沖縄波乗り(だけじゃない)日記

沖縄波乗り日記。波乗り以外も書きます。

海開き

2004年07月17日 18時17分58秒 | 波乗り
今日は海開きだった。ほんとに一気に海水浴客って来るもんなんですね。けっこうな賑わいだった。波は全くないが左奥の海水浴エリア外で20人以上は浮いていた・・・。

冬ソナの曲がかかってたけど売れてるからってあまりにもそれはちょっと・・・。夏の海だぞ。

ダイナモぶっこわれるといえば

2004年07月16日 16時56分53秒 | クルマ
↓下にも書いてあるゴルフもダイナモがやばかった。ブラシとか発電量とかそういう一般的なとこではなくもっと原始的に、マウントがエンジンの振動で落ちるというダイナミックな壊れ方だった。大体ふつうのダイナモはベルトの張りを調整するためにマウントの片側は固定でもう一方が上下なり左右なりに動くようになっているがその調整側ではなく固定側のボルトがゆるんで落ちてしまうのだ。ベルトが強烈に鳴くのでわかりやすいのだが・・・。

まずは振動を減らそうとエンジンマウントのブッシュを交換したがあまり効果なし。そもそも緩んでしまうダイナモの軸側はエンジンブロックの一部の穴に直接ナットのネジが切られていて振動もダイレクトだしロックナットとかも使えない。でナット穴を通れるようギリギリサイズを落としたボルトに換え、ナット穴を貫通させて外側にナットを二個使ってロックナット方式にしてみた。これはなかなか調子が良くて半年ぐらいは緩まなかった。しかしそれでも安心は出来ないので常にそのボルトナットセットを予備で2セットぐらい車に積んでいた。まあ昔の車はエンジンルームがスカスカだったのでこういうことができた。

当時、冬は菅平にいたのだが大学の試験なんかで何回か東京に帰ることがあってその日も早朝の野辺山近くのテカテカに凍った坂を登っていた。まだ上信越道なんか当然なく、東京から菅平に行くには関越を藤岡で降りて内山峠を越えるか、渋川から万座の下を通るか、はたまた中央道の韮崎あたりから野辺山を通ってはるばる行くかという感じであった。この日はその3つ目のコースで逆に東京に向かっていたのだが登りでいきなり水温が上がりあっという間にラジエタ付近から水蒸気モクモクである。

ラジエタ凍ってたかな?とも思ったがもう2時間ぐらいは走っている。凍結のオーバーヒートにしてはちょっと遅い。ボンネット開けてみるとファンベルトが無い!ェー・・・・・。無いって事は無いのだがつまりベルトが切れていた。なんとこの初代ゴルフのスモールテール・リアワイパーなしという初期型はですね、ファンベルトっつーかダイナモのベルトもエアコンのコンプレッサのベルトもなんもかんも共通、つまり一本で全部をグルグル巡って回しているという恐るべき構造だったんですね。で結局原因はどこなのよといえばやはりダイナモであった・・・。しかもなんと今回は調整側がボルト落ちしていた・・・。一気に張りが緩んで切れたので鳴らなかったのだろう。

とぼとぼと歩いて公衆電話を探しJAFに電話してみると幸いにもすぐ近くに修理工場があった。まだバッテリは生きてたので少し冷やしてから自走していった。いま朝飯食ってんだぞばかやろうみたいな感じで出てきたオヤジはかなりできるタイプで、VW用のベルトなんかもってるはずも無いがV字のプーリーの溝に合う国産車のものを探してきてくれた。但し長さはちょっと長めだ。三菱用のだったかな?でそれだと目いっぱい張っても緩いのでなんとダイナモをはずしその場で旋盤で調節側のステイの脇にもう一個穴を空けちょうどよくベルトが張れるようにしてしまった。なんてステキなオヤジなんだ!と僕はかなり感動した。

「これでダイジョブだけどよぉ、念のため東京まで行ったら純正のベルトに変えろぉ」とステキオヤジは言ってたけど僕はその「これでダイジョブ」を全面的に信頼してずっとそのまま使っていた。もちろん数年後に廃車にするまでダイジョブだった。

79年式 GOLF1

2004年07月15日 22時32分53秒 | クルマ
今まで何台くらいクルマ乗りましたか?

僕はいまんとこ5台。ゴルフは学生の頃、初めて自分で買ったクルマだ。今考えると79年式なんてとんでもなく古いが僕もそんなにワカモノじゃないので当時は7~8年落ちぐらいだったと思う。5ドアで手動でグルグルまわしてスライドさせるサンルーフ付き。もちろん窓も手動。三角窓も当然あった。なぜかアンテナだけは電動でインパネにスイッチがあった。4速のマニュアルでヤナセものだったので右ハンドルだった。

もともとグリーンだったのを買うときにオールペンしてもらい、限りなく黒に近いダークなメタリックブルーにしてもらった。顔はカブリオに付いてる丸目4灯。控えめにオ-バーフェンダーやら一周エアロが付いていて車高も低く、いま考えてもなかなかカッコイイと思う。

オークションを含めいろいろ検索したが流石にもうこの年式のは出てこなかった。よく壊れたが5年ぐらい乗ったと思う。最後はミッションが死んであきらめた。15万キロぐらい乗ったかな?写真が残ってないのが悔やまれるがいろいろ思い出すことのできるいいクルマだった。

空港で待たされるというのは・・・その3(完結編)

2004年07月13日 19時30分04秒 | 
エディーマーフィーの言葉にガックリし、更にちょっとむかついたが彼に責任はない。昨日の朝モーテルを出てからもう20時間ぐらい経っている。ここまでくるともうなんか開き直りというかとにかくバリバリ問題を片付ける態勢になっていた。こんなこともあろうかと(とは全く思ってなかったが)さっき日本に電話したときにホテルの電話番号も聞いてあるぜ!エディに公衆電話を見つけて停まってくれるように頼みホテルに電話した。予約も取ってあってしかも今こっちから電話してるのに「オタクはどこのホテルですかぁ?」と質問するのは実にマヌケな感じだが仕方ない。エディによるとComfort Suitesは街のセンターとpinevilleというところとuniversity地区の3つだというので電話に出たホテルマンもこっちの質問とシチュエーションがおかしいのでなんか怪訝な対応だがとにかく「だからそこはpinevilleか?universityか?」とややキレ気味に聞くと「住所はpinevilleだけど・・」とやはり怪訝そうな答え。

めでたくチェックインしたのが6時ごろ。お迎えが7時だからシャワー浴びて30分寝られる・・・。まあ間に合ってよかった。気になっていたニューヨーク経由の人は一人だったのでうまくシカゴ経由じゃない便に変えてもらえて夜のうちに着いていたそうだ。

こんなパプニング続きはそうそうないが待たされ時間が最長だったのハワイ島からの帰りだ。ビッグアイランドの北西部、結構有名なゴルフ場の中にいっぱいコンドがあるとこで2週間ぐらいボーーーっとしていた。コースの中に泊まるというのはなかなか気持ちのイイもので、朝起きてベランダで飯を食っていると一緒に行った友達とかがビーサンでペタペタと早朝ラウンドしてたりするのが見える。で帰りにオアフで乗り換えるとこまでは順調だったが日本行きの便がなかなか離陸しない。エンジンチェックだとかいってもう30分ぐらい経っている。しかしどうにもダメらしく一旦降ろされる。お昼ご飯チケットみたいなのもらってメシ食ったりゲート近くで新聞読んでゴロゴロしてたりしたのだがやっぱりエンジンだめみたいで夕方に「代わりの機体をご用意します」宣言が。それが明日の昼ごろになるというので当然急ぎの人は他のエアラインも使って空席を手配させるんだけど、当然航空会社としてはオーバーブッキングでお馴染みの「お急ぎでない方は・・・」だ。僕は休みはギリギリ2週間だけど仕事が1日遅れたら誰かが死ぬということもないので「お急ぎでない方」コースだ。一応日本に「どうしようもないので1日遅れます」と嬉しそうな声で電話し、ご用意されたバスでご用意されたかなり良いふうのホテルに行く。ご用意された晩飯はかなりゴーカふうだ。これでなんかアプグレードチケットとかくれたら最高だなぁとか思ってたけどそこまでは出なかった。

まあしかしこういう場合はホテルに行くのはもう夜だし、翌朝すぐにまた空港なのであんまりおもしろくもない。できればサクッと帰りたいもんである。結局のところ空港で待たされていい事はあんまりないのである。

参院選 その後

2004年07月12日 22時24分45秒 | その他
終わって一通りテレビとかみてると一番演説にインパクトがあるのは島田伸助だった。彼が出たらどんな選挙も絶対当選だ。2番目が田中真紀子。もう言ってることがメチャクチャでメチャクチャ面白い。もちろん二人とも立候補者じゃないがこの二人に匹敵する候補者は見つけられなかった。しかし田中真紀子の手の包帯は前回の自身の選挙に続いて気になる。なんか拳側にパッドみたいなのついてないか?誰か殴る気かな?

空港で待たされるというのは・・・その2

2004年07月12日 11時24分20秒 | 
閉鎖になっているのは乗り換えのシカゴだけであり、我々の居るLAXはいたって通常なのでなんだかマヌケーな感じでカウンターで振替便の交渉をしたりしながらもシカゴの除雪再開を待っていたのである。結局夕方近くになって今日中に飛ぶぞーということになり暗くなってきたロスをやっと脱出。

シカゴに着いたのは夜中の12時ごろだった。ロス~シカゴは時差もあるし記憶もちょっと曖昧だが、たぶん5~6時間ぐらいかかったと思う。アメリカというのはとにかくムダにデカイので国内線といえども侮れない。僕の最高記録ではシアトルからマイアミまで8時間ぐらい乗ったことがある・・・。まだおんなじ国ですかぁ?という感じだったがとにかくデカイのでしかたないのである。あ~ぁ、日付が変わっちゃったよ・・とグッタリとしながらシカゴで降りるとなんとシャーロット行きを1機だけ残してあった。やるじゃないかユナイテッド。シャーロッドでは2~3時間(だったはず)だ。うへぇ・・何とか間に合うのか?

しかし深夜(つうかもう早朝に近い感じ)のシャーロットに降り立った我々一行に更なる試練が!取ってあったホテルの名前を誰も知らないのである・・・。実は日本から一緒に来ている取引先のプリント屋さん2名の会社でまとめて予約してもらったのだが(これがまず間違いだった)その2名が二人ともメモとか予約のfaxのコピーとかそういうもんを一切持っていなかったのである。    ェー・・・・・・・。不幸中の幸いというか早朝のシャーロットは日本のビジネスタイムだったのでその2名の会社に電話した。事務のおばちゃんみたいのが出てドタバタしながらも何とかホテルの名前と電話番号をゲット。明け方の空港は通常の発着はないのでタクシーもいない・・・。やっと来た古いカプリスワゴンに乗りエディーマーフィーみたいな黒人の運転手に「Comfort Suitesね」と告げ一安心。やっと着いたー。空港の敷地を出るときにそのエディーマーフィーがさらっと言いやがった。


    「Comfort Suitesて3つあるけどさ、どれよ?」


いま思い出してもあまりのショックなので続く・・・。

空港で待たされるというのは・・・その1

2004年07月10日 22時46分23秒 | 
前にスロ・ヒロ・ムナと八丈に行った時に朝の便が視界不良で飛ばなくなり、夕方まで羽田で待たされたことがあったが空港で待たされるというのはツライもんである。更にもっと前(6~7年ぐらい前かな?)、ロサンゼルスの空港で12時間ぐらい待たされたことがあった。

当時プリント屋だった僕はノースカロライナのシャーロットにあるアメリカのインクメーカーが新しいインクの講義をやるというのでそれを受けに行くところだった。ロスで何日か他の仕事をした後シカゴ経由でシャーロットに行くはずだったがシカゴが大雪で空港閉鎖になってしまった。滑走路の除雪はやっているそうだが空港が再開するのはいつになるかわからんという。シャーロットというのは何のとりえもないようなマイナーなとこなのでロスからの直行便やらアトランタとかそのへんの他空港経由の便もちょうどいいのがない。しかし翌日の朝8時にはインクメーカーに居なくちゃならんしシャーロットのホテルもとってあった。そのインクの講義はアメリカ人はけっこう参加してるらしいが日本人は来た事がないということで向こうはわざわざ僕ら一行のために朝7時にホテルに車でお迎えに来てくれるというのだ。更に悪いことに日本での取引先の人が一人だけニューヨークからくることになっていて同じホテルはとっていたもののその人もシカゴ経由だったので飛行機が飛んでいないはずだ。いまさらもう連絡も取れない・・。

うーむ・・・まいった。日本から一緒に連れてきた全く英語を理解しないオッサン4人はなんか嬉しそうにスターバックスいったりシナボン食ったりしてるのだが運良くシカゴまで行けてもシャーロット行きの便が残っているとは限らない。明日の朝までにシャーロットに着けるのか?

長いので続く・・・と思う。

いま売ってるBRUTUS

2004年07月08日 16時00分02秒 | 波乗り
季節柄と言うことでサーフィン特集。付録で30分ぐらいのDVDついてるので買ってみた。ブルースブラウンがエンドレスサマー撮る前の50年代の映像が多い。ブラウンが日本にきて撮ったその頃の勝浦・鴨川も出てきてその辺は見る価値あり。雑誌自体のほうはまあなんていうかそれなり。いかにもこういう雑誌らしく「年取ってからだけどロング始めようかなぁ最近流行りだし」的ノリの、東京から湘南方面に向かうベクトルが強めの内容となっている。