「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝④武藤 章「開戦を避ける為に日米交渉に力を注ぐも、「A級戦犯」として処刑される」

2020-10-27 16:58:31 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
済々黌先輩英霊列伝④ 開戦時の陸軍軍務局長
武藤 章(むとう あきら)M39卒
「開戦を避ける為に日米交渉に力を注ぐも、「A級戦犯」として処刑される」


 武藤章は明治25年に上益城郡白水村(現在は菊陽町)に生まれた。済々黌の二年時に熊本地方幼年学校に進み、陸軍士官学校、陸軍大学と進んだ。陸軍大学(三十二期)は首席で卒業している。教育総監部付となり、ドイツなどに留学して第一次世界大戦等を研究した。帰国後、教育総監部に復帰、昭和5年からは参謀本部に勤務し、昭和10年に軍務局、翌年には関東軍参謀、12年には参謀本部作戦課長となり、杭州湾上陸作戦に参加。北支那方面軍参謀副長を経て14年に陸軍軍政の中枢である軍務局長に就任した。

 武藤は少年時代から書物を耽読するタイプで、様々な書物を渉猟し教養を得ていた。軍人としては比較的自由な思想を持ち、文官の官僚とも話が通じたという。その上で、意見を異にする者に対しては上下の別無くとことんまで議論して相手を説伏せしめたと言う。

 武藤は二年七か月の間、畑俊六、東條英機両陸軍大臣に仕え、支那事変の解決と対米強硬策などで辣腕を振るった。その一方、日米戦争の回避の為の日米交渉に力を注ぎ、20年4月に提案された「日米諒解案」の実現を望んだ。だが、交渉が進むに従って悪化し、米国は条件を益々高めて行き、ハルノートによる最後通牒が突き付けられ、遂に日本は開戦を余儀なくされた。この時の事を武藤は「私は当時考えた。もし四月以来の日米交渉がなかったなら、事態が同一に悪化しても開戦の決意はなかなかむずかしい事であったろう。然るに最初の日米諒解案が非常に甘いものであり、それが逐次辛いものとなって来る。日本は辛棒しながら譲歩して来て最後に打切りとなる。そこで皆一様に憤慨する。反対のしようがないのだ。私は日米交渉の経緯を考えて米国に一杯喰わされた感じがしてならない。」と記している。

 17年5月には近衛師団長としてスマトラ島北部に赴任。戦争の行方に不安感を抱いていた武藤は、勝利気分で緩んだ軍規を立て直す可く、教育計画を示し猛訓練を開始する。案の定、ガダルカナル島の敗北以来戦況は悪化して行く。武藤は北部スマトラを防衛すべく、補充された兵員の訓練による精度保持と陣地構築に力を注ぎ、自活自戦の態勢の確立に全力を傾注する。昭和19年夏から秋にかけてサイパン、パラオが占領された時武藤は「戦争は負けた。然し我々のスマトラは負けぬ。」と副官に語ったという。更に比島方面軍司令官に山下奉文大将が任命された事を聞き、「この処置は半年遅れた。今頃山下大将が行っても駄目だ。」と述べた。ところがそれから間もなく、武藤に山下大将の元での参謀長の命が下った。

 昭和19年10月第14方面軍参謀長となった武藤は、比島防衛作戦の任に全力で当たった。レイテ湾に上陸した米軍は北上し、マニラの有るルソン島を目指した。それに呼応する比人ゲリラが日本兵を悩まし続けた。既に米軍に制空権・制海権を握られ、本土からの補給も期待できない中にあって、如何に、長期に亘って米軍の侵攻を食い止めるべく戦いを持続出来るか、が作戦の骨子となった。武藤は、「玉砕」は米軍を利するものであるとの考えを持ち、徹底した長期持久戦を構想した。その為に、軍司令部はルソン島北部の密林地帯を移動し、多くの島々からなる比島での組織的戦闘を終戦まで維持し続けた。しかし、赴任前の嘆きの如く、食料や武器弾薬の蓄積・移動準備は不十分であり、将兵は飢えや武器の欠乏に苦しみ続けた。それでも、比島が落ちれば米軍は本土に全力で襲来する。それを食い止める為に必死の戦いが継続された。山下大将と武藤参謀長の不屈の戦闘意思は8月下旬まで継続された。しかし、終戦の大命が下った。山下と武藤は日本再建の為に一兵でも生きて帰国させる事に全力を注いだ。

 9月3日、マニラでの降伏調印の後、武藤はマニラの捕虜収容所に拘束される。翌年、東京への移送を通告され、4月9日にA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監され東京裁判にかけられた。約二年の公判の後、「共同謀議」「人道に対する罪」等により、絞首刑を宣告され、23年12月23日に処刑された。享年56歳だった。尚、東京裁判では、済々黌の後輩(T14卒)の佐伯千仭が弁護人の一員となっており、武藤の熊本への思い等を聞いている。遺墨は「春風接人、秋霜自粛」である。武藤は巣鴨収監中に長文の回想録や日記を記し、『比島から巣鴨へ』と題して占領解除後に出版されている。その中から幾つかを紹介する。
     
【「経歴の素描」より】
「私は勤勉なる参謀であった事を自認する。軍人としての平時勤務に於て、何人にも劣らぬ精励なる将校であったと自惚れている。私は上官に対し遠慮なく意見を具申したが、実行するところ未だ嘗て上官の命令意図外に脱逸したことはないと確信している。私の参謀勤務初期約十年間は、教育総監部であったが、この勤務は私に地味と根気とを教えた。私の参謀本部、陸軍省両中央機関の勤務はそれぞれの内容を教えた。私の過去に於て曰く何々事件、曰く何々事件と云うものに、全く関係なかった。
 私は参謀本部第二部に於て、欧米関係の業務を約三年間担任した。貧弱とは云え私の智識は、決して日本の精神力を過高評価して、欧米を軽視するが如き偏狭な見解に堕せしめなかった。私は人々から軟弱と云わるるとも、或は頑固と云わるるとも、私の見解は現実に立つ独自のものであった。
 私は告白するが、私は自信を以て常に直言する。従って私を真に理解し又永い交際の者はよいが、初めての人々は私の言葉つきや風貌から私を誤解するものの多い事を知っている。この私が軍務局長に二年七か月もいたのであるから、相当敵も出来たろうことは否定出来ない。然し私は度々人に騙されたことはあるが、他人をだましたことは絶対にない。私は敵に対する作戦謀略工作でさえ好まなかった。この事は私の部下の何人に質すもすぐ判ることである。私は常に堂々と正面からぶつかる主義である。
 私は軍人として自己の本分、職務を最善に尽して今日に至った。」

【「巣鴨日記―判決の後」より】
「私の良心は無罪と判定しているが、裁判官はなんと判定するかもしれぬので、それとなく(面会に来た娘達に)今後の覚悟を促しておく。
 今度の裁判は、ポツダム宣言という政治命令に従って行われたもので、法律によったものではない。裁判官たちが各国の代表であるかぎり、国家の政治命令に従うのはやむをえない。弁護士が法律を楯にとっても、政治生命の前には無力である。
 私は判決に興味をもつ。彼がいかに法をごまかして、政治に従うかは見ものである。」
「私の不思議に思うのは、日本の某々新聞が、東京裁判を連合国対被告と思いこんでいることである。被告に対して如何に憎悪を感じても、彼等は日本を代表している。彼等が侵略者であれば、日本も侵略国である。侵略国に対する制裁は、被告に対する処罰で終るのではない。それは平和条約にもりこまれるのだ。しかるに、日本の新聞にして「日本を侵略国と裁定しろ」と煽りたてている。或は日本国民の感情が責任者を憎悪していると云う意思表示をすれば、平和条約が日本に有利になるだろうと思っているのかも知れぬ。欧米人の心理を知らぬ東洋的な考え方だ。欧米人は「日本人でさえ侵略国と思っているなら日本は確かに侵略国だ。それならうんと制裁しろ」と云うロジックだ。日本がどうなってもかまわぬから、被告等を全部絞殺しろと云うのなら、それまでだ。私は愛国心と対被告悪感情を調整する理性があってほしいと思う。」
「各新聞とも東京裁判についての社説を掲げている。異口同音に判事の論断を無条件に是認している。長年月にわたり軍部が大東亜戦を計画し、じりじりと国民を金縛りにして、敗戦の運命に狩りたてたというのである。軍部にそれほどの傑物がいて、一定の方針の下に指導したのが真実ならば、あれほどの馬鹿な戦争をやりもしなかっただろうし、こんな敗戦も招かなかったであろう。近代日本の悲劇は政治、統帥の貧困の結果だ。
 政治の善悪は、国民の光の反照だ。ただ被告のみを責めていては何時までたってもよくならないし、現状に委したら今後益々悪くなるだろう。被告は喜んで責任をとるべし。国民は反省すべし。」

【「被死刑宣告者の手記」より】 
「東条(東條英機)さんが三部経を持っているので、話は宗教に移る。私も東条さんも浄土真宗である。私は云う。「私は子供の時から両親に伴われて寺詣りをし説教もききに行きました。その後、尉官時代に生死の問題に悩み、禅や日蓮や基督を研究してみましたが、どれもこれも、信仰と云うまでに至っていないのです。現在の心境では何か唱えるとすれば、やはり『なむあみだぶつ』です。それよりも私として格別死を怖れしめないのは、母の膝下に行けると云う気持です。私は末子で、特に母の慈愛を占有していました。私はスマトラの師団長時代から急に母の恋しさが湧いてきまして、その後苦戦の場合もいつも母を思うことに習慣づけられました。巣鴨に来てからも、何かにつけ母を思うのです。私は宗教的に霊魂問題をどうのこうの云うのではありません。私は私の死の瞬間に母の懐に入る気がします。私は小学校に通うころまで、母の乳房を吸っていました。」こんな話をした。五十七歳の男が子供のようなことを話すのを、東条さんは真剣な顔をして、フンフン云ってきいてくれた。」

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