霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

私と、そして「あなた」の使命

2015年02月06日 | 心霊現象
結論から申し上げれば、なんら違いはない。
生きて肉体をもつ限り、同じ使命のもとで生かされている。

・・・、とまあ言ってみればこうなりますね。

よって、今までの長き?に渡り「このブログ」を読み続けて下さった皆様(60人近く)、お一人お一人に改めて御礼を申し上げるとともに、これから行くべき、いや「行かねばならない」道をお示し申し上げる日が、ようやくやってまいりました。
ここまで来たら、逃げ出すことはもうできますまいて~(ふふふ)。
だって、最後に残ったのは皆様方なのですから。

大きくは、生きて「神のみ言」を学び、自分のものとし、あの世にては我が氏族圏において教示する役目こそが「あなた様」のお役目でございましょう。
運よく数人、あるいはもっと大勢の方々に「この世」にて伝授出来た場合には、これ以上の幸運(徳)はありますまい。
一人で戦うより二人の方が、またそれ以上の多勢の方が「戦さ」には有利と決まっていますから。
信仰とは、ともすれば「戦い」であり「忍耐」であり「もののふの言うところの潔(いさぎよ)さ」でもあります。
その「あなた」が行くべき「人の道」を指し示し、ある時は「ジャンヌ・ダルク」のように、そしてある時は「自由の女神」のように、我が氏族を導く先導者となられます。
間違いなくこれから行くべき「ところ」は、確かに在り、天の法則で成り立っているところであれば、魁(さきがけ)る者がいなければ、「その氏族」は確実に「霊界」で迷い子となっていくでしょう。

「人がやるだろう」と思ってはなりません。
「あなた」がやるべく今日まで導かれているのです。
神でもいい、仏でもいい。
より高い霊的存在から「見初められて」今に至っているとすれば、もう暗黙の了解が成されて久しいかと・・・。
さあ、立ち上がるのは「今」。
時を失っては、一生の不覚となりましょう。
・・・、とまあ、皆様方の尻を蹴飛ばすお役目を、今日は致したく存じます。


今日ほど「殺人」がいとも簡単に行われ、人の心が「またか・・・」と大した反応さえみせなくなった昨今。ここまで麻痺した感覚をもった人の世界で、さらにそれ以上の事が、事件が、恐怖が用意されていると知るとき、私達は歴史のクライマックスをもっと「危険」と「反省」と「おののき」をもって構えなければならない。勿論、何らかの用意(準備)をしてこその話である。
「事件」の背景には、必ず過去に撒いた種の実りがある。
これが因果律でもある。
事は偶然にはおこらない。起こったことが、何かの間違いでもない。
ただ、その事の起こった原因つまり背景が見えないだけである。
下校時に見ず知らずの男に刺されて、搬送先の病院で死ぬ「男の子」。
可哀そうに、運が悪かった・・・、では終わらない。
ストーカーに悩まされ、挙句に殺される。・・・、これもたまたまであり、運が悪かったのか?・・・。
文化も歴史も違う異国で災難に遭う。・・・、これも偶然か?。

目に見えない「糸」ほど、始末に悪いものはない。
が、言い換えれば「観ようとしなかったあなた」が悪いか、それとも「見えないまま今日まできたあなた」が悪いかのどちらかである。
勝負は、「戦う相手」が分かって初めて勝因につながる。
相手が「何かがさっぱり分からない」ということは、負けるしかない。
つまり歴史の過ちを再び、あるいは三度繰り返すしかない。
「今、自分の周りに何が起こっているのか」あるいはまた「これから先何が起ころうとしているのか」を、確実に見極めることの出来る人物が必要になる。
それが地球規模ならば、「メシア」と呼ぼう。
さらに国単位であるならば「国家的メシア」と呼ぼう。
さらに民族であるならば「民族的メシア」あるいは「民族的指導者」と呼んでもいい。
さらに氏族ならば、・・・「あなた」だ。
その一人を見つけようと「霊界」は躍起になっている。
それが「今」だと申し上げる。
「いない!」とは、言いたくもなければ、思いたくもない。それが霊界人の心情である。
今まで「何事」も起こらなかったのは、これから起こるというだけのことである。
先祖があり、霊界があるのであれば、必ず何かを起こして知らせるはずである。
昨日までは他人事だった出来事(厄災)は、今日は現実的なものとなって「あなた」の目の前に起こり、その意味を無言で問う時がくる。


海外における「邦人(日本人)」の安否が、ようやく気になりだした今。
事が起こっても、多分きっと「手も足も出ない」日本であるかもしれない。
かつての日本人とまるで外形も根本精神も違ってしまった「今様日本人」には、何をもって世界に日本あるいは日本人の特異性(徳性?)を知らしめるのだろうか・・・。
結局は今日まで世界に撒いてきた日本人の「種」が、芽を出し花が咲き、実ったまでのことだ。
「それ」を受けるのが、めぐり合わせでもある。
個人を煽動し、国民を煽動し、国と国を繋いで煽動するものは、悪と善に別れざるをえない。
何が正しいのか、何が正しくないのか~、今だからこそ見極める必要がある。
自分個人の趣向ではない。天の法則からみての善と否を識別する霊的基礎が出来ていることが必須になる。
答えが分からない時、彼らは悩みそしてその挙句に祈ってきた。
天からの啓示(あるいは教示)は、そんな時に現される。
答えが分かるから指導者でもなく、先見の明があるから魁けでもない。
「天」あるいは「神」に繋がってこその指導者が、霊界が必要とする「我が指導者」となれる。

あなたは何処から来て、何処へ行くのか・・・・。
このことが分からない限り、道を目指すことは出来ない。
肉体ある今から霊になってからも辿るその道が、一貫したものとして魂に刻まれていなければ、目的まで辿りつくことは至難のことである。
求道者の道はすべからくこのようなものであった。
途中に起こる「惑わしの術」にはまってはならない。
目には見えないが「尖刃の谷」が脇に迫っているのを、見極めなければならない。
我が血統の「功罪」を知らなければならない。
先祖を意識し、最初(出発)から最後(終着)まで、全期間を愛と覚悟をもって「責任と祈りの人」になりきり全うする者を目指していく・・・。
そのような者が血統圏に三人いたらどうなるか?・・・。
答えは明らかだ。

皆様が今こそ霊界に向けて「所信表明」をされる事を、心から願いそしてお勧めする。
そこからしか霊界は動かない。
何かを起こす「キッカケ」を、地上で肉体を持つ「あなた」から発信することを、彼ら霊達はどんな思いで待っているか・・・。
全ての発信源は今は地上にあり、霊界は従の立場で動くようになってきた。
地上が動かなければ、霊界は動くように刺激をするが、それはあくまでも「つっつき」にすぎない。
『来るのか、来ないのか!』と、私が恫喝されたように、「やるのか、やらないのか!」という一喝がいずれ皆様を襲うことになる。
ま、関ヶ原の合戦の時の「小早川家」への脅し、つっつきに似たような場面と思えば納得がいくというもの。



皆様が最後の頼みの綱と申し上げて、今日まで何度も同じことを繰り返し綴ってきた訳や意味を、ここで再度確認させていただきます。
時々私も古いページをめくるように、過去に書いた文章を読み返しております。
中には明らかに、私が書いたものではないといったものがあります。
ああ、書かされたか~、とね。
私の想い(心)を使って、そのごとき文章にしたて、あの世から送ってきた「嘆願書」のようなものは、今思えば動かない地上人への「苛立(いらだ)ち」だったかと思ったりして、ただただ申し訳なく思う今日このごろでございます。

人の想いというよりも、私個人の我の想いが先に立つ日々を暮らしている現在。
「血統が違うわい!!」・・・、と開き直る事多き私めでございますが、この罪深さ、業の深さこそ我が心を通して現れる先祖であり、修行者たちであり霊界人の抜け出せない「囚われの身」となっている「今の現状からの訴え」であろうかと思う次第。
許せない事は、やはり許せない!。
愛せないことは、やはり愛せない!。(これが私の正体である)
しかし・・・、主よ、あなたは「怨讐を愛せ!」とまで言われる。

地上の修行で足りるとは思ってはいません。
しかし、あの世での修行はもっともっと辛く、さらにはかどらないと聞く。
なぜ?・・・。
肉体あってこその霊の成長である、という鉄則があることを思えば、歳こそ重ねても肉体あるうちに身に付けた「心」こそ「使命者」としての「戦利品」であるかと・・・。
人に見る「魔」よりも、それに反応する己の魔をこそ克服せよ!・・・、とどこかで言葉がこだまする。
そうだ・・・。(いつも言われているあの言葉)

♪ 人に勝つより 自分に勝てと
  言われた言葉が胸にしむ~      



「姿 三四郎」の唄の歌詞を、皆さまにお贈りしながら、今日もまた深く反省する「私め」であります。
(職場にばら撒いた私の「目に見えない地雷」なるものは、反省するとともに撤去いたしました事を、 謹んでご報告させていただきます)

そうそう、若い職員が私に聞きました。
「いつも元気でがんばってますねぇ。いつまで続きますか?」と。
いろんな意味を含んでの問いかけだったのでしょうが、すかさず私の口から出た答えは・・・。
『あと、半年位ですかねぇ~』・・・と。

言った私が驚いています。
えっ、あと半年なの~。(私が答えたんじゃないとしたら・・おお、怖!)
皆様、どうぞお付き合いくださいませ~。