交通事故多発の現代社会において、たまたま「事故現場」に出くわすなどということはもう稀ではなくなった。
へたすれば、自分が被害者になるかも知れなかった場面が、おうおうにしてある昨今。
「彼」は、事故の現場に運悪く出くわしたそうな。
トラックの下敷きになり、女性が引っ張り出されている真っ最中だった。まだ息がある。
「可哀そうに・・・」、彼は思った。
これから何をしに、どこへ行くつもりだったのだろうか・・・。
また、一緒に歩いていた人もいたかもしれない・・・。
しかし彼女は今、トラックの下でひん死の状態だ・・・、彼はやさしさから「彼女の今」を想像した。同情や憐みの念が湧いた。
と、その瞬間彼女は彼を見た。二人の目は、しっかりと合わさり、そして彼女は目を閉じると動かなくなった。死んだのだ。
彼は、しばらくやるせない想いで歩き、用件を終わらせて夕刻にまた安アパートに帰ってきた。
手を洗い、うがいをして・・・、何か人の気配がしたので部屋を見回した。誰もいない。
気のせいか・・・。ひょいと玄関に目をやると・・・。
女性が立っているのが見えた。玄関のカギは、確かに閉めた。
薄暗いところでは、はっきりとは見えず灯りをつけた。
全身が固まり、寒気に襲われた。「あの彼女」だった。
また再び目が合った。(心では、目をそらせ!と叫んでいた)叫び声さえ出ない。
しばらくして、すーっと彼女は消えた。出て行ったのではない。消えたのだ。
腰を抜かしたまま、彼はしばらく呆然としていた。
「あなたは、これを信じますか?・・・」
彼と同じことを、今私はみなさまに問う。
今の私なら即答する。「信じます」と。
でもその時の私は、「冗談やめてください!」と言った。
怪談話にすぎないと、おどかしの一つだと当然思ったからだ。
昔私は、事故があると必ず友人が迎えに来たものだ。
友人の兄が、田舎の警察官だったこともあったが、死体に興味を示すという「危険な悪趣味」も働いたのかもしれない。
水ぶくれの「水死体」、ばらばらの「轢死体」などなど。せいぜいそのくらいで、殺人はほとんど無かった田舎であれば、今でいう「黄色いテープ」など張り巡らされてなどいない。
小学生・中学生が「人だかり」(大人)を分けて、前に出て「観る」ことは、いとも簡単だった。
しかし、見るものではない。決して見てはいけない。それが職業でさえなければ・・・。
「ほら!」と、友人の兄が手にぶらさげた「もの」を目の前に出した。
「なに、これ?」と聞いた。それほど「それ」は「人の体(てい)」を成してはいなかった。
轢死体の頭部だった。目もない、鼻もない口も分からない。ただ、わずかな髪の毛がまとわりついていた。女の自殺体だった。
目の前に出された「もの」だから、私はしっかりと見てしまった。
血はそれほど飛んでいない。首、手、足、胴がばらばらになり、軌道沿線の家まで飛んだそうだ。
「ドスン!」との音で家の者が出てみると・・・、玄関前に手があった。
一度屋根へ落ち、はずみで庭先から玄関前までころがったか・・・。
事故後のリアルな話は、いやでも耳に入った。
その後一週間、私は不眠症に陥った。眠れない。目を閉じれば、「頭部」が浮かんでは消えた。
手も足も胴も、想像をかきたて、私を狙って上の方から降ってきた。
来る日も来る日も、同じ夢をみてはうなされた。
丁度夏。昔は「蚊帳(かや)」をつった。その蚊帳ごしに「何か」が見えた。
みんなそれは、ばらばらの「人の部位」に見えた。
「一生かけて約束します!。人の死体は決してみませんから!」と子供ながらにも胆に銘じた。
親は事情を知って、あきれてものも言わない。
今だから言える。
霊は、その場にまだいる。そして人の心をみている。そして知るのだ。
どの人が一番自分を、関心をもってみているか。そして憐み、同情の心をよせているか・・・。
そこをよりどころに、今わの際を預けようと思うのは、しごく当然である。
「ついて来た霊」に引導を渡すことが出来ない人は、見ないほうがいい。
霊界の何たるか、また霊の何たるかを知らない人は、「君子危うきに近寄らず」に徹した方がいい。
もし、もし「あなた」の目の前で「こと」が起こったら?・・・。
人命救助が出来る「あなた」ならば、助けてやってください!。
しかし、怖い物みたさであったら、お止めになることをお勧めする。
はてさて、苦い経験をばお話いたしました。
それでも何の因果か、出くわしてしまったら・・・。
手を合わせ、「行くべきところへ、お行きください」と言って、お見送りするのが最低限の所作であり、心くばりでしょう。
ゆめゆめ「観っ放し」ではなりませぬぞえ。
子供がその場にいたら、ご自分のお子でしたら「目隠し」をしてやってくださいませ。
子供がみるものでは、・・・どうみても見せていいものではありませんから。
現代は、見せたくなくても見てしまう「残忍」な事が、あちこちで起こります。
私から言わせれば、早く「あの世」のことを大人も子供も知るべきでしょうねぇ。
教育現場では、「道徳」の時間がまた復活する気配です。
いい機会です、いっしょに「あの世」を教える時間も加えてみたら、いかがでしょうかねぇ~。
へたすれば、自分が被害者になるかも知れなかった場面が、おうおうにしてある昨今。
「彼」は、事故の現場に運悪く出くわしたそうな。
トラックの下敷きになり、女性が引っ張り出されている真っ最中だった。まだ息がある。
「可哀そうに・・・」、彼は思った。
これから何をしに、どこへ行くつもりだったのだろうか・・・。
また、一緒に歩いていた人もいたかもしれない・・・。
しかし彼女は今、トラックの下でひん死の状態だ・・・、彼はやさしさから「彼女の今」を想像した。同情や憐みの念が湧いた。
と、その瞬間彼女は彼を見た。二人の目は、しっかりと合わさり、そして彼女は目を閉じると動かなくなった。死んだのだ。
彼は、しばらくやるせない想いで歩き、用件を終わらせて夕刻にまた安アパートに帰ってきた。
手を洗い、うがいをして・・・、何か人の気配がしたので部屋を見回した。誰もいない。
気のせいか・・・。ひょいと玄関に目をやると・・・。
女性が立っているのが見えた。玄関のカギは、確かに閉めた。
薄暗いところでは、はっきりとは見えず灯りをつけた。
全身が固まり、寒気に襲われた。「あの彼女」だった。
また再び目が合った。(心では、目をそらせ!と叫んでいた)叫び声さえ出ない。
しばらくして、すーっと彼女は消えた。出て行ったのではない。消えたのだ。
腰を抜かしたまま、彼はしばらく呆然としていた。
「あなたは、これを信じますか?・・・」
彼と同じことを、今私はみなさまに問う。
今の私なら即答する。「信じます」と。
でもその時の私は、「冗談やめてください!」と言った。
怪談話にすぎないと、おどかしの一つだと当然思ったからだ。
昔私は、事故があると必ず友人が迎えに来たものだ。
友人の兄が、田舎の警察官だったこともあったが、死体に興味を示すという「危険な悪趣味」も働いたのかもしれない。
水ぶくれの「水死体」、ばらばらの「轢死体」などなど。せいぜいそのくらいで、殺人はほとんど無かった田舎であれば、今でいう「黄色いテープ」など張り巡らされてなどいない。
小学生・中学生が「人だかり」(大人)を分けて、前に出て「観る」ことは、いとも簡単だった。
しかし、見るものではない。決して見てはいけない。それが職業でさえなければ・・・。
「ほら!」と、友人の兄が手にぶらさげた「もの」を目の前に出した。
「なに、これ?」と聞いた。それほど「それ」は「人の体(てい)」を成してはいなかった。
轢死体の頭部だった。目もない、鼻もない口も分からない。ただ、わずかな髪の毛がまとわりついていた。女の自殺体だった。
目の前に出された「もの」だから、私はしっかりと見てしまった。
血はそれほど飛んでいない。首、手、足、胴がばらばらになり、軌道沿線の家まで飛んだそうだ。
「ドスン!」との音で家の者が出てみると・・・、玄関前に手があった。
一度屋根へ落ち、はずみで庭先から玄関前までころがったか・・・。
事故後のリアルな話は、いやでも耳に入った。
その後一週間、私は不眠症に陥った。眠れない。目を閉じれば、「頭部」が浮かんでは消えた。
手も足も胴も、想像をかきたて、私を狙って上の方から降ってきた。
来る日も来る日も、同じ夢をみてはうなされた。
丁度夏。昔は「蚊帳(かや)」をつった。その蚊帳ごしに「何か」が見えた。
みんなそれは、ばらばらの「人の部位」に見えた。
「一生かけて約束します!。人の死体は決してみませんから!」と子供ながらにも胆に銘じた。
親は事情を知って、あきれてものも言わない。
今だから言える。
霊は、その場にまだいる。そして人の心をみている。そして知るのだ。
どの人が一番自分を、関心をもってみているか。そして憐み、同情の心をよせているか・・・。
そこをよりどころに、今わの際を預けようと思うのは、しごく当然である。
「ついて来た霊」に引導を渡すことが出来ない人は、見ないほうがいい。
霊界の何たるか、また霊の何たるかを知らない人は、「君子危うきに近寄らず」に徹した方がいい。
もし、もし「あなた」の目の前で「こと」が起こったら?・・・。
人命救助が出来る「あなた」ならば、助けてやってください!。
しかし、怖い物みたさであったら、お止めになることをお勧めする。
はてさて、苦い経験をばお話いたしました。
それでも何の因果か、出くわしてしまったら・・・。
手を合わせ、「行くべきところへ、お行きください」と言って、お見送りするのが最低限の所作であり、心くばりでしょう。
ゆめゆめ「観っ放し」ではなりませぬぞえ。
子供がその場にいたら、ご自分のお子でしたら「目隠し」をしてやってくださいませ。
子供がみるものでは、・・・どうみても見せていいものではありませんから。
現代は、見せたくなくても見てしまう「残忍」な事が、あちこちで起こります。
私から言わせれば、早く「あの世」のことを大人も子供も知るべきでしょうねぇ。
教育現場では、「道徳」の時間がまた復活する気配です。
いい機会です、いっしょに「あの世」を教える時間も加えてみたら、いかがでしょうかねぇ~。
テキヤ(神農)業界では、正に生き字引であり、また齢86歳でも常に規則正しく、己に厳しく生きているようです。
今こそ貴殿が出版物を残すためにも取材してみてください。
私が、実際に立ち会ったのは両親だけです。どちらも、病死ですが眠るみたいに
穏やかだとはいいがたかったです。本人は、死を覚悟していても、
これから行く場所に不安が募り、残していく人や物にも未練たらたらで、
もう心穏やかではなかったようです。五体満足で死ぬ人たちでさえ、
このような状況ですから、子供さんにはむごいご遺体の横たわる
事故現場などには近づけないことです。
最近は、テレビのニュースでは「即死」という言葉が使われなくなり、「心肺停止」とか、
「現場で死亡が確認された」とかいう表現を使うようになりました。
なんとなく、ご遺体の状況をわからなくしているように思えます。
とりわけ「病院で死亡を確認された」という言葉に、私は反応してしまいます。
どんな状態で、搬送されたのだろうかと思ってしまいます。
両親を送ってまもなく何事にも心がふさぎ、ある霊能者の方に家に来ていただいたところ、
「お母さんとあなたで、病院からかなりの数の霊体を連れ帰っている。」と
告げられました。私には、思い当たる病院がありました。その病院は、すでに40年
以上にわたって地区の救急医療をサポートしています。犯罪がらみの搬送数も多くて、
多くの方がその病院で最期を迎えていました。夜中に病院玄関に銃弾がうちこまれる
ことも何度かあり、外来でのトラブルを私は何度も見かけていました。最近では
アジア系の方の来院も多く民族の交差点となっています。特に故郷に戻れない
中国の方が多く来院されて、廊下で診察を待っていると中国語で怒鳴り散らすような声を
聞くこともあります。故郷を離れ遠く異国のこの病院で、
最期を迎える方も少なくないと思います。病院は、事故現場より怖いところなのでは
ないかと思っています。
事故現場で最期に目が合って霊体を
つれて帰るのも不本意ですが、不特定多数を家に連れ帰るなんて不本意どころか、
抗う力のない私には災難です。
以来、私は、総合病院や救急病院には極力近づかず
何か嫌な雰囲気の祠や信号待ちの交差点などでは、「私ではお世話はできません。なにも
してさしあげられません。お力にはなれません。ですから、私から離れて。」
と、心の中で怒鳴ることにしています。
これは、間違っているのでしょうか。