「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「武士道の言葉」その43 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1

2016-05-11 11:33:46 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第四十三回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1(『祖国と青年』28年2月号掲載)

一切の戦歿者の供養を以て世界平和の礎に

今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたい (『世紀の遺書』東条英機「遺言」より)

 大東亜戦争に敗北した日本軍に対し、連合国は「復讐心」を満足させる為に、東亜五十一か所にて「戦犯裁判」なるものを行い、五六七七名の日本人を逮捕して裁判にかけ、一〇六八名の日本人を殺害した。裁判官に加え弁護人迄もが戦勝国側であったこれらの裁判では、元より公平さなど望めなかった。

 裁判で有名なのは所謂「A級戦犯」(国家指導者)を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)である。日本近代史を「侵略」の名の下に処断した東京裁判は、起訴が昭和天皇誕生日、判決が明治天皇誕生日(実際は少しずれた)、処刑が皇太子殿下(現在の今上天皇)誕生日に合せて行われた。正に、日本弾劾の為の一大プロパガンダだった。大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機は天皇陛下に責任を及ぼさない為に、公判上で起訴状に対する反論を堂々と陳述した。大東亜戦争は米英によって陥れられた戦争であり、わが国の東亜政策は決して間違っておらず、世界制覇の野望など微塵も無かった事を事実にそって綿密に反証した。だが、それは無視された。

 死刑判決を受けた東條は遺言で「今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て贖えるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負つて満足して刑場に行く。」と記し、国際的には無罪だが、日本国民に対する「敗戦責任」を負って死ぬ事を述べている。

 更に東条は、「今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。」と記している。自分たちの犠牲によって敵味方の憎悪の炎が収まり和解して、真の世界平和が訪れる事を願ったのである。






良心に曇りなし。

私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。 (『世紀の遺書』本間雅晴「辞世」)

 昭和二十一年四月三日、フィリッピン・マニラ市のロス・バニヨス刑場で、本間雅晴元陸軍中将は銃殺刑に処せられた。五十九歳だった。

本間中将は、開戦当時第十四軍司令官としてフィリッピンを制圧してマッカーサー元帥を敗退させた。フィリッピンに膨大な土地を保有していたマッカーサーは「I Shall Return(私は、必ず戻って来る)」と嘯いてフィリッピンを後にした。戦勝後、その恨みの矛先が本間中将に向けられた。「バターン死の行進」なるものをでっち上げたのである。

確に、長期籠城戦後に衰弱していた捕虜を収容所に移動させる為にバターン半島を移動させ、その途中で数多くの捕虜が亡くなったが、それらの捕虜の死因の殆どは赤痢やマラリアだった。それを「死の行進」を企図していたとして裁いたのである。

 本間は子供三人に宛てた手紙で次の様に述べている。「死刑の宣告は私に罪があると云うことを意味するものに非ずして、米国が痛快な復讐をしたと云う満足を意味するものである。私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。戦友達の為に死ぬ、之より大なる愛はないと信じて安んじて死ぬ。」と。

「日本国民は全員私を信じてくれると思ふ」の言葉が重い。自虐史観から脱却出来ない戦後教育は、本間の確信を裏切る青年を未だに輩出している。

 マニラ法廷で感動的な事が起った。本間の妻・富士子がマニラ迄来て証言台に立ったのである。

角田房子『いっさいは夢にござ候』はその時の言葉を次の様に描いた。弁護人からの「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か」との尋問に対し、富士子は「わたしは東京からマニラへ、夫のためにまいりました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、わたしくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。わたくしに娘が一人ございます。いつかは娘が、わたくしの夫のような男性とめぐりあい、結婚することを心から望んでおります。本間雅晴とはそのような人でございます。」と。

本間は日記に、この日の感動を記した。

「この言葉は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。(略)日本婦人と云うものを知らぬ米人並比人に日本婦道をはつきり知らしめた英雄的言動であつた。私は是だけでも非常に嬉しく思ふ。日本婦人史に特筆すべき事蹟と思ふ。」







日中の和解の為に身を捧げる

我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです (『世紀の遺書』向井敏明「辞世」より)

 東京裁判では、昭和十二年の南京攻略時の上海派遣軍司令官であった松井石根大将を「南京大虐殺」の罪状で処刑したが、現地に於ても「生贄」が求められ、第六師団長だった谷寿夫中将を責任者として銃殺し、更には「三百人斬」で田中軍吉陸軍大尉、「百人斬」競争を行ったとして、向井敏明少尉、野田毅少尉が処刑された。「南京大虐殺」自体が虚構に過ぎないのだが、第六師団に限っても、攻撃部隊であり、南京には一週間しか滞在せず直ぐに撫湖に転進している。虐殺している余裕等ない。更には、三百人斬や百人斬りなど日本刀では絶対にありえない。それでも、強引にこじつけて罪人=生贄を生み出し、銃殺したのである。

 向井は遺書の中で「努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る人は無い様です。恐ろしい国です。」と記している。

向井は堂々たる辞世を残している。

「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本の敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明 」

戦犯裁判で裁かれた者達は、今行われている事が、「裁判」の名を借りた復讐劇・私刑(リンチ)である事を重々承知していた。彼らは軍人=武人だった。出征の時から死を覚悟し、国の為に働き、生きては帰らぬと心に定めていた。

それ故、「戦犯」としての死も、「敗戦という大変事による冷酷な運命」(三浦光義海軍上等兵曹)「職務上の玉砕」(野澤藤一陸軍曹長)「唯笑って国に殉じます。すべては敗戦の生んだ悲劇」(中野忠二海軍兵曹)と諦観した。只唯一の心残りは自らの名誉と死の意味だった。

軍属の浅井健一は「私は日本の建設の礎となって喜んで行きます。戦犯者となるも決して破廉恥とか私事で刑を受けたのではないことを記憶して下さい」と記しているが、多くの遺書にも同様の言葉を見出す。







成仏はせぬ。供養は一切不要。

断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候  (『戦犯裁判の実相』篠原多磨夫訣別の辞「舌代」)

 各国での裁判が終結した後、巣鴨には各地で服役中の「戦犯」達が送られて来た。更に、朝鮮戦争の勃発により、巣鴨の米軍看守は出征し、日本人看守に代り、管理体制が緩和される。講和条約調印後の昭和二十七年三月一日、戦犯在所者が連絡団結し、戦犯釈放運動促進の為の『巣鴨法務委員会』が服役者の自治会という形で発足。一年二か月と十二日かけて、服役者全員から各地での裁判の様子を聞き取り、その実相を大冊『戦犯裁判の実相』として纏め上げ出版した。後に、昭和五十六年と平成八年に復刻されている。

 復刻版のただ一枚のグラビアには、受刑者たちの無念を象徴するかの如く、豪軍法廷マヌス軍事法廷で絞首刑にされた元海軍大佐(徳島県出身)の篠原多磨夫の訣別の辞「舌代」の写真が掲載されている。篠原は叫ぶ。「拙者儀未熟者ニテ死亡後怨霊トナリ大日本国ニ留ル所存ナルヲ以テ断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候」と。篠原の怒りは受刑者全員の怒りでもあった。『戦犯裁判の実相』に掲載されている、裁判の記録並びに各地の収容所での日本兵虐待の記録は、凄まじいものである。

「収容所全員も約三ヵ月の間、毎日灼熱の石の上に坐らされ特に夜間八時頃より十二時迄は殴打激しく毎夜一、二名必ず人事不省になる事あり。」(クーパン・寺尾勇太郎証言)

「マカッサルに連行された時には定った様に二、三時間天皇拝み(不動の姿勢にて太陽を直視すること)をやらされる。勿論南方の太陽を五分も直視出来るものではない。目を脱して居ると時々彼らは廻って来て殴るのである。」(マカッサル・妹尾繁市証言)
「訓練と称して素足のまま硝子の破片、ブリキの破片を捨てた穴の中を行進せしめ、足を切るのを眺めては快哉を叫んでいた。灼けつく炎天下のコンクリートの上を、素足で駈足させ、昨日は十名、今日は十五名と卒倒する者の数を読んだ。」(英領地区証言)

独房に毎晩毎晩酔った兵隊が殴り込みをかけて弄び、片目を失い耳も聞こえなくなり松葉杖をついて断頭台に上る者も居た。当然、自殺した者、暴行死させられた者が多数に及んでいる。この様な生き地獄を体験させられた者達の怨みは消える事は無い。その恨みを胸奥に潜めて戦犯達は死出の旅路に着いたのである。その事も決して忘れてはならない。
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