霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「イエス」の絵

2012年12月01日 | 心霊現象
今、世界のいたるところで現存している「キリスト・イエス」の絵は何枚くらいあるのだろうか?
最近では「とある田舎の教会」にある「その絵」を修復したのち、前の絵と似ても似つかぬ絵になったことが、結果として人を呼び込む事になり、世界に物議をかもし出した話は、有名である。
その教会への観光客が、前にも増して混雑していると聞いて、何のいたずらかと耳を疑っている次第です。
しかしどうも現代の人には、趣味の違いが出てきたらしく、その好みが変わってきたらしい。

私はよくTV番組で、「美術館めぐり」を見る。
世界の有名、無名の美術館を自宅に居ながらにして「そぞろ歩き」出来るのだから便利といえる。
が、臨場感はゼロである。それさえ覚悟すれば、こんないい暇つぶし(失礼)はないと知る。
そこで言っていることは、最近は「イエス」の絵が生々しい絵から、美しいキリストを描くように
変わってきているらしい。
傷つき、痛めつけられたキリストから、美しいキリストへと変わってきているその中で、スペインの
ポルトガリの地にある「上空に浮かぶ十字架上のキリスト」の絵がある、という。
それは横120センチ、縦210センチの絵で、十字架に架けられたイエスを、その上から見下ろす
視点で描かれていた。
解説によれば、十字架上のイエスを神が見おろし、そのイエスは地上の人つまり地球を見下ろしている、という構図になるというものだ。
スペインの画家「ダリ」によって描かれたこの絵は、今も長蛇の列が続くという。

「ダリ」がこの構図を考えたというよりも、ダリが見た「ヨハネの十字架を上から見下ろす絵」が先に描かれ、それを見て絵画にした経緯があるとか。
旧い教会の柱(壁?)に書き残されていた「落書き」のようなものが、ダリによってこの世に蘇ったということになる。(落書きを描いたのは、ヨハネという当時の聖職者らしいが)
さらに、ダリが視線を上空にまで引き上げるきっかけを作ったのが、あの「広島」「長崎」に落とされた人類史始まっていらいの「原爆投下」が原因と聞く。
日本に原爆が落とされたことを見て、衝撃をうけた彼は、その目線を「地球を見下ろす神」に向けた
と、番組では解説する。

宇宙空間をそのまま現すような「この絵」は、まさしく神の目線なのか、それとも人の創造なのかは
分からないが。
今でこそ「それ」を観賞しょうとする人で混雑する「絵」の前の状況であるが、最初は神を冒涜する
「絵」として非難ごうごうだったそうだ。

「キリスト三つの名画の謎」として放映された番組ではあったが、時代とともに移りゆく「キリスト
・イエス」の絵が、こうも人間の嗜好によって左右されていくのかと思うと、あと100年後の「イエスの絵」は、はたしてどんな「絵」が描かれて、この世を席巻するのだろうかと思うと、神の自然淘汰によって残った最後の一枚を見てみたい衝動にかられてくる。
人間の嗜好(趣向といったほうがいいか・・)が、どれだけ神の意に則していたか、それともそうでなかったかを知る目安として、知ってみたいのである。

が、生きてはいまい私であれば、こっそりこの世を覗き見にまいりましょうぞえ。
神もイエスも、人間の趣向で決まるなどという事は、あるまじきものではあるが、人間の芸術性や
自由性から醸(かも)し出されるものに於いては、先走る可能性は大である。
「バチカン」の趣向はいかばかりか?
カトリック、プロテスタントの趣向はまたいかばかりか?
新興宗教といわれる数々のキリスト教においては、その趣向はいかばかりか?
400にも分派をもつ「キリスト教」こそ、日本の原爆投下の出来事をみて、人類の神への「背信のおののき」を身をもって味わい、知るべきであったはずである。


しかしそれを、おそまきながら「ダリ」に学ぶのも、悪くはない。
そして時は今かもしれない・・・。
みなさまもどうぞ、ダリの絵を一度ご覧くださいませ・・・。

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