快気分析

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仕組みとアプローチ -   山崎の戦いの謎 明智光秀が大山崎に禁制を出していた状況から見えて来るもの

2019-05-04 14:56:07 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 明智光秀は山崎の戦いの前、大山崎に禁制を出していました。
 ここが戦闘による破壊や略奪とならないようにするです。
 ならば山崎の戦いこのエリアが明智方の拠点になっていたのかと言うとそうならなかったようです。
 山崎の戦いの直前には高山右近がここ大天崎の東黒門と反対の西黒門の間である軍事拠点に陣取ったようです。
 この状況ならば仮に明智光秀が高山右近が秀吉方に寝返ったと言う事がわかったのなら敢えて山崎の戦いを挑まずに篭城戦に変更していたはずと普通に考えられます。
 篭城戦なら多くの反織田、反秀吉勢が日々加担して行くので少なくとも山崎の戦いよりは勝率を上げられるか或いは敗北を遅らせる事が出来た事は明らか。
 ところが光秀は野戦に近いこの戦闘継続を選択しました。
 これが何を意味するのかと言うとですが、それは「高山右近が明智方としてこの地を占拠し、山崎の戦場を見渡すのに適した位置に中川清秀が陣取ったので大丈夫だろう」と誤認していたからではないでしょうか。
 高山右近と中川清秀を疑っていたのなら光秀は最初からその位置に行かせなかったはず、と言うのが個人的な考え方です。
 明智光秀は京極高次と高山右近と言うキリシタン武将の主軸、そしてその影響下の武将らを全て取り込んだのでほぼ勝利は間違い無い、と思い込んでいた一方で、高山右近と近縁の中川清秀は秀吉方に既に寝返っていた、と言う状況になっていたのではないでしょうか。
 そして最初からそう言うシナリオをイエズス会が用意していて実際に指示命令を出していたと考えるのが普通であり、その証拠に京極高次は明智方に与したにもかかわらず処刑されず更に秀吉の時代に復活しています。
 キリシタン武将以外で明智方に与した武将らはおそらく近縁女子を秀吉の側室に差し出しても拒否されたのでしょう。
 


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