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おじぃの独り言

セミリタイアして第二の人生をエンジョイするおじぃの備忘録です。

2025会津若松の旅⑰会津若松のシンボル『鶴ヶ城』

2025-07-07 05:35:41 | 旅行

会津と言えば有名なのが『鶴ヶ城』ですねぇ。名だたる名将たちが治め幕末には最後まで武士の誇りを貫き通した会津藩のシンボルです。会津若松市のシンボルである『鶴ヶ城』、その天守閣は市内のほぼ、どこからでも望むことができます。赤瓦や石垣、茶室など、みどころも豊富。市民公園になっているため、朝の散歩やジョギングなどを楽しむ人々の姿も見られます。市民の憩いの場として現代の生活に溶け込みながら、会津の歴史を今に伝えています。

大河ドラマ「八重の桜」で演じた綾瀬はるかさんの福島の復興を願う桜の植樹があります。

場内は見事な紅葉です。春は桜、秋は紅葉がよく似合うお城です。

会津若松市のシンボルである『鶴ヶ城』は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。

江戸時代に入り、会津で大地震が発生。被害を受けた天守は大改修され、現在と同じ五層の天守となりました。幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、政府の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年(1965)に再建されました。内部は博物館になっています。

五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。

2011年3月、天守の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦が赤瓦になりました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正の時、慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。明治7年(1874)7月に天守をはじめ、鶴ヶ城内の建造物を取り壊されました。その6年前、戊辰戦争を戦った白虎隊の少年たちも、この赤瓦の天守を仰ぎ見たことでしょう。

『鶴ケ城』天守閣の2体のしゃちほこは、白目の部分と歯に金箔(きんぱく)、全身には銀箔がほどこされた豪華なつくりで、極め付きは瞳の真ん中に輝く大きなダイヤモンドが使われています。とても豪華なつくりです。

会津は千家茶道復興の地であります。場内にある茶室「麟閣(りんかく)」は、千利休の子、少庵が建てたと伝わり、戊辰戦争後、市内に移築されたものを、平成2年に元の場所に移築・復元したものです。内部の床柱は少庵みずから削ったとされます。千利休が豊臣秀吉から切腹を命ぜられた後、千家茶道が途絶えるのを危惧した蒲生氏郷は少庵を会津へかくまい、秀吉に千家再興を願い出ました。この結果、少庵は京に戻りその後、子孫は表千家、裏千家、武者小路千家と3つに分かれ、連綿として今に続いています。

 

続く、、、

 

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