「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

中江藤樹④「武なき文は真実の文にあらず、文なき武は真実の武にあらず。」

2020-07-03 17:27:49 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第七回(令和2年7月3日)
中江藤樹に学ぶ④
武なき文は真実の文にあらず、文なき武は真実の武にあらず。
                             (『翁問答』上巻之本)

 元和元年(1615)に大坂夏の陣が終わり戦乱に終止符が打たれた事を「元和偃武」と呼ぶ。その翌年、九歳の藤樹は祖父の養子となって米子藩に赴き、学問を始めた。当時の武士は未だに戦国尚武の気風が旺盛で、書物を読む事は軽んじられる風潮だった。

 しかし藤樹は、十七歳の時に聞いた『論語』講義を契機として、『四書大全』を買い求めて独学で真実の生き方を求め続けた。勿論、藤樹は武士であり武の鍛錬も怠る事は無かった。その様な求道の中で、藤樹は「文武」を共に修める意義を明確に言葉に表したのである。

 「元来文と武は一つの徳であって、別々の事ではない。(略)武を欠いた文は真実の文ではなく、文の無い武も真実の武ではない。(略)文の道を実践する為に武道はあるのであり、武道の根っこは文である。武道の威力を用いて国を治めるのが文道であるから文道の根っこは武にある。(略)文は「仁道」の事を意味し、武は「義道」の事を言うのである。(略)仁に背く様な文は、名は文と言っても本当は文では無い。義に背く様な武は、名は武と言っても実は本当の武ではない。(略)文武にはそれぞれに「徳」と「芸」との本末がある。仁は文の徳にして文芸の根本である。文学や礼法、書法や算術等は芸であり、文徳の枝葉に他ならない。義は武の徳であって武術の根本である。軍法や弓術、馬術、剣術等は芸であって、武徳の枝葉に過ぎない。」

 「文」と「武」の本質を其々「仁道(仁の道、人々を幸せに導く愛深き道)」、「義道(義の道、正義を貫く道)」と明記することによって、文と武がサムライに取って欠くべからざる素養である事を明らかにしたのである。更に、「徳」と「芸」を分ける事で、本質的に備えるべき「徳」と、技術的な「芸」とを区別した。要は、その人物の精神性が問題なのである。文芸が幾ら得意でも仁愛の心が欠如している者や、武術が如何に優れていても正義の観念が欠落している者は、本物の武士では無いと断言いた。

 現代では「文武両道」と言ってスポーツと勉強を共に頑張っている者を称賛したりするが、それはあくまでも「芸」の事であり、「芸」の奥に厳然として培われたれた「仁」と「義」との揺らがぬ徳の持ち主しか「文武兼備」の士とは呼ばないのである。

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