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おじぃの独り言

セミリタイアして第二の人生をエンジョイするおじぃの備忘録です。

2025会津若松の旅⑦飯盛山観光(1)「白虎隊」の自刃の地

2025-06-04 05:41:40 | 旅行

会津若松の旅、会津若松市街の東2kmにあり、城下町を一望に見渡す小高い山の「飯盛山」を訪れました。

ここには、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓や、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、白虎隊引揚の洞門、市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話、史跡名所が残っております。

又、「白虎隊記念館」主に「白虎隊」をはじめとする戊辰戦争関係の史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵、展示しています。2階ではアニメによる「白虎隊」の解説ビデオ(10分)を上映しています。

城下町・会津若松市を一望できる標高314mの小高い山の山頂へは、183段の階段を登れば到着できますが、スロープコンベア(動く坂道)を利用すれば、より簡単に山頂へとたどり着くことができます。

石段は山頂までは183段です。山頂から素晴らしい景色が眺めれます。

山頂の広場には着くと色々な建造物があります。1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑が目につきます。

「飯盛山」の山頂からは鶴ヶ城が見えます。会津若松市内を一望する「飯盛山」の紅葉も素晴らしいものがあります。

そして更に奥へ進むと「白虎隊自刃の地」があります。戊辰戦争慶応4年(明治元年)~明治2年の戊辰戦争で、会津藩は、15歳~17歳の少年で『白虎隊』を編成し、その中でも、士中二番隊は会津藩校日新館に学ぶエリート隊でした。彼らは明治元年(1868年)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、負傷者を抱えながら郊外の「飯盛山」へと落ち延びました。

だがここから眺めた戦闘にによる市中火炎の模様、黒煙と炎に包まれる鶴ヶ城を見て、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったと いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶っていきました。

「飯盛山」まで辿り着いた白虎隊士で、ただ一人、生き残られた飯沼貞吉さん。貞吉さんのおかげで、白虎士中二番隊が後世に伝わりました。 亡くなられて此の地に眠られているが、60数年ぶりに、共に戦った仲間とお会いできたのだと思います。

続く、、、

 

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