「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

河井継之助  独立特行を志した北越の英雄1 天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ

2011-04-06 17:47:46 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十八回(『祖国と青年』22年10月号掲載)

河井継之助  独立特行を志した北越の英雄1

 天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ



 「恩義」と「大義」との両立が難しくなった時、「義を貫く」為には如何に行動すべきか、幕末、長岡藩の英傑、河井継之助の生き方は、吾々にその事を教えてくれる。

戊辰戦争の時、長岡藩は、薩長中心の官軍と幕府・会津藩との間に立って、恩義ある幕府と大義の存する官軍との双方を和解させる為の「仲介役」を志し、「武装中立」を標榜した。だが、官軍の理解が得られず、長岡に侵攻した官軍から郷土を守る為に果敢に戦い、奪取された長岡城を再奪取するなど、官軍に多大の損害を与えつつも、衆寡敵せず、敗北して、河井継之助はその四十二年の生涯を終えた。


  十七歳で国の干城たらんとの志を立て王陽明を祭る

 河井継之助が長岡に生を受けたのは、文政十年(1827)の正月元旦である。家は藩主牧野侯に代々仕える百二十石、「奉行」職の家柄であり、その嫡男として生まれた。中々元気の良い子供で、激しい個性で先生や親を困らせる事が多かったという。強情な反面、俗謡や盆踊りに興じる奔放さがあった。

十六歳で元服し、それから読書に励み、心の内を陶冶する様になる。藩校『崇徳館』で佐藤一斎門下の高野松陰に学び、特に陽明学に魅かれ、十七歳で鶏を割いて王陽明を祭り、国家の干城(国の守り)となることを誓った。継之助の言葉に次のものがある。

●天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ、屁もこけ、牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人類の血や肉を喰い尽すか、どちらかになれ

継之助の勉強法は、多読では無く精読だった。これだという書物を筆写、則ち書き写して行くのである。当時は書物の出版量は少なく、コピー機など勿論無い。継之助は二十歳頃から写本に熱中する様になる。継之助は「漫然と多読しても、何の得るところもない。読書の功は、心をひそめて精読することにある。」と語っている。当時写した書物は、太宰春台『経済録』五冊、佐藤一斎『言志録』一冊、頼山陽『日本楽府』三部、『明朝紀事本末』五部七冊、『歴代名臣奏議』三冊、『綱鑑技書』一冊、『岳忠武王集』一冊、『職方外記』一冊、『蘇文』一冊などである。

二十三歳で同藩の梛野嘉兵衛の妹・すが(十六歳)と結婚。二十六歳の嘉永五年(一八五二)に江戸遊学に旅立つ。斎藤拙堂の門に学んだが、満足を覚えず、古賀茶渓の塾「久敬舎」を叩いた。古賀は西洋の情勢に通じ、銃砲・海外貿易・船舶の重要性を説く人物だった。この古賀塾で継之助は『李忠定公集』を発見し、感動してむさぼり読み、全十二巻を筆写した。支那南宋の名将軍・名宰相である李忠定(李綱)は、自ら義勇軍を率いて北方の脅威である金と戦うと共に、富国強兵の献策を行い、宰相に登用されたが、回りの讒言により、わずか七十五日で解任された。その上奏文(奏議)は「大胆率直、悲壮淋漓、憂国の至情あふれる名文」であり、頼山陽も愛誦している。

更に継之助は佐久間象山の門も叩いた。年末に帰国した継之助は、翌年藩主・牧野忠雅に建白して時事を論じ、重臣等の無能を弾劾し藩政の欠陥是正を訴えた。それが藩主の目に留まり、評定方随役(新しい法規や有用な計画を立案したり賞罰の評定にも預かり、藩政に自由に意見が言える立場)に抜擢される。

だが、異例の抜擢に門閥からの反発は大きく、何を言っても採用されず、わずか三ヶ月で辞任してしまった。二十八歳の時である。

これから約四年、継之助は砲術の稽古に没頭したり、東北各地を遊歴するなどして、自己の内実の強化に努めた。

●十七 天に誓って 補国に任る 春秋 廿九にして 宿心たおる 千載 この機 得べきこと難し  世味知り来って 長大息す(十七歳の時、天に誓って、国家を支える人物になろうと決意した。今や二十九歳を迎え、世間の俗事に煩わせられ、嘆きため息が出る事ばかりである。)

●英雄 事をなす あに縁なからんや 出処 ただ応に自然に付すべし 古より 天人 定数を存す 好し まさに酣睡して 残年を送らんとす(英雄が事を為すには、縁と言うものがある。出処進退は自然に任せよう。人間には与えられた命数・寿命がある。悠々と年を送り機会を待とう。)


    三十三歳で正師・山田方谷の下に学ぶ

 安政四年(一八五七)に父が隠居し家督を継ぐ。五年、牧野忠恭が藩主を襲封し継之助を外様吟味役に登用した。継之助は藩主の期待に見事応え、古志郡宮路村の訴訟事件を短期間で和解させて解決する。その功もあって、安政五年十二月二十七日御用納めの日に江戸への再遊学の許可が下り、継之助はその日の内に江戸へ向けて出発している。冬の山越えである。継之助が再度の遊学を如何に待ち望んでいたか解る。

安政六年(一八九五)正月六日に江戸に到着し、十五日に再び久敬舎に入塾した。継之助三十三歳の時である。六月七日、継之助は本物の「師」と思い定めた人物に学ぶべく旅に出る。その学資を懇望すべく故郷の父に長文三千余字に上る書簡を認めた。

●当地は、さすが大都会、大学者も多く、実に私輩の未熟、師範に致す可き者は幾等も御座候え共、兎角、学問を職業の様にいたし候者多く、才徳を兼ね候実学の人、少なき様に存ぜられ候処、第一思望仕り候・山田安五郎(略)
右、安五郎と申す者は、元来は百姓にて、只今は登用せられ、政事に預り、国中、神の如くに伏し候由。其の事業、実に感心仕り候。已に此頃も、諸国遊歴人に承り候に、政事の万事行届き候は、備中松山侯と、相馬様と承り(略)
一斎塾(佐藤一斎塾)にて、同門致され、其の節、安五郎塾長いたし、所謂、佐久間(象山)を始め数人の上に立ち、衆人を服し候は、安五郎のみと、高野の信仰話を承り、其の後、登用せられ、君公への仕え方、事業に施し候次第、追々承知、如何にも慕わ敷く存じ奉り、修業中に、何卒一度は彼地へ立越し候て、暫くも従学仕らんと思い込み、(略)

継之助は、山田方谷こそが自分が長年求め続けていた師で在る事を語り、その遊学の許可が降りた事を「登天の心地、大慶に存じ奉り候」と記している。この書簡を託した長岡藩の村松忠冶右衛門が継之助の父への土産を相談した際、継之助は一度辞退したが、重ねて是非にと言われたので、「それでは、盃のなかに、半開の桜の折枝を描いて、金で微酔と書いたものを上げて下さい。」「父は酒が好物なので、充分に楽しんでいただきたいが、健康にさわらないように、この盃を見て加減していただきたい。」(村松『思出草』)と語ったという。継之助の父親に対する心遣いを示すエピソードである。長文に認められた継之助の志は父を動かし、五十両の援助を得た。

継之助は感謝して、まだ見ぬ正師・山田方谷の居る備中松山藩(岡山県高梁市)を目指した。行動の人である継之助はまとまった著述は記していない。唯一残されているのが、この旅行日記『塵壷』である。継之助が旅の思い出を両親に話して聞かせる為の備忘録として敢て記したのだった。七月十七日、継之助は遂に待望の師・山田方谷と対面する。継之助は方谷に次の様に語った。

●われは先生の作用を学ばんと欲す。区々たる経を質ね文を問うにあらざるなり。(私は、先生の日常と実務の仕方を学びに来ました。経書の講義や文章は必要ありません)

継之助は方谷の下で、その経世の実際と思想実践の姿とをを観察研究し、直接疑問を問い質し、自らのものと為して行く。又、『王文成公(王陽明)全集』を手抄したりした。途中、方谷が江戸に呼ばれて不在した間は、九州に足を伸ばして長崎に至り、帰路には熊本にも寄っている。翌年春、継之助は方谷が愛用した『王文成公全集』を四両で譲り受け、それを手にして帰路に着く。方谷は継之助の性向を慮り、功をあせらず徳を磨く事を諭す「跋文」を記し贈った。

 万延元年夏、継之助は長岡に戻る。翌文久元年には藩政についての意見を国家老に具申している。文久二年、藩主牧野忠恭は京都所司代を命じられる。時勢を見通す見識を有していた継之助は、藩主の京都所司代辞任を建白する。当時の継之助の見識を伺う手紙が残されている。

●一、天下の形勢は、早晩、大変動を免れざる可しと存ぜられ候。即今、外国の形勢は、戦国時代とも申す可きか。彼得を出し候、俄羅斯などは、殊のほかの勢威と承り候。(略)朝廷、隣国の御交際はいっそうの大事、この際、方向を誤られ候わば皇国の安危に関する義と、恐れながら存じ奉り候。一、京都と関東の御間柄も偖々心痛のことに候。(略)一、外国との御交際は、必然、免れざる御義と存じ候。然る上は、公卿も覇府も之れ無く、政道御一新、上下一統、富国強兵に出精を要すること第一義なるに、何時までも御治世、移り変り無きものと量見し候は、浅慮この上も無く、慨かわ敷き次第に候。一、何を申し上げ候ても小藩のこと、力に及ばず候。この上は精々、藩政を修め、実力を養い、大勢を予察して、大事を誤らざるのほか、他策は之れ無かる可しと存じ奉り候。(万延元年、梛野嘉兵衛宛)

●幕府の長州征伐は、諸大名を制御する威権なき事を、天下に示す儀に之れ有り、毛を吹いて疵を求むるの恐れ之れ有る事と、懸慮に耐えず候。長州侯の領地を御召し上げの御覚悟、之れ無く候へば、第二、第三の長州候出づ可きは、顕然の次第と存じ候。(略)今日は容易ならざるの時、上下一致、綱紀を張り、財用を充し、兵力を強くし、一朝の変、御家名を汚さざる心がけ、第一義と存じ奉り候。(元治元年、八月幕府の長州征伐の令に対する感想・梛野嘉兵衛宛手紙)

継之助は、幕府の崩壊と激動の到来とを予測し、何よりも長岡藩の実力の充実に意を注ぐ「割拠論」を述べている。



   抜群な民政手腕・問題解決能力

 この見識に立って、継之助は藩主の京都所司代や老中職辞任を主張した。その事を巡って、支藩の笠間藩主と激論になり、継之助は不敬の罪で辞職を余儀なくされ、国許へ戻った。

だが、時代は継之助を求めた。慶応元年六月、継之助は外様吟味役に再任され、十月には郡奉行に抜擢(一ヵ年)、以後、継之助は町奉行兼務(五ヶ月)し、御奉行格(七ヶ月)、御年寄役(中老)(五ヶ月)、御家老本職(一ヶ月)、御家老上席(一ヶ月)、軍事総裁(二ヶ月)とわずか二年有余で藩政の最高責任者へと急速に登りつめて行く。

陽明学で精神を鍛えた河井継之助には、抜群の「問題解決能力」が備わっていた。郡奉行に就任した継之助は、「山中騒動」と言われる、刈羽郡山中村他六カ村村民と総庄屋今井徳兵衛の対立の場に自ら乗り込んで、情理を説き、温情を持って見事に解決し、双方を和睦させた。その和解の酒宴で継之助が読み聞かせた文章が次の文である。

●欲の一字より、迷のさまざま、心をくらます種となり、終には身を失い家を失うに至るべし。心を直ぐに悟るなら、現在未来の仕合せなり、子々孫々にも栄ゆべし。ほめそやさるは仇なり、悪みこなさるるは師匠なり、只々一心正直に真実をつくすが身の守り、此の言、夢々忘るべからず。

更に継之助は、領内の庄屋・代官一同を奉行所に呼び出して「御改政御趣意」を読み聞かし、賄賂・金品贈与を厳禁した。継之助は現場の実態を徹底的に調べ、不正の温床を発見するや制度を改め、人事の刷新を断行した。「社倉の掟」を改め、「水腐地処分」の適正化、窮地に陥っていた西蒲原郡の遠藤・横戸村の救援と排水指導、村上藩と共同しての中ノ口川の大土木工事、西川大用水の暗閘改造、「毛見制度」廃止等を行い成果を挙げた。継之助は西蒲原郡の代官・萩野貞左衛門に「斯民を治める意」を書き与え、その中で、民を治める者には「恩」と「威」、「才能」と「人徳」の双方が備わるべき事を教え諭して居る。

●民を安んずるは恩威にあり、無恩の威と、無威の恩は、二つながら無益、其の本は公と明にあり。公なれば人怨まず、明なれば欺かず。此の心をもって善と悪とを見分け、賞罰を行う時は、何事か成らざる無し、有才の人も、徳なければ人服さず。有徳の者も、才なければ事立たず。老兄は立事の才余りありて、人を服するの徳は、御不得手の様に存ぜられ候間、誠を人の腹中に置くの御工夫、御油断、之れ無き様、偏に庶幾う所なり。

民政に於て見事な成果を挙げた継之助には、儒教の「徳知政治」の理想が確乎として培われ、方谷から学んだ実学が息づいていた。継之助は政治に於ける戦いの「機」を弁えていた。相撲に関する次の言葉はその面目を伝えている。

●相撲の見どころは立合いである。双方とも充分に仕切って、持てる力を充分に出し合う。仕切が充分でないと、持てる力も発揮できない。仕切りのコツは、相手が仕切に入るのをたしかめてから、こちらも仕切って一瞬早く立つ。つまり、相手より遅く仕切って早く立つ。この呼吸が大切なところだ。
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