「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

伊藤仁斎⑦「書を読んで識見無きは、猶読まざるがごとし、苟しくも識見を得んと要せば、当に其の帰宿する所を尋ぬべし。」        

2021-01-15 14:41:39 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第三十五回(令和3年1月15日)
伊藤仁斎に学ぶ⑦
「書を読んで識見無きは、猶読まざるがごとし、苟しくも識見を得んと要せば、当に其の帰宿する所を尋ぬべし。」 
                                               
(「童子問」下巻第三十四章)

 今回も、読書の方法についての仁斎の言葉を紹介する。

 仁斎は「博学」と「多学」とを厳しく弁別している。

 孔子が「予(わ)れは一以て之を貫く」(『論語』衛霊公篇)と述べた様に、道を主として他には見向きもせず、志を貫く事によって成す事、則ち「一」を貫く事によって成されるのが「博学」であり、ただ様々の事を広く知っているだけの「多学」とは雲泥の差があると言う。

 更に仁斎は「一だが万に通じているのが博学であり、万にして万でしかないのを多学という。博学は根がある木であり、根から幹、葉、果実と大きく伸び栄え繁茂しても、一つの気が流れ注いでいない事は無く、長じれば長じる程その気は盛んになる。多学は切り取った花を多数並べている様なもので、一時は目を楽しませても時が経てば枯れてしまい、限りがあってそれ以上増える事は無い。」

 多学では無く、博学となる為の読書の要点について仁斎は次の様に述べている。

「(書物を読むには)識見が重要である。書を読んで識見が無いのは、読まない事と等しい。いやしくも識見を得ようとするならば、自らの求める根本の点について常に尋ね続けねばならない。徒に渉猟するのでは無く、外に居る者が家に帰る様に根本に立ち返らなければならない。迷子が道を行く様にすべきではない。」

「先ずは、その書が有用であるか無用であるかを弁別し、その内容が政体に拘って己を修め人を治める点で切実なるものだけを取って、内容が漠然として切実でなく実用に何ら益のないものは、読む必要が無い。古人の書物には議論は正しくても実用に施す事の出来ない事や、昔は良いが今は相応しくないものもある。一つ一つを自分の体験や心に照し合せて体認・観察する事が必要となる。その様な工夫を用いれば、一巻の読書が己に役に立つこととなり、数百数千巻に至っても自らの実用の糧となるのである。現在書を読んで居る者達は、有用無用を弁ぜずに手当たり次第に多くを読んでいるので、遂には無識見の人間となって、後世に遺る様な者は殆ど居ない。」

 我々が書を繙く際には、我々自身の志が問われているのである。ただ知識欲を満足させたい為だけなら「多読」に他ならず、「博学」となる為には、自らの「天命」を自覚した「人生哲学」ともいうべき「一」なるものが不可欠なのだ。書を読む事で自らの智慧が深まり、人格が磨かれ、世に処する日々の有り方に深みが生まれて来ているならば、その人の読書は本物であると言えよう。識見(物事を正しく判断・評価する能力)は、その様にして養われて行くのである。

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