「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

チャンギー監獄に生贄と散った中村鎮雄大佐の無念の叫び

2008-08-10 16:31:54 | 良書紹介
チャンギー監獄に生贄と散った中村鎮雄大佐の無念
「時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず」

 私が在住する熊本県には、所謂「戦犯」と呼ばれた本県出身者四十七名の冥福を祈る鎮魂碑が建立されており、今も心ある人々の参拝が絶えない。この鎮魂碑は、「戦犯」として犠牲になられた「法務死」の方々の遺族で構成する「白菊会熊本県支部」の手により昭和三十七年に建立されたものだが、建立に当っては当時の熊本県知事寺本広作氏・熊本市長坂口主税氏の物心両面の支援と自衛隊第8師団の協力が行われている。

坂口市長は、鎮魂碑建立地として熊本市が管理する立田山(たつだやま)霊園の永代使用を許可し提供している。この時代、県も市もその中心に居た方々は法務死された人々に対して深い同情の思いを抱かれていた。

碑文には「大東亜戦争ノ終結ニアタリ戦勝国ニヨル一方的軍事裁判ノ結果 戦犯ノ汚名ヲ受ケ 祖国ノ復興ト世界ノ平和ヲ祈念シナガラ従容死ニ就カレタノハ本県出身ノミニテモ四十七士ニ及ンダ ジライ十有七年 我国ハ繁栄シアジアハ独立シタ ソレコソコレラ丈夫ガ献身ト祈念ノ上ニ築カレタモノトイワネバナラナイ ココニ英霊ノ偉烈ヲタタエ 芳名ヲ録シ 断腸ノ遺族白菊会トトモニ碑ヲ建テ以テ後世ニ伝エル次第デアル 昭和三十七年七月 熊本県英霊顕彰会」と刻まれている。

簡潔ながらも見事に、処刑された方々の無念の思いと志の達成、遺族の悲しみが表現されている。鎮魂碑建立の中心になられたのは、故中村鎮(しげ)雄(お)陸軍大佐の未亡人俊子様だった。そして今は三男の中村達雄(たつお)氏(熊本県郷友会会長)が鎮魂碑を守られている。

だが、昭和五十四年に俊子様が逝去された時に、熊本市は「責任者不明・祭祀不明の場合は鎮魂碑用地の更地(さらち)返還を求める」との無情なる通告を行ったという。歴史に対し無知なる行政担当者には怒りが湧いてくる。中村達雄氏も高齢になられ、県外在住のご子息が退職後熊本に戻って碑を守っていく意思を示されているが、個人的に守っていくだけでは不安もある為、鎮魂碑存続に対する憂念を表明されている。

 戦後の厳しい状況の中で、市長や知事迄も動かしてこの碑の建立に当られた俊子奥様の思い、その志を受け継がれているご子息達雄氏の姿を拝するにつけても、処刑された中村鎮雄氏はどんなに素晴らしい方だったのだろうかとの思いを抱き続けて来た。その疑問に答える素晴らしい編書『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギー日記』(熊日出版)を中村達雄氏が本年二月に出版された。

それは、父君の中村鎮雄氏が巣鴨プリズンやチャンギー監獄で記された日記や書簡を集め、手に入るだけの裁判資料をも収集して出版されたものであり、故人の俤(おもかげ)と心の内が偲ばれる素晴らしい内容である。更には、英国による戦犯裁判の欺瞞性を暴く一級資料となっている。特に私が感動したのは、中村鎮雄大佐の国体に対する揺るぎなき信と、生命を翻弄されながらも終生信仰を深め続けて行かれた求道の姿勢である。そして、日記や手紙の端々(はしばし)に溢れる家族に対する深い愛情だった。

 書名となった「立ち上がる国祈る」は中村鎮雄氏の辞世の中の言葉である。辞世として中村氏は漢詩一首と次の短歌一首を遺された。

敗戦のにゑと散りゆく我はまたただ立ち上がる国祈るのみ

「にゑ」とは「生贄(いけにえ)」の「贄」である。敗戦後の祖国の行く末を気に掛けられつつ死に赴かれた中村氏の無念の思いと祖国復興への祈りが込められた歌である。

   何故中村鎮雄大佐は処刑されたのか

 明治十八年九月生れの中村鎮雄大佐は済々黌(せいせいこう)中学を卒業後陸軍士官学校(第十九期)に進まれた。剣道・銃剣術に優れていた為、陸軍戸山(とやま)学校(がっこう)の教官も務められている。中佐の時に満州事変に出征し負傷。昭和十年五十一歳で大佐に任官し待命(たいめい)予備役(よびえき)に編入。十二年に特別志願で軍務に復帰され、昭和十八年六月二十日から十九年七月二十四日迄、タイの俘虜(ふりょ)収容所長を務められた。そのわずか一年余の俘虜収容所長の立場によってB級戦犯として処刑されたのである。

大東亜戦争当時、インド洋の制海権を失った日本軍はタイとビルマ(ミャンマー)とを繋ぐ「泰(たい)緬(めん)鉄道」を敷設してビルマ戦線への補給を確保しようとした。昭和十七年七月から十八年十月にかけて行われたこの敷設工事には、日本軍一万二千人、連合軍捕虜六万二千人、アジア人労働者数十万人が使役されたが、地形の複雑な四百十五キロに及ぶジャングル地帯での突貫工事の為、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアの流行で連合軍捕虜一万二六一九人、アジア人労働者数万人が死亡した。

 中村大佐がタイ俘虜収容所長を務められたのは、この工事の最後の四ヶ月に過ぎず、既に使役捕虜は山奥の沿線沿いの各分所に散在し、鉄道聯隊の指揮下に配属されており掌握さえ難しい状態だったのだ。だが前所長の佐々誠少将と共に、次の所長迄が生贄とされたのである。中村大佐はタイ俘虜収容所に赴任するに当って、当時九州帝国大学法学部に在学していた次男の尚(ひさ)雄(お)さんから国際法に関する知識を得て赴かれ、自らの責任の範囲でやれるだけの事は精一杯尽くされたのだった。

それ故、昭和二十一年一月九日に戦犯容疑の呼び出しが自宅に届いた際に亡命を勧める人も居たが、「正しき裁判なりせば、余は直ちに釈放か一年ばかりも入獄すれば晴天白日の身となるに引替え、亡命は終生日陰の身たり。故に亡命を思い止ま」(著書よりの引用・以下同様)られたのだった。

 この事を予期されていたのか、中村大佐はこの年の一月一日より、B5版のノートに日記を記し始められた。一月二十一日に熊本を出発、二十六日に巣(す)鴨(がも)に収監(しゅうかん)、巣鴨・シンガポールへの移動中は万年筆で、チャンギー監獄の中では鉛筆で記されている。処刑直前に中村大佐は、面会に来た同郷の後輩の矢野大佐にこのノートを託し、昭和二十二年十月に熊本の遺族の下に届けられた。日記は一月一日~四月二日まで記され、その後記されず、公判開始直前の十月十九日から再開され、処刑三日前の二十二年三月二十三日迄綴られている。

    敗戦国日本に対する憂い

 中村大佐の日記からの中から幾つかを紹介したい。巣鴨時代の日記には、当時の世相に対する中村氏の憂国の思いが綴られた箇所が出てくる。

「二月八日 本日四日の新聞を見る(朝日)。然るに、日本に於て自発的に戦犯人を逮捕し、裁判するとのことにて岡田東海軍管区司令官はじめ参謀長等多数上級将校に及ぶとか。本件はB29の不時着俘虜を殺したるによるとのことなり。戦争中、爆撃して墜落せし敵飛行士なり。之を自ら発動して裁判するものなり。嗚呼、将来日本が立上がる機会有りとするも、恐らくは粉骨砕身、身命を捧げて御奉公するものはなからん。あゝ悲哉。日本は遂に立ち上り得ざるか。あゝ。」

ノートの原文には、かく記された文章の上に赤文字で◎{をつけて、「日本ハ遂ニ立上リ得ザルカ」と大きく記され、中村大佐の衝撃が伝わって来る。占領下に於て同胞相撃つが如き行為の持つ醜さが、将来の日本人の精神に深刻な影響を及ぼす事に深い憂いを抱かれたのである。

「二月十一日 獄中紀元節。午前七時二階と下は戸前に整列、二階よりの指揮により宮城遥拝。次で二階の高橋三吉海軍大将の発声により陛下の万歳三唱、次で君が代一回合唱にて式を終る。一同の君が代、屋内をゆるがし、荘厳なりき。」

捕われの身とは雖も、一糸乱れずに皇国の弥栄(いやさか)を祈る将兵達の意気が伺われる記述である。二月十五日の日記には、「共産党ハ国賊ナリ」と赤文字で記され、二月二十日には「獄中随筆」として「我(わが)国体(こくたい)に就て」との長文を認(したた)めて自らの信念を披瀝(ひれき)されている。

 中村大佐の獄中での一日は「午前午後とも間々に詩吟、端唄、俚謡、薩摩琵琶をやる。毎朝必ずラジオ体操後、国体篇を吟ずることとせり。」(一月二十九日)と記されている様に、毎朝詩吟の国体篇を朗々と唱えられていた。それはチャンギーでも続けられ、処刑直前にも詠じられた。国体篇は旧制第七高等学校長の岩崎行(ゆき)親(ちか)氏が詠じられたもので、「邈(ばく)たり二千六百(にせんろっぴゃく)秋(しゅう)」に始まる我が国の国体に対する不動の確信を詠んだ漢詩である。この日々の行(ぎょう)に中村大佐の国体信仰の確信が存した。

   チャンギー監獄・英軍の横暴

四月三日に英軍が管理するシンガポールのチャンギー監獄に収監された。チャンギー監獄の悪名はBC級戦犯について勉強した際必ず出てくる。田中宏巳(ひろみ)『BC級戦犯』(ちくま新書)には、「シンガポールの両刑務所では一日中、殴る、打つ、蹴るという拷問(ごうもん)の音が響き、日本人のうめき声が絶えることがなかったといわれる。拷問の一手段として食糧を支給しないという手段を使ったのは、英軍が最初であった。こうした私的制裁によって多数の死者が出た」「この二国(英・蘭)は、終戦時まで捕虜収容所で収容されていた自国兵を、そのまま日本兵収容所の警備兵に採用したり、戦犯裁判の検察官等に任用した。つまり復讐による私刑が行われてもおかしくない状況を作っていた」と書かれている。

中村大佐の日記にもその幾つかが記されている。又、中村大佐は、俘虜収容所長を経験された為か、獄中の毎日の食事内容についてノートの上欄に細かに記録されている。中村達雄氏はそれを見て、公判前には配給のビスケット等を少なく与えて飢餓状態に置いて思考を麻痺させ、判決後には食糧を多く与えて肥(こ)え太らせて絞首刑執行をやり易くしていたのではないかと、その狡猾(こうかつ)性を指摘されている。

中村大佐の悲憤の思いは、日記の最後に走り書きで綴られた「チャンギー戦犯一同の希望」に伺う事が出来る。

「二、チャンギー入獄以来の英蘭兵による虐待は言語に絶す。殊に英兵に於て然り。或は漸(ようや)く生(いき)る丈(だけ)の食糧を与えたり。労働、殴打、蹴る、突く等々枚挙に遑(いとま)あらず。

四、裁判は既に刑を定め形式になすのみ。而して裁判に非ずして報復行為たるなり。此の少数の人々に対し終戦後報復行為を思い切て断行するとは非人道的行為なり。

五、死刑囚は彼等の不当なる報復に対しては到底甘んじ難き悲憤の情堪えざるも、死に対しては大悟(たいご)徹底実に堂々たる態度を以て執行さる。平常の通り談笑しつつ詩歌を吟じ万歳を高唱して行く。

八、死刑囚は皆堪(た)え難き残念さを以て日々過(すご)し居るなり。国民よ、余等の苦しみ、此(この)堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。又死刑されし人々は戦死者として取扱うことを希望して止(や)まざるなり。吾等は決して国家の犯人には非らざるなり。世が世なりせば殊勲者たりしものなり。」

   弄ばれた生命・異例の裁判長による減刑請願

 実は、中村大佐の場合、十二月三日の死刑判決の際、裁判所が減刑を請願している。その事は十二月三日の日記にも記されているが、この本の第二章に「公判の記録」として在英ジャーナリスト冨山泰氏が入手された裁判資料が英文・訳文で詳しく紹介されている。裁判長のフォーサイス英軍中佐は、藤井事件での中村所長の人道的な判断(コレラ患者の一人に対し射殺命令を出した鉄道隊藤井中隊長の行為を中村所長は、国際法違反の恐れがある為大本営に報告し、軍法会議で処分が下った。それが原因で南方軍司令部は中村所長を解任して内地勤務とした。)を無視出来なかったのである。

「十二月三日 (略)減刑請願などせずとも裁判長が適当の判決を下せば可なり。絞首刑を言渡し、減刑請願する所に大に政治的意味あることを証するに足る。(略)世界的有名なる泰緬線俘虜解決の為めにはどうしても所長、分所長に相当の責任罰を科し極刑に処し、以て世論に報い終局を明にしたものなり。」

 しかし、この裁判長による減刑請願は遂に実らず、返って中村大佐を苦しめる事となった。

「一月二十一日 余の減刑はどうも単なる法廷宣伝にて、上司は泰収容所長たるの故を以て許可せざるに非ざるや。其懸念頗(すこぶ)る濃厚なり。何(いず)れは覚悟を要するなるべきも、一旦弛(ゆる)みたる信念は中々苦痛を感ず。余は自己の死よりも家族の愛に悩むものなり。」

 中村大佐は毎朝「国体篇」を詠じ君が代を斉唱されていたが、十二月三日の死刑判決以後は、日課の中に観音経(かんのんきょう)の謹(きん)写(しゃ)や般若心経(はんにゃしんきょう)の暗誦なども組み込み、更には同囚の馬(ま)杉(すぎ)一雄(かずお)中佐から生長(せいちょう)の家(いえ)の信仰について教示を受け、「甘露(かんろ)の法(ほう)雨(う)」「天使の言葉」の写経や「神想(しんそう)観(かん)」行を通じて「天地(てんち)一切(いっさい)のものとの和解」を自らに課して死生観を陶冶(とうや)して行かれている。

三月二十二日、減刑請願が却下されたとの報が伝わり、遺書を認(したた)められた。三月二十五日の最後の夜の晩餐の様子と二十六日午前九時十分の処刑までの中村大佐の様子については、本書第三章に掲載されている三名の方からの遺族に宛てられた手紙に詳しく記されている。刑執行の朝にも斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)後国体篇・君が代及び今様(いまよう)を朗誦され、断頭台上に於いては天皇陛下の万歳を三唱し、其の後神想観を唱えつつ従容と死出の道に旅立たれたのだった。その懐中には、獄にあっても毎朝夕家族の幸せを祈り続けた家族写真を抱かれていた。

      日本国政府に英霊顕彰の責を問う

 中村大佐を支えて居たのは、国と家とに対する深い愛情だった。その祈りに応じる如く、中村大佐の日記や手紙が多数奇跡的に遺族の下に届き、遺族の方々の深い思いによって出版され、広く歴史に残される事となったのである。平成十六年にシンガポールを訪れた中村達雄氏は、日本人墓地の片隅に建つあまりにもお粗末な殉難者墓標を目にして政府の無策を嘆かれると共に、そこに眠る遺骨の一日も早い収集を厚生労働省に訴えられている。

又、中村達雄氏は、中村大佐が俘虜収容所長を経験した目で、自らが俘虜となった時の収容所の様子を観察してその非道性を告発されている事に注目され、大東亜戦争で敗北した日本軍は戦勝国によって俘虜虐待の野蛮国との烙印(らくいん)を押され、未だに自縄自縛(じじょうじばく)に陥っているが、俘虜虐待の伝統を持つのはどちらなのか。日本近代史には俘虜を優遇した人道的な話が数多く残されている。その研究が今こそ必要なのではないのか。と語られている。
  
私は中村大佐の文書を読みかつ関連書籍を播(ひもと)きながら、大東亜戦争後に武装解除されて収容された日本軍将兵に対する暴行や虐殺についても日本政府は調査し直す必要があるのではないか。収容された日本軍将兵に対して米軍以外は食糧の補給能力が無く、無人島に追いやったり自活を強要して多くの犠牲が出ている。ピエズ島では悪性マラリア蚊やアミーバ赤痢などの為四十%以上が亡くなったと推測されている。これらの死者はどの様に扱われているのか。

又、収容所での目撃談の中には記録に残されていない日本人の処刑が証言されている。彼等は一体どの様な扱いとなっているのだろうか。チャンギーやオートラムでは多数の日本人がリンチによって殺されているが、公式の記録では病死が各一名、自決が一名と二名、事故死は各二名となっている。だが、真相は刑死者の中にそれらのリンチによる死者を入れ込んで発表しているのではないのか。

日本政府は今こそ国家を挙げて戦後の連合国による日本人虐待の真相究明に取り組み、その非道性を当事国に訴え、国際社会に知らしめるべきだと思う。その事によってのみ、中村大佐が記した「国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。」との悲痛なる叫びに応え、戦犯として犠牲になられた方々に報いる事は出来ない。
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