会津若松の旅、会津若松市街の東2kmにあり、城下町を一望に見渡す小高い山の「飯盛山」を訪れました。
ここには、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓や、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、白虎隊引揚の洞門、市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話、史跡名所が残っております。
又、「白虎隊記念館」主に「白虎隊」をはじめとする戊辰戦争関係の史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵、展示しています。2階ではアニメによる「白虎隊」の解説ビデオ(10分)を上映しています。
城下町・会津若松市を一望できる標高314mの小高い山の山頂へは、183段の階段を登れば到着できますが、スロープコンベア(動く坂道)を利用すれば、より簡単に山頂へとたどり着くことができます。
石段は山頂までは183段です。山頂から素晴らしい景色が眺めれます。
山頂の広場には着くと色々な建造物があります。1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑が目につきます。
「飯盛山」の山頂からは鶴ヶ城が見えます。会津若松市内を一望する「飯盛山」の紅葉も素晴らしいものがあります。
そして更に奥へ進むと「白虎隊自刃の地」があります。戊辰戦争慶応4年(明治元年)~明治2年の戊辰戦争で、会津藩は、15歳~17歳の少年で『白虎隊』を編成し、その中でも、士中二番隊は会津藩校日新館に学ぶエリート隊でした。彼らは明治元年(1868年)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、負傷者を抱えながら郊外の「飯盛山」へと落ち延びました。
だがここから眺めた戦闘にによる市中火炎の模様、黒煙と炎に包まれる鶴ヶ城を見て、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったと いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶っていきました。
「飯盛山」まで辿り着いた白虎隊士で、ただ一人、生き残られた飯沼貞吉さん。貞吉さんのおかげで、白虎士中二番隊が後世に伝わりました。 亡くなられて此の地に眠られているが、60数年ぶりに、共に戦った仲間とお会いできたのだと思います。
続く、、、
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