霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「谷を渡る鶯のように春を告げよ!」

2014年01月16日 | 心霊現象
前に書いたかもしれない。
が、はっきりと思い出せない。
「もう一度」書いてみました。もしダブッてしまったら、お許しを。


まだ、雪が残る春の始まり。
太陽のぬくもりが、それを伝えている。谷を渡る風だけが冷く、汗ばむ肌にはむしろ心地いい。
雪解けのぬかるみを、おぼつかない足取りで、誰かが私の前を歩いて行く。
一人でどこへいくのだろうか・・・。
「あっ、滑ってこけちゃった!。大丈夫ですかぁ」、と走り出しながら、そういう私も足をとられて尻もちをつく。
追いついて手を差し伸べると、あれ!、尼様じゃないの・・・。
なんでこんな村はずれを、尼様一人が行きなさるんだ?。
それも若い尼様がさぁ。
「立てますか?」と心配そうに聞く私に、尼様はにっこり笑って「大丈夫、どうぞ先へいって」と手で合図する。
「では、先へいきます。お気をつけられて・・・」と行こうとする私を手招きし、尼様はこう言った。
それが「これ」。『谷を渡る鶯(うぐいす)のように、春を告げよ!』・・・と。
「えっ、なに、何、なに?・・・」、謎めいた言葉だけが残って・・・。
そして、目の前から全てが消えた。


夢?。夢だったのか・・・。夢だったのだ。
しばらく私は、寝たままの姿勢でじーっとしていた。
今の言葉の意味を、何度も何度も繰り返しながら、考えた。
いったい尼様は、私に何をせよとおっしゃるのか・・・?。
この私に鶯になって飛べということではない。春を告げるために「鳴け」ということでもない。
鶯が春を告げるように、わたしにも「春」を告げよと、言っているのだ。
春、はる、ハルねぇ~。四季の春でもあり、そして人類の春でもある?。それは何だ・・・。
そしてとうとう思い当たったところが、「人類歴史、つまり人類に春がきたことを声高らかに告げよ!」という意味だと読み取った。


人類の春とは、何を言うか・・・。
救いであり、末法の世であり、終末であり、メシア降臨の時だ。
生きた観音がこの世に現れ、真人が現れ、この世の春がくる。
人にとって暗い闇が晴れ、明るい希望の世が来る。これぞまさしく「人類歴史の黎明を告げる春の時」。
その春の到来の前に、何かの兆しを見るはずだ。
それが何か?・・・。
星が動き、鳥が鳴く。雲がわき、風が走る。雷が轟き、稲妻が光る青嵐の時。
何かの訪れが、「時」を告げる。
時は今。太鼓も自ら鳴り出すかもしれない。
しかし、一方ではこうも言われている。
「それは盗人のようにやってくる」とも。
皆が寝静まった夜、音もなく忍び寄る・・・と。それはまるで「盗人」のように・・・。

さあ、どっちにせよ、「私」は夢で、尼様が鶯のように鳴いて告げよ!と、音をたてる方を選んでくれた。抜き足、さし足、忍び足ではなく、ばたばたと音をたて告げよ、ということだ。
羽ばたき、時を告げ、鶏(にわとり)が鳴くように告げればいいのだ。
「朝がきたぁ」と言う代わりに、「人類の春がきたぁ~」と言えばいいのだ。
静かにそーと、というより、「賑やか」が私的には合っている。

そして飛び回って、駆けまわって、一つの教団と教えのままに青春を駆け抜けた。
今静かに顧(かえり)みれば、はるか昔のような気がする。
何がどう変わったのか。人類歴史の黎明の兆しは、見えたのか・・・。
あれだけの若者の活動は、音もなく消え、姿さえ今は現さない。
日本における「それ」、つまり黎明の兆しは、どこへ移行したのだろうか~。


夢は時々不条理である。
一方的に来て、去っていく。
さらに追っかけても、同じ現場、同じ人に会えるわけでもない。
夢は「その時」「その人」に、「それ」を伝えるためにあるようだ。
それを地上人がやらなければ、三度はあるだろうが、その後を気にしたことがない私は、夢の原理がいまだ分からない。
年をとって増々夢見がちになったかといえば、その逆である。
夢を見ても、起きたらもう忘れている。
つまり「夢」が私にとってはもう、「答え」や「示唆」が示される手段としては終わったことになる。

「もう自分で考えて、おやりなさい」という意味にもとれるが、しかしどうなんだろうう。
今でも怖いのが「ショック療法」である。
最初は「命」にかかわった。が、かろうじて生きることから出発を許された。
次は、人生のポイントの切り替えが待っていた。全く違う人生を生きるハメになる、というショックだ。
そして次は何だ?。
今度こそ「違う世界」への招待だったりして、つまり「あの世」・・・。

「もういいかーい」「まーだだよぅ」、は前のこと。
「もう、いいかーい」「もういいよぅ・・・」と、死神に答えて今を生きている私は・・・、

言わなきゃよかった!、と少し慌てている日々でございます。


蛇足を一つ。
「鶯」が鳴き方を覚えていくのを、ご存じですか?。
最初はね、鳴けません。「ほー、ほけっ」ってくらいで、しばらく何度か鳴いてみて「それ」をマスターしたら次へすすみます。
「けきょ」を連発して練習し、それを全部繋ぎ合わせて、「ほー、ほけきょ!」。
鳴けましたぁ。それからは嬉しそうに鳴く事、鳴く事。
「うるさい!」と言いたくなるくらい、鳴き続けます。
ようやく一人前になったのですね。(彼らに、成人ならぬ「成鳥」って日が来るのは鳴けたときなのでしょうかねぇ)
姉が住む「千葉の田舎」にて観察しましたので、確かなことです。
春を告げる「鶯」も、鳴く練習をしながら「時」を待つのも自然というか、神のなせるものでありましょうね。





コメントを投稿