「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

三島義挙と私(『祖国と青年』平成18年11月号掲載) 

2006-11-17 15:26:26 | 【連載】 実践 陽明学
三島義挙と私 
「政治」に対する「精神」の闘いとしての国民運動
  日本協議会 理事長 多久善郎

●三島先生と私とを繋ぐ見えない糸

 三島由紀夫先生とは不思議な縁によって結ばれている。自決時、高校二年生であった私は、三島先生と同年代の父が三島事件に非常に感動して「檄」を自らの日記に貼っていた事を強い印象で覚えている。父はその思いを当日の日記に記していた(本誌1月号の私の連載の中で紹介)。父の精神性こそが私の精神の中核を形作ったものであり、それは、三島先生の叫びに共鳴するものであった。
更には、私が大学生の時に求道の中で見出した人生哲学こそが「葉隠武士道」と「陽明学」であり、三島先生に繋がるものであった。これらは、大学二年生の時に独学で辿り着いたものだが、理系の私が葉隠と陽明学の虜になるとは不思議であり、そこには私の祖先の導きがあったような気がしてならない。「多久」の始祖は、肥前一帯を支配した竜造寺隆信の弟の竜造寺長信であり、佐賀から長崎へ行く要衝に位置する多久の地を治め、多久姓を名乗った。その多久家は佐賀市鍋島町の竜雲寺で祀られているが、その境内には、何と葉隠の口述者である山本常朝が眠っている。わが家は幾つにも枝分かれした多久氏の末裔に過ぎないが、私をして『葉隠』へと導き、山本常朝を訪ねて竜雲寺へと足を運ばせた不思議を感じざるをえない。『葉隠』の中で語られる、「死」をばねとする「生」の哲学、エネルギー賛美などの美意識、「主観哲学」「行動哲学」「生きた哲学」の人生哲学は、私の血を沸き立たせた。

 更に祖先に縁の深い多久の地には、江戸時代に孔子廟が逸早く建立され、儒学研鑽の場としての歴史が重ねられて来ている。私は大学進学後、何故か論語や孟子などの経学に魅かれ、孟子の言葉に感銘を覚え、更には陽明学に辿り着き、王陽明の『伝習録』に心から感動を覚えたのであったが、それも聖人の学を希求する祖先たちの霊が私を導いたのだと思っている。陽明学の「知行合一」「事上磨錬」「私欲を去り天理を存す」「致良知」「抜本塞源」などの言葉は、私の生き方を形成した。自らの中に先天的に実在する良知を磨き、良知に問いかけ、良知のみに依拠して生きる人生のあり方は、私の行動を決定付けるものであった。『伝習録』を読み終え「もはや恐れるものは何もない」と当時の私は日記に記している。そして、日本陽明学派に連なる、中江藤樹、熊沢蕃山、佐藤一斎、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典を学び、特に吉田松陰と西郷隆盛は終生の師と定め学び続けている。

 三島先生は「葉隠」と「陽明学」を、戦後・近代に対するアンチテーゼとして提起され、『葉隠入門』や「革命哲学としての陽明学」を記して、変革の行動指針として世に問われた。晩年の三島先生は「銅像との対話」の中での西郷さんへの思慕の情を表現され、松陰先生の「僕は忠義をなすつもり、諸友は功業をなすつもり」との言葉を対談で引用されたりして、良知の命ずるままに行動を起こし、太虚に帰して行かれた先哲への思いが深くなって行かれた事が窺われる。父と葉隠と陽明学とが三島先生と私とを繋ぐ見えない糸として、私を憲法との戦いに導いたのである。

●陽明学と日本精神

 陽明学では、心の中の宇宙(真理)ともいうべき良知に照らし合わせて価値の判断を行い、その認識(知)そのままに行動する生き方(行)を至上のものとしている。即ち「知行合一」である。その前提として、自らの心の有り方が、人欲を去り天理を存する、真理との一体感を日々修練しているかが問われる。この生き方が、中江藤樹以来、日本史を領導する数多の先人たちを魅了してきたのは、陽明学的な生き方こそ古来日本人が目指して来た「清き明かき直き心」「公の為に尽くす無私の伝統」と繋がるものであったからである。「武士に二言無し」や「言行一致」「不言実行」は、日本人の社会で最も賞賛されて来た。「私」を去った澄み切った心境で「公」の為に「義」の為に身を捧げる事は、日本の英雄譚のモチーフである。吉田松陰は死生観に於て明代の陽明学者李卓吾の『焚書』を読んで啓発される事が大きかったと記しているが、李卓吾の説く「童心説」を松陰は、人欲に惑わされる以前のわらべの様な、死生を超越した澄み切った心境だと解釈している。だが、中国思想研究者によると、李卓吾の言う「童心」とは子供が何でも欲しがるような、人間の欲望をも肯定するどろどろした側面があり、松陰の捉えた童心とは微妙な違いがあるという。そこに中国人の人生観と日本人の人生観とが根本的に違う点がある。大陸で生まれた陽明学は中国では衰退するが、日本に於ては純化されかつ神道と合体して行動を重んじる志士の哲学として日本近代史を牽引してきたのである。

●偽善に立ち向かう精神の闘い

「革命哲学としての陽明学」の中で三島先生は、大塩平八郎の「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」になぞらえて、大塩の死と現代について次の様に述べられている。「現代という巨大な偽善の時代にあって、虚偽を卑しんだ大塩の精神は、われわれが一つの偽善を容認すれば、百、千の偽善を容認しなければならないことを教えている。そして、偽善はたちまち馴合いを生じ、一つの偽善に荷担した人間は、同じ偽善に荷担した百万の人間と結ぶのである。大塩はこの偽善に体をぶつけて死んだのだともいえよう。もちろん封建制度下の相互監視のゆきとどいた時代における偽善と、現代民主主義社会の偽善とは性質も違えば次元も違っている。しかし、その偽善の認識を直ちに行動に移そうとすれば、人々が無数の障碍に遭わねばならぬ点では同じであろう。」

 偽善に体をぶつけて死ぬ。三島先生のこの言葉は、檄文の「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。」と呼応している。偽善の認識は偽善是正の行動として即座に現れて来なければ、偽善の是認となり、自らの心は死んでしまう。三島先生が仰られる様に現代は「巨大な偽善」の時代であり、吾々の目に映る社会の様々な事象は吾々の心を苦しめる事ばかりである。だが、自らの中に輝き続ける良知こそが真実であり、日々、良知を致して生き続ける中からしか偽善と立ち向かう戦いの方途は見出されないのである。

 三島先生は、「陽明学が示唆するものは、このような政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である。」と語られ、最後に「われわれはこの陽明学という忘れられた行動哲学にかえることによって、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の闘いの方法を、深く探求しなおす必要があるのではあるまいか。」と結ばれている。

 三島事件とは、正に七十年安保闘争後の昭和四十五年の政治状況に対する三島先生の「精神の闘い」であった。政治の欺瞞に対する精神の叫びであり、肉体の死を通じて魂の死を峻拒されたのである。

●吾らが「精神の闘い」とは

 平成十八年秋の政治状況に対する「精神の闘い」とは何か。それこそが、吾らが推進する国民運動の課題でなければならない。「美しい国づくり」を標榜する安倍政権の誕生を、吾々は日本の戦後を変えていく大きなターニングポイントとせねばならない。だが、教育基本法改正を巡る今日の状況は、更に新たなる偽善を生み出しつつある。戦後教育の破綻から教育再生が声高に論じられ、全国の同志の努力で漸く教育基本法改正が政治スケジュールに登って来たが、日本国憲法の落とし子とも言うべき護憲政党である公明党が自民党と連立与党を組んだ結果、教育基本法の抜本的な改正に悉く異を唱え、その結果出来上がった文言は政治的な妥協の産物となり、教育改革の最も重要な「愛国心」「宗教的情操教育」「『不当な支配』の削除」が盛り込まれないままに、与党案が決定した。国家百年の大計であるべき教育は、又しても政治的な妥協に蹂躙され、新たな偽善が始まりつつある。かつては自社両党による妥協と欺瞞が防衛問題での腐臭を生み出し、今では自公両党による妥協と欺瞞が教育問題での新たな腐臭を生み出さんとしている。その偽善は、「真正保守内閣」を標榜する安倍政権になっても容易には抜け出せない大きな傷として深く浸透している。護憲を標榜する公明党との合従を断ち切る新たな力を自民党が自ら構築しない限り、憲法改正など夢の又夢である。

 中学校の「いじめ」問題然り、北朝鮮の核実験に対する国防論議、非核三原則を巡る言論封殺など、問題を根源から問い直して、抜本的に解決する為の論議に至らず、戦後の「タブー」がマスコミ・言論界を覆い尽くし、解決を先延ばししている。現実がよりリアルに見える時代になったにも拘らず、偽善的な議論ばかりが横行している。

 先日神風連130年に際し、熊本市の南西に鎮座まします新開大神宮の秋季大祭に参列させて戴いた。明治九年に熊本敬神党の方々が決起について皇大神宮のご神意を窺う「宇気比」の神事が行われた御神殿である。三島先生もここを訪れた後『豊饒の海』第二巻『奔馬』の中に「神風連史話」を記された。三島先生が神風連の闘いの中に見られたものこそ、西欧化に邁進する余り、古来の日本人の文化・伝統の破壊を生み出して行く明治政府の横暴に対する、純粋なる「精神の闘い」の姿であった。

 現代に於て日本を守り、真実の日本を顕現するために吾々が行うべき「精神の闘い」とは何なのか。政治は、社会は、今何を封殺し失わせしめんとしているのか。吾々が生命を賭して守るべき一線とは何なのか。その問いかけの中からしか力強い運動は起こって来ない。三島先生の「精神と政治の対立状況における精神の闘いの方法を、深く探求しなおす必要がある」との問いかけを、今一度かみしめつつ今年の慰霊祭に臨みたいと考えている。
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