「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その22 「明治の武士道」その2「いくさ歌」

2014-08-11 22:40:32 | 【連載】武士道の言葉
明治の武士道2「いくさ歌」(『祖国と青年』平成26年5月号掲載)

わが国を汚すものは決して許さず

四百余洲を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃 なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり 正義武断の名 一喝にして世に示す
(「元寇」・明治25年)

 明治武士道の精神が良く表されているのは、明治時代に作られ、その後の日本人に愛唱された「軍歌」の歌詞である。

明治二十七年に勃発した日清戦争では、予め勝利が確信されていた訳ではなかった。それでも明治の日本人は、未来への道を切り拓く為に戦いを決意した。

その時、国民は鎌倉時代の対中国戦「元寇」の故事を想起し、先人達の心意気に負けない必死の覚悟を定めた。その国民の心意気が結実したのが、明治二十五年に永井建子によって作詩・作曲された愛唱歌「元寇」である。

ここで示した一番に続いて

「二、多々良浜辺の戎夷そは何蒙古勢、傲慢無礼者倶に天を戴かず、いでや進みて忠義に鍛えし我が腕、ここぞ国のため日本刀を試し見ん。

 三、こころ筑紫の海に浪おし分て往く、ますら猛夫の身仇を討ち還らずば、死して護国の鬼と誓いし箱崎の、神ぞ知ろし召す大和魂いさぎよし。

 四、天は怒りて海は逆巻く大浪に、国に仇をなす十余万の蒙古勢は、 底の藻屑と消えて残るは唯三人、いつしか雲晴れて玄海灘月清し」

と、元寇当時の奮戦の様を懐古し、鎌倉武士の心意気を高らかに謳ったのである。

私が学んだ九州大学は元寇の古戦場に位置する事もあって、夕方になると応援団が「元寇」の曲を良く吹奏していた。本当に力が漲ってくる楽曲である。

平成二十三年六月、中国は漁船千隻での尖閣諸島侵略を意図し、吾々も石垣市に入って対応に追われた。その時、私は「平成の元寇」という替え歌を作って士気を鼓舞した。幸いその時の侵攻は阻止出来たが、「平成の元寇」の危機は今尚続いている。

ちなみに今の中国は多民族国家と称して蒙古民族も中国民族に含み、「元」も中国四千年の祖先の王朝と称しているから、彼ら流に言えば、元寇の侵略行為の責任を今でも負うべき国家なのである。





敗軍の将を辱めず、相互に讃え合う武士道の交わり

昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 我は讃えつ彼の防備 彼は讃えつ我が武勇(唱歌「水師営の会見」明治39年)

 日清戦争直後、ロシアの主導の三国干渉(恫喝)により、わが国は遼東半島を放棄した。爾来、「臥薪嘗胆」十年、わが国は西欧の超大国ロシアの圧力を排除すべく日露戦争を決意した。

だが、その戦いは多くの犠牲を伴うものだった。日清戦争に比べ日露戦争での戦死者数は八八四二九人と、六・五倍に激増している。

 その中でも、旅順要塞を攻めた乃木大将率いる第三軍の戦いは壮絶であり、陥落まで五カ月を要し、戦死傷者が六万人(戦死者一万五千五百人)近く生じた。

勝敗が決した後の三十八年一月五日、水師営で乃木将軍とステッセル将軍との会見が行われた。予め明治天皇は乃木将軍に「将官ステッセルが祖国のため尽した苦節を嘉し給ひ、武士の名誉を保たしむべきこと」を伝えられていた。乃木将軍は、ロシア側にも帯剣の軍正装を認め、ステッセル中将を手厚く待遇した。

米国記者からの映画撮影要請を断り、会談後にお互いが交互に並ぶ形での写真一枚のみを許した。この写真からはいずれが勝者かは全く分からない。水師営の会見の模様は世界に伝えられ、日本武士道に対する称賛の声が湧き立った。

国内でも感銘を呼び、文学者の佐々木信綱が作詞、岡野貞一が作曲して三十九年六月に「水師営の会見」として発表された。歌詞には明治天皇の思し召し、両将軍の相手を思いやる言葉のやりとり、軍規を重んじる乃木大将の受け答え等的確に表現されている。

「一、旅順開城約成りて敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の所は何処水師営。

 二、庭に一本棗の木弾丸あとも著く、崩れ残れる民屋に今ぞ相見る二将軍。

 三、乃木大将は厳かに御恵み深き大君の大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる。

 四、昨日の敵は今日の友語る言葉もうちとけて、我は讃えつ彼の防備彼は讃えつ我が武勇。

 五、かたち正して言い出でぬ「この方面の戦闘に二子を失い給いつる閣下の心如何にぞ」と。

 六、「二人のわが子それぞれに死所を得たるを喜べり、これぞ武門の面目」と大将答え力あり。

 七、両将昼餉ともにしてなおも尽きせぬ物語、「我に愛する良馬あり今日の紀念に献ずべし」。

 八、「厚意謝するに余りあり、軍の掟に従いて他日我が手に受領せば長く労り養わん」。九、「さらば」と握手懇ろに別れて行くや右左、砲音絶えし砲台に閃き立てり日の御旗」。






「敵兵救助」、海の武士道を示した上村将軍

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼らなり 英雄はらわたちぎれけん 「救助」と君は叫びけり 
(「上村将軍」明治38年)

 日本海の制海権が奪われれば大陸での戦いは行き詰る。ロシアは旅順とウラジオストックに艦隊を持っていた。乃木大将の旅順攻略は前者撃滅の為に海軍から要請された戦いだった。一方、ウラジオストックに潜むロシア艦隊から制海権を守りその撃滅の任務を与えられたのが、上村彦之丞中将率いる第二艦隊だった。

 しかし、日本海特有の濃霧やウラジオ艦隊の神出鬼没な行動に苦しめられ、わが国輸送船の被害が続出し、特に三十七年六月に常陸丸等三隻が撃沈されると、国民の批判は第二艦隊に向けられた。議会では野党から「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧は逆さに読むと無能なり、上村は無能である」と批判され、憤激した民衆は将軍の自宅に投石した。

漸く二カ月後の八月、第二艦隊はウラジオ艦隊を蔚山沖で捕捉、その主力艦を撃滅した。

その際、沈没に瀕しながらも最後まで砲撃を続けていた巡洋艦リューリックの乗組員に対し、「敵ながら天晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令を下し六二七名を救助した。それが感動を呼び「上村将軍」の歌となった。

 江田島にある教育参考館には上村将軍の指揮を「ユーモアに富んだ号令で励まし、平常心を取り戻させた」と紹介してあり、「倒されし竹は漸次に起きあがりたほ勢し雪はあとかたもなし」という、将軍の不屈の人柄が偲べる自作の歌も紹介してある。

「上村将軍」は作詞が佐々木信香、作曲が佐藤茂助である。

「一、荒波吠ゆる風の夜も大潮むせぶ雨の夜も、対馬の沖を守りつつ心を砕く人や誰。

 二、天運時をかさずして君幾度か誹られし、ああ浮薄なる人の声「君睡れり」と言わば言え。

 三、夕日の影の沈む時、星の光の冴ゆる時、君海原を打ち眺め偲ぶ無限の感いかに。

 四、時しも八月十四日、東雲白む浪の上に、煤烟低くたなびきて遙かに敵の影見えぬ。

 五、勇みに勇める丈夫が脾肉は躍り骨は鳴る、見よやマストの旗の色湧立つ血にも似たる哉。

 六、砲声天に轟きて硝煙空に渦まきて、あかねさす日もうち煙り荒るる潮の音高し。

 七、蔚山沖の雲晴れて勝ち誇りたる追撃に、艦隊勇み帰る時身を沈め行くリューリック。

 八、恨みは深き敵なれど捨てなば死せん彼らなり、英雄の腸ちぎれけん「救助」と君は叫びけり。

 九、折しも起る軍楽の響きと共にとこしえに、高きは君が勲なり匂うは君の誉なり。」





亡くなった戦友との深い絆を綴った胸に沁み入る名曲

軍律きびしき中なれど  是が見捨てて置かれうか 「しっかりせよ」と抱起し   仮繃帯も弾丸の中
(「戦友」明治三十八年)

 歴史を繙くと、日本人程平和を好み優しい民族は居ない反面、危機の時にはすさまじい勇気と強さが発揮されている。日本人は「優しい」から「強い」と思う。

 私が小中学生の頃、父は日曜日になると軍歌のレコードを流していた。その中で、父が好み、私が最初に覚えた軍歌は「戦友」という、物悲しい曲だった。その独特のメロディーは何故か心に沁み入り、何番も続く歌詞を直ぐに暗記した。斃れた戦友への深い思いが綴られた歌詞は、物語でも聞いて入るような感じを覚えた。

その「戦友」は日露戦争の満州が舞台だった。「戦友」は日本軍歌一の名曲と言われてきた。だが、昭和の戦意高揚の時代には、歌唱が禁止された事もあった。しかし、将兵の間では一貫して広く歌い継がれて来た。日本人の魂を揺さぶる真実が込められていたからである。作詩は真下飛泉、作曲は三善和気である。

「一、ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下。

 二、思へば悲し昨日まで、真先かけて突進し、敵を散々懲らしたる勇士はここに眠れるか。

 三、ああ戦の最中に 隣におりし我が友の、俄かにハタと倒れしを我は思はず駈け寄って。

 四、軍律厳しき中なれど是が見捨てて置かれうか、「しっかりせよ」と抱起し仮繃帯も弾丸の中。

 五、折から起る吶喊に友はやうやう顔上げて「お国の為だ構はずに後れてくれな」と目に涙。

 六、あとに心は残れども 残しちゃならぬ此身体、「それぢゃ行くよ」と別れたが、永の別れとなったのか。

 七、戦すんで日が暮れて捜しに戻る心では、どうぞ生てゐて呉れよ物など言へと願ふたに。

 八、空しく冷えて魂は故郷へ帰ったポケットに、時計ばかりがコチコチと動いてゐるも情けなや。

 九、思へば去年船出してお国が見えずなった時、玄海灘に手を握り名を名乗ったが始めにて。

 十、 それより後は一本の煙草も二人で分けてのみ、着いた手紙も見せ合て身の上話くり返し。

 十一、肩を抱いては口癖に、 どうせ命は無いものよ死んだら骨を頼むぞと、言ひかはしたる二人仲。

 十二、 思ひも寄らぬ我一人不思議に命永らへて、赤い夕日の満洲に友の塚穴掘らうとは。

 十三、隈なくはれた月今宵心しみじみ筆とって、友の最期をこまごまと親御へ送る此手紙。

 十四、筆の運びは拙いが行燈のかげで親達の読まるる心思ひやり思はず落とす一雫。」
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