「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その10 「山鹿素行 その2」

2014-07-27 16:15:04 | 【連載】武士道の言葉
山鹿素行 その二(『祖国と青年』平成25年3月号掲載)

先づ気を養ひ得るを修身存心の本とすべき也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)

 今号では、四項ある「士道」の第二項目、「心術を明かにす」即ち、「日常の心の持ち方」について述べている所から、四つの言葉を紹介する。

 素行は、「何よりも、気を養う事の出来る事が、身を修め立派な心を身に付ける基本である」と述べる。「気」とは何か。気を使った熟語は、気分・元気・気力・気持ち・病気など多数あり、よく使われる。『広辞苑』を見ると、四つの意味が書かれているが、素行が使っているのは、その内の二番目の「生命力の原動力となる勢い。活力の源。」の意味であろう。その「気」を養う事が修身の根本であるというのだ。「養う」とはいかなる事か。素行はこの言葉に続けて「自分が持っている生まれつきの気質には強すぎたり弱かったりする部分があるので、様々な事に常に程よく対応できる様な気質を、日常生活の中で工夫して身に付ける事である。」と述べている。

 確かに、気が強すぎれば他者を寄せ付けないし、弱ければ他者のペースに呑み込まれてしまう。強すぎる「気」は長続きしない。強さが途絶えたところで、敗北を喫してしまう。素行のこの言葉は孟子の「浩然の気を養う」を意識して書かれている。「浩然の気」は、かぎりなく広大で、天地に充満し、生命や活力の源になる気を言う。それは「義を繰り返し行う事で得られ、心に疚しいことがあれば直ぐに消えてしまうもの」である。

 私は、二時間に及ぶ講演をする事があるが、その間、良知に基づく誠心を言葉に乗せて気を発して訴えている。それ故、受講者からは「元気を戴いた」と良く言われる。講演後、さすがに身体は疲れも覚えるが、気が尽きる事は無い。日頃の養気の為せる業かと密かに自負している。



温籍と云ふは、含蓄包容有りの意也。内に徳をふくみ光をつつみて、外に圭角あらはれざるのこと也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』) 

次に素行は、心の広さ、高さ、深さ、について「度量」「志気」「温籍」「風度」という言葉を使って述べている。字数の関係もあるので、ここでは、「温籍」についてのみ紹介しよう。

 「温籍」とは、あまり聞き慣れない言葉だが、「おんしゃ」と読んでも良い。ただ安岡正篤氏が「うんしゃ」と呼ばれているので、それに倣う。意味は「心広く包容力があってやさしいこと」(広辞苑)とある。

素行は言う。「立派な男子は、度量が広くて気節が大きくなければならないが、その奥には、おのずから温かくて潤いのある所が無くてはならない。」

「温籍というのは、心の奥に含蓄があり、包み入れられているという意味である。何が包まれているのか。それは、内に徳を含み光を包んでおり、外に尖った角が表われない事を言う。」

「智恵が少なく、才能が無い者は、心の器が狭いので、自分の知識を誇って、世の中にひけらかす。一方、度量が広く心映えが良い人は、精神性に於ても他の何者からも傑出しているので、一向に自分が行った功績や名誉を誇る事は無いし、かっとなって人と言い争う事も無い。温和な心が自ずと顔に表れて「仁人君子」の姿となって来る。物事に交わったり、人と一緒に居る時は、陽春のうららかな日ざしが周りの人や物を育むように、周りを明るく和やかにするものである。それこそが立派な人物が備えた『温籍』というものである。」

 現代では、「オーラがある」などと称する人もいるが、その人物が居るだけで回りが明るくなる事があるし、その反対に回りが暗くなる人も居る。大学サークルで上手く行っている所は、その場が明るい雰囲気に満たされているからである。人は「徳」の有る人物に惹きつけられる。心のうちに「徳を含み光を包ん」でいるか否かが、人物の魅力を生み出すのである。佐藤一斎が『言志後録』の中で述べ、広田弘毅など多くの人物の座右の言葉となった「春風接人・秋霜自粛」に通じる言葉である。

武士は戦士であるが故に、強さや激しさが求められる。だが、有事の「強さ」は平時の「穏やかさ」の内に養われる。その穏やかさは、自らの内に対する厳しい修養と本物を身に付けた自信から生れる。「温籍」を是非備えたいものである。



聖人君子の好み悪む処も亦凡人に異なるべからずして、其(義と利)の間、惑を弁ずるにあるのみ也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)

 ここで素行は、「義と利の間の弁え」について述べる。

「立派な武士が、心を磨いていく上で工夫を要する点は、人としての正しい道を指し示す『義』の道と、物や金、地位などの利益を齎す『利』の道とを如何に弁えるか、という事である。君子と小人(徳のない人物)の違いや、王道と覇道(権力者)の違いも全てがここから生じる。昔から学問を修める者は、義と利の弁えを詳細に研究して実践したので、正しい道に入る事が出来たのである。『利』は人が甚だ好むものであり、物質的な欲望や安逸さに流れんとする弱い心によって、利益に引きずられて溺れてしまうものである。それ故、生死についても死を厭い生を求めるし、苦労を嫌って安逸に流れ、衣食住や視聴言動に於ても『利』に流れやすいものである。七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)の発する所、これらの情がつきまとってくるのだ。

聖人君子の教えは、生を嫌って死を選び、みずからは損をして利を捨てよ、苦労をとって安逸を捨てよ、などというものではない。聖人や君子が好み、憎むところも、一般の人と異なる事はない。ただ、義と利の間にある『惑い』をしっかりと弁え、迷わないという点にある。どのような事を『惑い』と言うのか。それは、ただ自分の身だけを利して、他をかえりみない。それを『惑い』と言うのである。聖人・君子は事の軽重を区別して良く判断するのである。」

 儒学は、孟子の「王何ぞ必らずしも利を曰はん。また仁義あるのみ。」の言葉から、仁義を重んじ利を否定している様に誤解されているが、決して利を否定している訳ではない。義を積み重ねる事によって利は自ずと生まれて来るとの立場なのである。利に執着して我利我利亡者となる事を否定しているに過ぎない。素行も同様である。重要なのは、義と利との調和であり、利によって惑わされ義を踏みにじる醜い選択があってはならない事を言っているのだ。義に基づく利は、自分だけでなく他の人々や社会をも豊かにして行く。一時期、『清富の思想』というのが流行ったが、清らかに豊かに生きて行く事が出来るなら、それが最も良い。



清廉正直も剛操を以てせざれば立たず (『山鹿語類巻第二十一「士道」』) 

 更に素行は、「命に安んず」「清廉」「正直」について述べている。「命に安んず」とは、自らに与えられた地位や境遇は天が下したものであり、貧富や貴賤の差に囚われることなく、好悪の情に惑わされる事無く、今の境遇を天命と定めて、心安らかに生きよ、と語る。

「清廉」とは、賄賂や財貨などに心を惹かれずに、普通の人では踏み行う事が難しい高潔な境地に生きる事を言う。内に清廉の徳を養っていなければ、ちょっとした利害に心を奪われて堕落してしまう。「正直」の「正」とは、正義がある所は固く守って心が変わる事のない事を言い、「直」とは、親疎・貴賤や相手の社会的な立場によって自分の態度を変えず、間違っている事があれば改め、糾すべきことがあれば糾し、人に諂わず、世の中に流されない事をいう。

 「清」「廉」「正」「直」、実に良い言葉である。その徳を是非備えたいと思う。その為には、「剛操」が必要だ、と素行は言う。「清廉正直も剛操によらなければ実現しない。」と。「剛」とは剛毅にして物事に屈しない事を言い、「操」とは、自らが義しいとする志を守って、いささかも変じる事がないのを言う。

「剛操」とは「剛毅・節操」のことである。剛毅なる本質に裏打ちされた、節操を貫く生き方を言う。その徳が備われば、安んじて死に赴く事が出来るし、困難に平然と立ち向かい、財宝や酒食の誘惑にも迷うことなく自然と拒否する事が出来るのである。

 「温籍」を説いた素行はここで「剛操」の大切さを強調している。表面の温かさは、その奥にある微動もしない芯の強さに裏打ちされねば実現しない。

 グアムで、起こった日本人観光客殺傷事件は、日本人の男に武士の魂が完全に失われた事を示す象徴的な悲劇だった。愛する妻が刺されんとする時に、近くにいた夫や男達は、何故暴漢に立ち向かって戦わなかったのか。暴漢は小柄であり、刃物しか所持していない。近くにある棒でも、石でも持って戦えるではないか。男が戦う意思を放棄した時、被害を受けるのはか弱い女性達である。日本人の魂が健全な時代までは、男達が戦い傷つき死んでいき、女性たちは守られていた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 武士道の言葉 その9 「山... | トップ | 武士道の言葉 その11 「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

【連載】武士道の言葉」カテゴリの最新記事