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快気分析

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仕組みとアプローチ -   石見銀山の利権を放棄する和睦を勝手に毛利氏と結んでしまった秀吉

2019-06-05 08:55:12 | 明智光秀
 今月2日の記事で「「石見銀全だけで100万石相当、それ以外の農林水産物や海上、陸上交通利権も含めれば百数十万石相当、エンジンの無い当時の海上交通は日本海側や瀬戸内海でないと危険でした」と書いたのですが更に以前の記事でも書いた通り、石見銀山は御料地であるので朝廷への納めるべき収益が有る程度の割合で有ったはずです。
 その割合がどれだけだったのかはわかりませんが、仮に50%だったとした場合でも約50万石プラス農林水産物や海上、陸上の交易利権などを少なく見積って30万石として合わせると80万石となったはずでそれでもかなりの加増です。
 加えて朝廷へ納める収益の窓口となる役なので明智光秀には悪い話では無かったと思われます。
 そして仮に信長が大陸へ進攻実施を始めた場合、その兵力や物資輸送ルートの拠点ともなるわけで石高は尚更増えるはずです。
 ところでこの美味しい話に対して、備中高松城水攻めの最中に起きた本能寺の変の時に秀吉が毛利氏と和睦した内容は次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

備中高松城の戦い

(中略)

和睦成立と秀吉の撤退
毛利方は軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。

(中略)

秀吉方は信長落命によって秀吉が後ろ盾を失った状態であることを毛利方に知られないように徹底的に信長落命の事実を隠匿した。翌6月4日に秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東の割譲(先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩)とし、清水宗治自刃を和睦条件として提示した。毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立した。なお、人質として、毛利側から吉川広家と小早川元総(後の小早川秀包)が、秀吉側から森重政・高政兄弟(後にいずれも毛利姓を名乗る)が送られた。

引用終了

 何故か見事に石見銀山の有る石見が抜けていてこれは秀吉が石見銀山の利権を勝手に放棄した事を意味します。
 信長の首が見つからず明智方に加勢したがらなかった畿内の諸武将が多かったのに秀吉は勝手に石見銀山の利権を放棄しているのです。
 これは信長が落命した可能性が高い事を他の武将より知っていたからではないか、と言うのは以前記事にした通りです。
 そして秀吉がこの和睦案が本能寺の変の前から既に信長に伝わっていたのかどうか?と言うのは定かでは有りませんが、おそらく信長は石見銀山を攻略しようとしない秀吉に毛利氏との癒着疑惑を持ち始め、それで明智光秀に出雲・石見への国替え(但し切り取り次第)を命じたのではないか、と言うストーリーが浮かんで来るのです。
 真相はどうだったのでしょうか。