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快気分析

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仕組みとアプローチ -  秀吉の毛利氏との和睦には不審な点が有る

2018-06-11 12:50:31 | 明智光秀
 明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因は多々有ると思われますが、その一つに秀吉による「中国おお返し」が有ります。
 中国おお返しが可能となった状況の要素について少なくとも一部については以前にも書いた通りで、トコロテン方式によるものと考えていますが、それでも他に、「秀吉が毛利氏と早期に和睦をした」と言う事は大きな要素だった様です。
 この毛利氏との和睦について個人的にではあるのですが、多くの状況を分析すると単純では無かったように思えてしまいます。
 信長が討たれたかどうかが当時はっきりとはわからないにもかかわらず、何故勝手に和睦できるのでしょうか。
 この点について疑問を持つ人はどうも少なくない様ですが、通常の戦闘であれば多少はそう言う事が有っても仕方ない、と言うケースは当時はもしかすると有ったのかも知れません。
 ですが、毛利攻めについては以前にも記事にした様に、石見銀山だけで当時100万石相当とする見方も多く、さらに出雲、石見(両者を総合すると銀山と水運、陸運、農林水産物を総合すると百数十万石とも想定出来る)を織田方が制圧すると言う意味も大きかった面が有ります。
 「秀吉が勝手に毛利氏と和睦する」と言う事は、「これらの収益源を単純に秀吉一存で放棄した」と言う事になるのかと考えられます。
 以前の記事で書いた通り、当時の明朝は通貨が銀でした。
 これが何を意味するかと言うと、経済循環の血液に相当するものが当時は銀であり、仮に織田方が大陸進出を計画していたならば明朝を制圧するのにも銀は必須、或いはそうでなくて明朝の周辺エリアや民族を制圧する為に明朝と同盟を結ぶのにも銀は必須だった事になります。
 従って織田方が石見銀山領有を断念すると言う事は「仮に信長か信忠が生きていれば大陸進出を断念する事であり、秀吉は追放、或いは処刑になった可能性が高い」と言う事になります。
 そうでなくても秀吉は上杉氏攻めで柴田勝家と意見が合わない為に勝手の戦線離脱して信長からひどく怒られていたというのが通説です。
 通常なら処刑だったはずとする見方も有りますが、一度目ならまだ何とか許されたので中国攻めを任されたのかも知れません。
 ですが毛利氏と勝手に和睦、しかもそれが石見銀山も含む莫大な利権絡みだったとすると流石に追放、あるいは処刑は免れないリスクが大きかったと考えられます。
 そしてもう一つ、「仮に秀吉が信長と信忠が確実に落命していたのを知っていたのであればどうしてか? それは襲撃部隊の中でも中枢であるか、或いは現場の状況を正確に把握できる人物が秀吉の手先だったから」と言う事も感がえられて来ます。
 これらのリスクをクリアしようとしたなら、秀吉は果たしてどうするか。
 個人的な考え方に過ぎませんが、「秀吉と毛利方との和睦は当時は第1の密約に過ぎなかった。仮に信長も信忠も生きていて大きな影響が無かった場合は、秀吉は毛利氏との和睦が最初から無かった事にする、と言う第2の密約が毛利氏とと間で交わされていた可能性が高い」と見ています。
 仮に本能寺の変で信長か信忠が本当に襲撃されながらも生存していた場合は、明智方が当分は制裁の対象となり、毛利氏からは矛先が他に向かう為、信長に対して譲歩と和睦のチャンスが増える事になります。
 仮に本能寺の変が信長の自作自演のインチキクーデターであったなら、秀吉が最初から毛利氏との間の和睦の話が無かった事にしたとしても、毛利氏側も元々織田勢が攻め寄せれば殆ど壊滅だったのは明らかであり、ダメもとで考えれば秀吉に恩を売っておいたり、或いは秀吉が密約を勝手に交わした事を証明する内誓紙などがあれば秀吉の弱みを握る事になり、秀吉が何とか毛利氏にいくらかでも有利の信長に取り入る、と毛利氏の計算が働いたのではないでしょうか。
 そして最後にもう一つ、信長も信忠も生き残っていて秀吉がどう見ても処刑の対象になるのが明らかとなった場合、秀吉は毛利氏に寝返って宇喜多氏、更には他の反信長勢力と共に信長打倒の一斉攻勢をかけた可能性はかけた可能性は十分有ったと考えています。
 実際に本能寺の変の後には北条氏が反旗を翻していますが、秀吉が毛利氏に寝返って織田勢を攻撃し始めた場合、上杉氏、長宗我部氏、高野衆など反信長勢が連携をとって一斉攻勢をかけたのではないでしょうか。
 
 

仕組みとアプローチ -  関東大震災(1923年)前と現在の似ている(かどうかと言う)点 その3

2018-06-11 08:52:25 | 地震 津波
 次の類似点は「ハワイのキラウエア火山噴火状況が或いは似ているのかどうか」と言う点です。
 あまりはっきり言えないのは昔のデータがはっきりしていない部分が有るからです。
 1923年の前後については次の通りのデータが有りました。

引用開始(一部抜粋)

https://www.soest.hawaii.edu/GG/HCV/kil-hist.html

1894 July 7 4 (?) Caldera (?)
1918 Feb. 23 14 Caldera 183,000
1919 Feb. 7 294 Caldera    25,200,000 (?)
1919 Dec. 21 221 Southwest rift 45,300,000
1921 Mar. 18 7 Caldera 6,400,000
1922 May 28 2 Makaopuhi and Napau (?)
1923 Aug 25 (?) 1 East rift 73,000
1924 May 10 17 Caldera No lava
1924 July 19 11 Halemaumau 234,000
1927 July 7 13     Halemaumau 2,300,000
1929 Feb. 20 2 Halemaumau 1,400,000
1929 July 25 4 Halemaumau 2,600,000
1930 Nov. 19 19 Halemaumau 6,200,000

引用終了

 1894年を最後に暫く目立つ噴火が無かったのが1918年に活発化し始め、1923年、そしてその後も活発でした。
 1922年の噴火規模がわからないのは残念ですが、噴火の活発化が今後も続くならば少なくともキラウエア火山だけについて当時とやや似ている面が有る、とは言えるのかも知れません。