、限りない憤りさえ感じた。煙幕、進路妨害、そして横抱き退避、これだけが我々の許された行動であった。(略)それが現実であり、日本の国にとって海上の平和のために創設された海上保安庁の任務であり、大きな、そして辛い、苦しい試錬であった。」。巻幡静彦氏も「李ライン特哨のころ」と題して「当方はあくまでも平和的にという枠内でやることであるから、特哨船が韓国警備艇の動静を捕捉し追尾し、その動向を無線で漁船に警告して危険水域から退避させるという戦術であった(略)状況によっては、巡視船が『不法拿捕を止めよ』と拡声機で呼びかけながら漁船と警備艇の中に割ってはいって助けるということもしばしばであった。こういう状況がエスカレートして来ると、警備艇は漁船のみならず巡視船に対しても銃撃を加えることがあり、僕の前任者の渡辺本部長などは、『公海の、公船に対する海賊行為に対しては自衛上断乎たる措置をとる』と言明して物議をかもしたこともあった。3インチ砲や機銃を積んではいたが、何しろあくまで平和手段でということだから効果に限界があり、やきもきしたが、ことに眼の前でみすみす漁船を連行されるときの第一線の巡視船乗組員は、肉体的な労苦もさることながら挫折感あるいは欲求不満というものが大きかったようである。」と、その苦悩を記している。渡辺本部長の正論は結局圧殺されたのである。

 この様な対応しかできない日本を見て韓国は更に強硬手段に出る。6月11日、韓国は竹島に駐留する沿岸警備隊を派遣、不法占拠が始まる。更に8月10日に無人灯台を建設、点燈させた。そして運命の8月23日を迎える。韓国側が竹島に警備員を常駐させたとの情報を得た海上保安庁は、8月22日に巡視船「おき」を竹島に派遣した。23日未明、竹島の南側約700メートル地点まで近づいた時、山の中腹から白煙が上がり、突然機銃掃射を浴びた。そこで「おき」は反転して全速で帰港した。発射弾は約400発で「おき」の船橋を狙って掃射されていた。この事件は、我が国に竹島を実力ででも奪還するか否かとの問いを投げかけた。当時の海上保安庁は発足から6年を経過し、この年7月には自衛隊も発足して居た。海上保安庁は実力奪還の実力を十分有していた。だが、政治(吉田茂内閣の末期)は次の判断を下した。「海上保安庁では、29年8月巡視船『おき』被銃撃事件のあと、関係省庁と協議した結果、実力による対抗手段は避けて、外交々渉により平和的解決を図るという基本方針」(『海上保安庁30年史』)を決定し、竹島の実力奪還を放棄した。その結果、9月2日には韓国が竹島の武力占拠を決定して沿岸警備隊を竹島に常駐させた。更には、竹島を図案化した切手迄発行する。9月25日、日本政府は国際司法裁判所への付託を提案するが韓国が拒否する。爾来日本側は竹島に、上陸はおろか近づく事さえ出来なくなったのである。11月30日には、近づいた日本の巡視船に再び砲撃が加えられている。

  憤激した国内世論、だが政府は「平和解決」に固執

 ご年配の方々は、李承晩ラインについては鮮烈な記憶を有しておられ、「暁の李承晩ライン」の歌があったと語られた方もおられる。当時の日本国民は骨太で、韓国の暴挙に対しては国会のみならずマスコミも挙って非難していた。昭和28年10月28日の衆議院外務委員会で佐々木盛雄委員(自由党)は次の様に述べている。「日本人の生命財産が、韓国側の海賊的な行為によって不当に蹂躙されておる、あるいはまた竹島という日本の領土の一角が不法に侵略されておる。(略)国敗れたりとはいえども、この地球上の一弱小国であるところの韓国から、日本がこんな屈辱を受けて手も足も出ない、まことに醜態ではないかという声は、私はけだし一般の輿論、国論としては当然のことであろうかと思います。(略)日本は今日食糧難です。今日この六〇万人の朝鮮人、韓国人に対して生活保護を与えておる。ない食糧をさいて提供しておるわけであります。(略)対抗措置といたしまして、日本におります韓国人に対するところの強制送還、ないしはこれらに対するところの何らかの対抗措置というものを当然今日の段階においてもはや考えるべく、そして行うべき段階ではなかろうか、またこれが今日九千万国民の本当の声であろう」と。当時の国民全体の実感であった。更に事態が深刻化するに応じて、「自衛権発動」の可否、日米行政協定二四条による「急迫した事態」の論議、「自衛力増強」「再軍備」必要の議論がなされた。改進党の重光総裁は声明を発表し、竹島・李ライン問題で「自衛権を放棄するような態度は国家の独立権を否認することだ」「南鮮の軍隊がいつ両島(壱岐・対馬)に上陸してくるかわからぬ」と警告を発している。東大の横田喜三郎教授も「今後日本の漁船が出漁しても捕えられないために巡視船、フリゲート艦を派遣して漁船を保護し、もし韓国が無理にも逮捕しようとしてこれに抵抗し、武力を行使するというのなら自衛権ということが言える」と毎日新聞紙上で述べている。社会党の議員でさえ、「これは直接侵略と見てさしつかえないのじゃないか」と米軍への出動要請を求めている。だが、岡崎外務大臣は「平和解決――国際紛争に武力を使わないということは、われわれの深く信じて居るところであります。」と米軍への出動要請を拒否した。

   竹島の棚上げと韓国による不当支配強化

この間、日韓正常化交渉が、昭和26年10月20日から40年6月22日の「日韓基本条約」締結まで、幾度も中断しながら七回にわたって行われる。その間中、韓国は日本漁船の拿捕、漁民の拉致を強行し続け、抑留者を人質として日本側に譲歩を迫っている。現在、北朝鮮が横田めぐみさんを始めとする日本人を拉致し、その解放を交渉カードとして日本から多額のお金を引き出そうとしているのと全く同様の手口である。日韓基本条約によって李ラインは撤廃されるが、それ迄に拿捕された日本漁船は328隻(未帰還185隻・沈没3隻)、抑留された日本漁船員が3929人、内44人死傷(死者8名)に及んでいる。日韓基本条約締結に当って、最後まで問題となったのが、竹島の領有権問題であった。40年1月13日、河野一郎国務大臣と丁一権総理はそれぞれ佐藤首相、朴大統領の了承を得て、竹島問題を棚上げにする「竹島密約」を結んだ。その内容は、「竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない。(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない。(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。(ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。(ニ)この合意は以後も引き継いでいく。」というものである。この密約に従って、毎年、年末には日本から領有権主張の口上書が送られ、韓国は反論した。この口上書は昭和27年から51年までの24年間で合計78回(日本側42件、韓国側36件)出されたという。だが、この密約は朴正煕・全斗煥・盧泰愚等の軍事政権までは守られるが、平成5年(1993)に誕生した金泳三政権からは受け継がれず、存在自体も忘却されてしまう。又、政府間の密約が存在している間に、民間人を使った不当支配強化が行われていた。昭和40年から崔鐘徳が竹島に家を造って暮らし始め、62年には、崔鐘徳の婿の趙俊紀一家4人と宋在郁が居住を始める。平成3年には金成道・金信烈が竹島に住民登録を行う。平成元年からは、「青き独島手入れの集い」と称して、竹島に毎年木を植えに行くデモンストレーションが開始され、平成8年4月迄に1500本程が育ったという。平成3年12月、韓国政府は鬱陵島との間に電話ケーブルを設置する。そして、金泳三政権から本格的な不当支配の強化が開始されるのである。平成7年12月には竹島に埠頭建設を開始する。翌年2月9日、日本の池田外相が抗議するも金大統領は反発する。平成9年11月6日には、接岸施設を竣工し、有人灯台建設が開始される。更には、平成4年(1992)から「東海」呼称を開始、理由は「独島(竹島)が『日本海』にあると日本領内にあるようで適切でない」というもの。更には、歴史立て直しの名目で旧朝鮮総統府の取り壊し、「親日派」糾弾の為の法律の制定など、暴挙は益々エスカレートする。平成17年(2005)3月16日には、竹島問題に持続的対処する国家機関が設置される。4月には「東アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」設立、翌年9月に「東北アジア歴史財団」となる。独島・東海・慰安婦・歴史教科書・靖国神社など対日歴史問題で反日攻勢を世界的に執行する機関が誕生したのである。更に韓国政府は毎年100億ウォンを出して世界のNGOを集めて「反日攻勢」の為の会議を行っている。それに、日本からは教科書ネット21の田原義文や神奈川や沖縄からも招待されている。更に崔碩栄によれば、平成14年(2002)位から韓国では企業の「独島イベント」が流行し出したという。又、対日賠償を求める団体が乱立し、詐欺事件まで発生している。平成24年(2012)には、韓国福祉サイバー大学に「独島学科」が開設され、「独島の領土主権問題に関する国民教育指導者および非政府機構の実務を行う人材を養成」するという。韓国には「独島教育士」「独島文化解説士」という資格検定まであるそうだ。韓国海軍は平成19年(2007)に1万8千トンの強襲揚陸艦『独島』を建造、仮想敵国を日本として済州島に海軍基地を設置し、軍最強のイージス艦を配備するという。北朝鮮から砲撃まで受けているのに、韓国海軍は独島(竹島)守備が第一なのだ。こうなると完全に「火病」である。韓国は、自らが他国から奪い取った唯一の戦利品を守る為には、国家が崩壊しても構わないと思っているのだろうか。

 以上、竹島が韓国の一方的な実力行使によって強奪されていく様子を見てきたが、ここぞという場面で、わが国政府はただ「平和的解決」を方針として、韓国側の暴挙に一方的に押されて来ている。それは日本国憲法九条の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」に由来する。昭和29年当時、海上保安庁、海上自衛隊、航空自衛隊の実力は、朝鮮戦争直後の韓国軍など問題にしない程充実していたにも拘らず、領土を奪い返せないのだ。現在でもその呪縛は解けていない。尖閣諸島を竹島の二の舞にして奪われない為にも、竹島が如何にして不当支配されたかを改めて考察し、一日も早く憲法九条の改正を実現しなければならない。

【主な参考文献】『海上保安庁三十年史』・『海上保安庁の思い出』・加藤晴子「戦後日韓関係史への一考察 李ライン問題をめぐって」・高崎宗司『検証日韓会談』・金学俊『増補版 独島/竹島韓国の論理』・ロー・ダニエル『竹島密約』・下條正男「日本海呼称問題で韓国を黙らせる」・崔碩栄『韓国人が書いた韓国が「反日国家」である本当の理由』

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