会津若松の旅、「飯盛山」に来ています。
山頂の広場には「白虎隊十九士の墓」があります。慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥をさとり、3月10日、改めて軍隊の編成替えをおこないました。

そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとに、『玄武隊』『青龍隊』『朱雀隊』『白虎隊』の4隊でした。それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって、『士中』『寄合』『足軽』の3隊に分けられ、白虎隊は総勢343名(現在の推定)でした。

そのうち戸の口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした。そしてその中の17名は無事に入城しましたが、20名は「飯盛山」で自刃をされ、1人蘇生された飯沼少年を除いた19士の墓となります。

「飯盛山」の山頂からは鶴ヶ城がよく見えます。


「飯盛山」の山頂には 飯盛分店展望広場があり、山頂の一帯を見渡せます。


山頂の北側になる「さざえ堂」です。正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺(せいそうじ)第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂です。

その形が さざえの殻に似ていることから俗に「さざえ堂」と呼ばれ、階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されています。


近くには五穀豊穣の神、「宇賀神(白蛇)」をお祭りしています。寛文年間(1661年~1672年)、松平正容が厳島神社の傍社として建設され、現在は明治23年につくられた白虎隊十九士の洋装の霊像が祀られております。

「飯盛山」の山頂から「さざえ堂」の前を通り、北側に下っていくと「戸ノ口洞穴広場公園」があります。猪苗代湖から流れて来る水の公園で紅葉に時期には、素晴らしい紅葉の絨毯が敷かれます。



公園内には猪苗代湖の水が流れ出る「戸の口堰洞穴」があります。天保年間に会津平野のかんがい用水として猪苗代湖より通水した洞穴ですが、戊辰戦争の折、 白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため「飯盛山」に向かう際、この洞穴をくぐりました。


「戸の口堰洞穴」は、「飯盛山」の山腹に掘られた水路です。江戸時代初期に、猪苗代湖の水を会津藩内に引くために開削に取り掛かったのが始まり。江戸末期には大改修が行われ、「飯盛山」には約150mの洞穴が掘られました。


戸ノ口原での戦いに敗れた白虎士中二番隊の20名が、鶴ヶ城の安否を確かめるためにこの洞穴を通って「飯盛山」に出たと言われています。現在、内部はコンクリートの水路トンネルとなっており、秋には洞門くぐりが開催されます。


又、公園内には厳島神社があります。そばの御神木からは何百年にも渡るこの神社の歴史が感じられます。緑と水路に囲まれた空間は清々しく、神聖な気持ちで参拝する事ができます。

続く、、、
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