山鹿素行その一(『祖国と青年』平成25年2月号掲載)
先師曾て北條安房守の宅へ召し出され、赤穂謫居の命を承けられたる時の事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るべし。 (吉田松陰『武教全書講録』)
幕末の志士吉田松陰は、北方の脅威の実体を探る為に、肥後藩の宮部鼎蔵と共に東北視察の旅に出かけた。二人はそれぞれの藩で、山鹿流の軍学を教える教師の立場にあった。年齢は宮部が十歳上だが、日本の将来を憂える同志として、生涯互いを尊敬しあった。この二人が学問上の「師」と仰いだのが山鹿素行である。
江戸時代初期に生きた山鹿素行(1622~1685)は、大変な学者で人間コンピューターの様な人である。二十歳位までに当時出ていた殆どの書物を読破し、兵法・儒学・神道・仏教・古典など全ての学問をマスターしたというのだからすさまじい。その上で、武士とは如何にあらねばならないかを体系化した。
その様な大天才。将軍家を始め全国の大名から「是非政治顧問に」と引っ張りだこになった。だが、素行は幕府が奨励していた朱子学に異論を唱える。その結果、赤穂藩に追放となった。『聖教要録』事件である。素行は処分される事を覚悟でこの著作の出版に踏み切った。
それ故幕府から呼び出しがあった時、素行は覚悟を定めて身を浄め、身支度を整えた際、立ったままで遺書を認めた。その上で北條安房守の家に向かった。そこで処分が言い渡された際も素行は「自分は武士たる者の心がけとして、家を出る時にはあとの心残りがない様、常日頃から覚悟している。」と平然と述べた。そして、そのまま赤穂藩邸に預けられたのである。
吉田松陰は、松下村塾での初講義として山鹿素行『武教全書』を取り上げ、その中で、山鹿素行先生を師と仰ぐ理由を熱く語った。その第一の理由が、この赤穂藩に流され謹慎処分を受けた際の素行先生の身の処し方であり、武士としての日常の覚悟の姿であった。
先師、満世の俗儒外国を貴み我が邦を賤しむる中に生れ、独り卓然として異説を排し、上古神聖の道を窮め、中朝事実を撰ばれたる深意を考へて知るべし。 (吉田松陰『武教全書講録』)
山鹿素行が赤穂に流されたのは、四十五歳の時だった。それから十年もの間、素行は赤穂の地で過ごす。赤穂藩主浅野長直は以前から素行に師事していたので、赤穂藩は賓客を扱う様に素行の世話を尽した。その際のお世話役が、後に忠臣蔵で有名になる大石内蔵助良雄の従祖父であった。
ものは考えようだが、大学者の素行が江戸に居続けたなら門弟が毎日押し寄せて、自らの学問的探求や思索はままならなかったのではないだろうか。田舎に流されたおかげで静謐な環境を得て素行は独自の思索を深め、執筆も捗り、多くの名著を著す事が可能となったのである。その代表的なものが『中朝事実』である。
この本は後に、乃木大将が殉死する直前に遺書代わりに、当時学習院生だった裕仁親王殿下(昭和天皇)に贈った事で有名である。何が書かれているのだろうか。
江戸時代の学問は儒学が中心だった。儒学はシナの孔子や孟子を聖人賢人と仰いでいる。それ故、ともすれば、江戸時代の学者の中には「シナこそが聖人君子の国である。それに比べて日本は文化の度合いが低い。シナ人に生れれば良かった。」などと考える者まで居た。それに対し素行は「シナを中華・世界の中心の国だと言うが、実際の歴史はどうなんだ。シナでは暴君が跡を絶たないし、革命の連続で後世一度たりとて理想の聖人君子の国など実現していない。孔子や孟子は理想を掲げたが結局は挫折し失意の生涯だった。」
「それに比べて日本の歴史はどうだ。日本書記を繙けば、万世一系の天皇様を中心に仁慈深い政治が連綿と続いているではないか。聖人・賢人が綺羅星の如く輩出されている。聖賢の国・理想の国はシナではなく日本なのだ。仁徳が高くて世界から仰がれる国、即ち『中朝』は、わが日本である。それは、歴史の『事実』が示している。」と考え、実際日本書記に記された記述を元に著したのがこの『中朝事実』だった。
吉田松陰は言う「素行先生は、世の中の学者達が外国を貴んでわが日本を貶める風潮の中で、ただ一人その様な説を排して、古代から連綿として受け継がれた神聖の道を極められて、中朝事実を撰述されたのである。その深いお考えを知るべきである。」と。
凡そ士の職といふは、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交りて信を厚くし、身の独を慎んで義を専とするにあり。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
ここから、山鹿素行が著した武士道の中味に入って行こう。まとまった形で著されているのが、『山鹿語類』巻第二十一の「士道」と、巻第二十二~巻第三十二迄の「士談」である。
「士談」は「士道」の内容を、古今内外の具体的な史実を紹介して理解が深まる様に語られている。
「士道」は次の項目から成っている。
一、本を立つ
①己れの職分を知る ②道に志す
③其の志す所を勤め行うに在り
二、心術を明かにす
①気を養い心を存す
気を養うを論ず 度量 志気
温藉 風度 義理を弁ず
命に安んず 清廉 正直
剛操
②徳を練り才を全くす
忠孝を励む 仁義に拠る 事物を詳らかにす 博く文を学ぶ
③自省 自戒
三、威儀を詳らかにす
①敬せずということなかれ
②視聴を慎む ③言語を慎む
④容貌の動を慎む ⑤飲食の用を節す
⑥衣服の制を明かにす ⑦居宅の制を厳にす ⑧器物の用を詳らかにす
⑨総じて体用の威儀を論ず
四、日用を慎む
①総じて日用の事を論ず ②一日の用を正す ③財宝授与の節を弁ず
④遊会の節を慎む
素行は冒頭で、士に生れたのだから「士の職分」とは何かを考えろ、と厳しく求める。
農民や工人、商人はそれぞれが、物を生産したり作ったり流通させたりして人々の役に立つ仕事をして生きている。しかし、武士は生産活動に従事しなくても暮らしていける。何故なのか。それは、武士には社会的に重要な役割があるからだ。
その事をしっかりと考えなくてはならない。それが、ここで紹介している「自分自身を常に顧みて、仕えるべき主人を得て奉公の誠を尽し、同輩や友人には信義を篤くして交わり、己を慎んで常に正義を貫く事を第一義として生きること」である。即ち社会のリーダーとしての道徳的な高みを常に示す事こそが武士の仕事(職分)だというのである。
行ふと云へども、一生是れをつとめて死而後已にあらざれば、中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
武士としての社会的な責任を強く自覚し、わが国の将来を憂えて、天下国家の為己に厳しく生きたのが吉田松陰だった。松陰は幼い頃から山鹿素行の述べる武士としての使命感を叩き込まれて成長したのである。
素行は次の様に述べる。自分の職分を自覚したなら、職分をつとめる為の「道」に志すべきである。その為に良き師を求めなくてはならない。もし良き師がみつからないなら、自分の心に問いかけ、聖人賢人が残された書物をひもといて道の在り処を見つければ良い。だが、職分を知って、その道に志しても、勤めてその志す事を行わないならば、言葉だけの志になってしまう。と。
その次にここで紹介した言葉を述べる。
「よく行っても、生涯その志を貫いて死して後已む(死ぬ迄やり続ける)の覚悟でなければ、途中で放棄してしまい、志は成し遂げる事が出来ない。それ故、勤め行い続ける不断の努力こそが、武士のまことの勇気なのである。」
吉田松陰が自らの信條としていたのもこの「死而後已」の四字だった。志を抱いても、それを生涯貫かなければ意味は無い。「百里を行く者は九十を半ばとす」(『戦国策』)との言葉もある様に、九割方やり抜いても、後の一割で気を抜けば失敗に終わる、最後の一割にこそ力を込めてやり抜く胆力が求められるのである。
修養に求められるのは、継続する「意志力」である。新渡戸稲造は朝の水行と英文日記を終生続けたという。私は、毎日寝る前に修養書の素読と秀歌の拝誦を自らに課している。広島の井坂信義君はメルマガで「明治天皇御製一日一首」を出しているが既に492号を数えている。
武士とは、精神的高みに生きる者を言う。退職金が減るので、任期終了間際に早期退職する教員の事が話題になっているが、金の為に教育者としての使命を放棄する晩節を汚す行為である。三島由紀夫氏が『英霊の聲』の中で述べた「ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打は金よりも卑しくなりゆき」との言葉が思い起こされてやまない。教育者には本来、武士の如き高い人格が求められる。だから「教師」と仰がれたのである。
先師曾て北條安房守の宅へ召し出され、赤穂謫居の命を承けられたる時の事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るべし。 (吉田松陰『武教全書講録』)
幕末の志士吉田松陰は、北方の脅威の実体を探る為に、肥後藩の宮部鼎蔵と共に東北視察の旅に出かけた。二人はそれぞれの藩で、山鹿流の軍学を教える教師の立場にあった。年齢は宮部が十歳上だが、日本の将来を憂える同志として、生涯互いを尊敬しあった。この二人が学問上の「師」と仰いだのが山鹿素行である。
江戸時代初期に生きた山鹿素行(1622~1685)は、大変な学者で人間コンピューターの様な人である。二十歳位までに当時出ていた殆どの書物を読破し、兵法・儒学・神道・仏教・古典など全ての学問をマスターしたというのだからすさまじい。その上で、武士とは如何にあらねばならないかを体系化した。
その様な大天才。将軍家を始め全国の大名から「是非政治顧問に」と引っ張りだこになった。だが、素行は幕府が奨励していた朱子学に異論を唱える。その結果、赤穂藩に追放となった。『聖教要録』事件である。素行は処分される事を覚悟でこの著作の出版に踏み切った。
それ故幕府から呼び出しがあった時、素行は覚悟を定めて身を浄め、身支度を整えた際、立ったままで遺書を認めた。その上で北條安房守の家に向かった。そこで処分が言い渡された際も素行は「自分は武士たる者の心がけとして、家を出る時にはあとの心残りがない様、常日頃から覚悟している。」と平然と述べた。そして、そのまま赤穂藩邸に預けられたのである。
吉田松陰は、松下村塾での初講義として山鹿素行『武教全書』を取り上げ、その中で、山鹿素行先生を師と仰ぐ理由を熱く語った。その第一の理由が、この赤穂藩に流され謹慎処分を受けた際の素行先生の身の処し方であり、武士としての日常の覚悟の姿であった。
先師、満世の俗儒外国を貴み我が邦を賤しむる中に生れ、独り卓然として異説を排し、上古神聖の道を窮め、中朝事実を撰ばれたる深意を考へて知るべし。 (吉田松陰『武教全書講録』)
山鹿素行が赤穂に流されたのは、四十五歳の時だった。それから十年もの間、素行は赤穂の地で過ごす。赤穂藩主浅野長直は以前から素行に師事していたので、赤穂藩は賓客を扱う様に素行の世話を尽した。その際のお世話役が、後に忠臣蔵で有名になる大石内蔵助良雄の従祖父であった。
ものは考えようだが、大学者の素行が江戸に居続けたなら門弟が毎日押し寄せて、自らの学問的探求や思索はままならなかったのではないだろうか。田舎に流されたおかげで静謐な環境を得て素行は独自の思索を深め、執筆も捗り、多くの名著を著す事が可能となったのである。その代表的なものが『中朝事実』である。
この本は後に、乃木大将が殉死する直前に遺書代わりに、当時学習院生だった裕仁親王殿下(昭和天皇)に贈った事で有名である。何が書かれているのだろうか。
江戸時代の学問は儒学が中心だった。儒学はシナの孔子や孟子を聖人賢人と仰いでいる。それ故、ともすれば、江戸時代の学者の中には「シナこそが聖人君子の国である。それに比べて日本は文化の度合いが低い。シナ人に生れれば良かった。」などと考える者まで居た。それに対し素行は「シナを中華・世界の中心の国だと言うが、実際の歴史はどうなんだ。シナでは暴君が跡を絶たないし、革命の連続で後世一度たりとて理想の聖人君子の国など実現していない。孔子や孟子は理想を掲げたが結局は挫折し失意の生涯だった。」
「それに比べて日本の歴史はどうだ。日本書記を繙けば、万世一系の天皇様を中心に仁慈深い政治が連綿と続いているではないか。聖人・賢人が綺羅星の如く輩出されている。聖賢の国・理想の国はシナではなく日本なのだ。仁徳が高くて世界から仰がれる国、即ち『中朝』は、わが日本である。それは、歴史の『事実』が示している。」と考え、実際日本書記に記された記述を元に著したのがこの『中朝事実』だった。
吉田松陰は言う「素行先生は、世の中の学者達が外国を貴んでわが日本を貶める風潮の中で、ただ一人その様な説を排して、古代から連綿として受け継がれた神聖の道を極められて、中朝事実を撰述されたのである。その深いお考えを知るべきである。」と。
凡そ士の職といふは、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交りて信を厚くし、身の独を慎んで義を専とするにあり。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
ここから、山鹿素行が著した武士道の中味に入って行こう。まとまった形で著されているのが、『山鹿語類』巻第二十一の「士道」と、巻第二十二~巻第三十二迄の「士談」である。
「士談」は「士道」の内容を、古今内外の具体的な史実を紹介して理解が深まる様に語られている。
「士道」は次の項目から成っている。
一、本を立つ
①己れの職分を知る ②道に志す
③其の志す所を勤め行うに在り
二、心術を明かにす
①気を養い心を存す
気を養うを論ず 度量 志気
温藉 風度 義理を弁ず
命に安んず 清廉 正直
剛操
②徳を練り才を全くす
忠孝を励む 仁義に拠る 事物を詳らかにす 博く文を学ぶ
③自省 自戒
三、威儀を詳らかにす
①敬せずということなかれ
②視聴を慎む ③言語を慎む
④容貌の動を慎む ⑤飲食の用を節す
⑥衣服の制を明かにす ⑦居宅の制を厳にす ⑧器物の用を詳らかにす
⑨総じて体用の威儀を論ず
四、日用を慎む
①総じて日用の事を論ず ②一日の用を正す ③財宝授与の節を弁ず
④遊会の節を慎む
素行は冒頭で、士に生れたのだから「士の職分」とは何かを考えろ、と厳しく求める。
農民や工人、商人はそれぞれが、物を生産したり作ったり流通させたりして人々の役に立つ仕事をして生きている。しかし、武士は生産活動に従事しなくても暮らしていける。何故なのか。それは、武士には社会的に重要な役割があるからだ。
その事をしっかりと考えなくてはならない。それが、ここで紹介している「自分自身を常に顧みて、仕えるべき主人を得て奉公の誠を尽し、同輩や友人には信義を篤くして交わり、己を慎んで常に正義を貫く事を第一義として生きること」である。即ち社会のリーダーとしての道徳的な高みを常に示す事こそが武士の仕事(職分)だというのである。
行ふと云へども、一生是れをつとめて死而後已にあらざれば、中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
武士としての社会的な責任を強く自覚し、わが国の将来を憂えて、天下国家の為己に厳しく生きたのが吉田松陰だった。松陰は幼い頃から山鹿素行の述べる武士としての使命感を叩き込まれて成長したのである。
素行は次の様に述べる。自分の職分を自覚したなら、職分をつとめる為の「道」に志すべきである。その為に良き師を求めなくてはならない。もし良き師がみつからないなら、自分の心に問いかけ、聖人賢人が残された書物をひもといて道の在り処を見つければ良い。だが、職分を知って、その道に志しても、勤めてその志す事を行わないならば、言葉だけの志になってしまう。と。
その次にここで紹介した言葉を述べる。
「よく行っても、生涯その志を貫いて死して後已む(死ぬ迄やり続ける)の覚悟でなければ、途中で放棄してしまい、志は成し遂げる事が出来ない。それ故、勤め行い続ける不断の努力こそが、武士のまことの勇気なのである。」
吉田松陰が自らの信條としていたのもこの「死而後已」の四字だった。志を抱いても、それを生涯貫かなければ意味は無い。「百里を行く者は九十を半ばとす」(『戦国策』)との言葉もある様に、九割方やり抜いても、後の一割で気を抜けば失敗に終わる、最後の一割にこそ力を込めてやり抜く胆力が求められるのである。
修養に求められるのは、継続する「意志力」である。新渡戸稲造は朝の水行と英文日記を終生続けたという。私は、毎日寝る前に修養書の素読と秀歌の拝誦を自らに課している。広島の井坂信義君はメルマガで「明治天皇御製一日一首」を出しているが既に492号を数えている。
武士とは、精神的高みに生きる者を言う。退職金が減るので、任期終了間際に早期退職する教員の事が話題になっているが、金の為に教育者としての使命を放棄する晩節を汚す行為である。三島由紀夫氏が『英霊の聲』の中で述べた「ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打は金よりも卑しくなりゆき」との言葉が思い起こされてやまない。教育者には本来、武士の如き高い人格が求められる。だから「教師」と仰がれたのである。
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