1560年の桶狭間の戦いで破れた後には、更に美濃の斉藤義龍が病死(1561年6月)した後でも、今川氏真におそらくもう1回だけ挽回のチャンスが有った、と筆者は思っています。
それは1561年後半~1562年の清洲同盟締結(1562年2月)直前までの期間であり、今川氏と美濃の斉藤氏が同盟或いは連携できるチャンスが有ったからです。
ただ二人とも年齢が若すぎている点、外交面や現場の戦闘経験が不足と言う点で共通してはいたのかも知れません。
今川氏の方は桶狭間の戦いの前、戦闘での作戦や外交の中核であった雪舟が既に死去しており、また更に家臣で有能な者の多くが桶狭間で戦死して既に有能な参謀がいなかったようです。
斉藤氏の方には竹中重治やその他有能な重臣(重臣と言うよりも斉藤龍興を逆に圧倒してしまうくらいだった)は未だ健在だったようです。
例えば1563年に美濃の斉藤軍は尾張の織田軍を新加納の戦いで破っています。
更に1561年から1562年は美濃にも、駿河にも特に大きな自然災害は無かったようです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1559(永禄 2)年
阿蘇山に新穴出来る。(八代日記)
1562(永禄 5)年
2月 阿蘇山噴火。(八代日記)
3月 9日 地震あり。(お湯殿上日記)(野史)
10月15日 地震あり。(お湯殿上日記)(野史)
引用終了
斉藤氏は戦闘に有能ではあっても、外交に秀でた家臣がいなかったのか、或いは斉藤氏はまだ勢力が強く、今川氏と同盟するほどの事でもないと考えていたのか、それとも今川氏はもうダメだと考えていたのか、今となってはもう謎です。
それは1561年後半~1562年の清洲同盟締結(1562年2月)直前までの期間であり、今川氏と美濃の斉藤氏が同盟或いは連携できるチャンスが有ったからです。
ただ二人とも年齢が若すぎている点、外交面や現場の戦闘経験が不足と言う点で共通してはいたのかも知れません。
今川氏の方は桶狭間の戦いの前、戦闘での作戦や外交の中核であった雪舟が既に死去しており、また更に家臣で有能な者の多くが桶狭間で戦死して既に有能な参謀がいなかったようです。
斉藤氏の方には竹中重治やその他有能な重臣(重臣と言うよりも斉藤龍興を逆に圧倒してしまうくらいだった)は未だ健在だったようです。
例えば1563年に美濃の斉藤軍は尾張の織田軍を新加納の戦いで破っています。
更に1561年から1562年は美濃にも、駿河にも特に大きな自然災害は無かったようです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1559(永禄 2)年
阿蘇山に新穴出来る。(八代日記)
1562(永禄 5)年
2月 阿蘇山噴火。(八代日記)
3月 9日 地震あり。(お湯殿上日記)(野史)
10月15日 地震あり。(お湯殿上日記)(野史)
引用終了
斉藤氏は戦闘に有能ではあっても、外交に秀でた家臣がいなかったのか、或いは斉藤氏はまだ勢力が強く、今川氏と同盟するほどの事でもないと考えていたのか、それとも今川氏はもうダメだと考えていたのか、今となってはもう謎です。