霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

死者との共闘?

2013年08月24日 | 心霊現象
『戦争も、原爆も、沖縄の基地も、原発事故も。
 犠牲者を強いる構造に抗(あらが)うには、死者と共闘しなければならないと、山形さんは訴え  る。
 
 山形さんはNHKの復興支援ソング「花は咲く」の歌詞に目をとめる。
 ここで歌っているのは死者ではないか。
 だから口ずさむとひとりでに涙があふれてくるのだ。
 「生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として受け止めなければならない」
 仙台で被災した宗教人類学者、山形孝夫さんの言葉だ。近著「黒い海の記憶」の副題は「いま、死 者の語りを聞くこと」 』 、とある。

先般の新聞8月7日、またまた天の声が人に語った内容の一つだ。
私は本日の題目にした、「死者との共闘」という言葉に強く反応した。
そして、その後につけた「?」のマーク、これが私の今日言いたかった内容を表している。
他の人にとっては、多分どうでもいい事なのかもしれない。しかし・・・。
私的に言えば、「共闘」とは・・・、過去あまりにも過激であり残酷であり「世を敵視した輩(やから)の集団が「善」と錯覚して世直しのためだと、共に力を合わせ、闘った社会現象がいまだに強く脳裏に焼き付いている。
赤軍であり、集団暴行であり、北朝鮮に向かう飛行機のハイジャックのことが全て「芋ずる式」に思い出されてくるからだ。
そう、学生運動のまっただ中、左翼であり、共闘であり、破壊そのものであった。
赤城山であり、長野の旅館立てこもりであり、その全てが一つのことを表していた。
その場限りの、手前勝手な論理からくる破壊行為。それ以外の何物でもなかった。
その後、彼らは何もなかったかのように、また全てわすれた記憶喪失者のようにふるまい、跡形もなく失せ、今に至っている。・・・、と私には見えてしまう。
共闘という言葉のアレルギーは、私の脳裏と肌に染みつき、ショックはいまだに癒えていない。
長野県の「あの山荘」の立てこもり事件の一部始終を、私は職場で見続けた。
午后からは、急きょ休みをとった。職場放棄は、さすがに良心がとがめたからだ。
休みをとれば、職場のTVに釘づけでも、まあ許されるとの思いであった。
何が目的だ? そしてそれで人が幸せになるのか・・・?
彼らの行動の一つ一つに「その問い」を投げかけた。その結果、見えてきたものは「自分勝手」の暴挙であり蛮行であるという「証明」しかなかった。
だから、彼らの協力体制は「共闘」である。共に闘い、破壊し殺すことだと、私の心はしっかりとその言葉の意味を捉え、刷り込んだ。

目的が人の為であり、善のためであり、自分よりも他の為、つまりより大義の為、これが真理に立脚していれば、もうなにもいうことはない。これを「協力」といい、「共助」あるいは「協助(きょうじょ)」という。
死者を使うなど、罰当たりなことを重々承知で時々私も言うことがある。
しかし、死者ほど怖いものはない。
目的をいち早く知った彼らは、嬉々としてよってくる。
これはおうおうにして「魔界」からの現象が顕著であり、素早く、人数も多い。
それだけ人間界、つまり下界に反応しょうと待っている霊達の数が多いということでもあり、また言い方を代えれば、「のり移りやすい」ということになる。
よって、「共闘」はいけませんなぁ~。
一致して、良きものを造る、あるいは良きものに代える、あるいは良きものをもたらす・・・、ということ。それが「神」の願いであり、目的にかなっていればもう何もいうことなし、です。

守護霊は、前にもご紹介したとおり、決して「共闘」という表現は使いません。
共に働こう、誠心誠意オマエを守る、決して見捨てない、二人三脚で行こう・・・、といろいろですが、分裂、分断、総括、殺人はどこを探しても出てきません。

だから私は「共闘」という言葉を脚下し、「協力・協助」を取り入れて今後は使わせていただくことにいたします。
「死者との協力体制」、これこそが神が願い、人も願う強力なる目的に向かってのシステム(実現可能な体制)づくりとなるのです。
霊界を知らないとね、力の出具合が微々たるもので終わります。
しかし、目に見えない「あの世」のパワーを取り込むとき、自分でも分からないほどの不思議なことが起こり得ます。それは「力」の強さであり、「現象」の変わり方であり、「人の心の変化」でもあります。人はそれを「奇跡」とよびますが、労無くして「奇跡」は起きません。
『人事を尽くして、天命を知る』という言葉の通りでしょうね。
人事の100%を尽くしたのか・・・?、これを我に問うた時、答えは自ずから与えられると、まあこうなるのでしょうねぇ。
手を組むことは悪いことではありません。その目的によるのです。
徒党を組むといえば、何か後ろめたい、いかがわしい、というより「悪党」の集まりという代名詞が頭に浮かぶほどイメージは悪い。
しかし、「善党」とはいわない。今風にいえばさしあたって「NPO法人」とでも言えばいいんですかねぇ。
『さあ、悪党を組んで共闘しょうぜ!』といったら、何人集まりますかしら?・・・。
『さあ、NPO法人をたちあげて、世のため人のために何かやろうよ。この指とまれ!』といったら、今なら人が集まる時代でしょう。



さあ、私もこれから「死者との協力」による「あの世とこの世のため」のNPO法人をたちあげ、何かやらねばなりますまい。
と、おっと一つだけ決まりがありました。
NPO法人をつくるには、「宗教に関係」する内容はご法度だそうで・・・。「あの世」は宗教になるんでしょうよ、きっとね・・・。
ならばさしあたって、「部屋の整理整頓、ご協力隊」とでもして、あの世へ渡るお手伝いをばいたしましょうかしらねぇ。


『地上の人たちの無知において、あまりにもその度が過ぎます!』と吐き出すように言った「シルバーバーチ」の言葉が、今も私の頭の中でぐるぐる回っています。
早くやらないと~。(誰かさーん、この指、とーまれ!)

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