出井川緑道から離れて坂道を上がる。コーヒーの良い香りが鼻先をかすめる。
「城山熊野神社(志村城跡)」 (東京都板橋区志村2-16-2)
きょうは天気がいいので七五三で詣でる家族連れが多い。和服に馴染めずにむずがる幼児が微笑ましい。
まだ、小学校に上がる前なので四~五歳くらいだったと思うが、その頃この神社下に住んでいたことを思いだした。
田舎から出てきた若い父と母は農家が営んでいたアパートを借りて住んだ。
玄関脇にソテツの木があったのを覚えているが、写真で何度か見ているのでその記憶だろう。
父はタクシーの運転手の職を得たばかりなのでアパートは会社の近くだったと思う。
当時の高島平は広い農地が広がるだけで荒涼とした風景が果てしなく続いていた。
見えるのは送電鉄塔か熊野神社辺りの緑濃い森くらいで東京と田舎の区別もつかない私にとってはどちらも似たようなものだった。
ほろ苦い記憶が微かに残る。
当時の我が家はひどい貧乏所帯で日々食べるコメにも事欠く始末だった。
あとで聞いた話だが、田舎育ちの母親は自分で買いに行くのが恥ずかしく、私に小銭と米穀通帳を持たせて少しばかりのコメを買いに行かせた。
梅雨だったのか?雨が降り続いたある日、いつものようにコメを買いに行った帰り道。
雨でぬかるんだ泥道を転ばないように米の入った紙袋を胸元に強く抱えて歩いた。
濡れた紙袋の底に穴が開いて米が少しずつこぼれているのに気づかず、コメの量が半分以下に減った紙袋を母に手渡しながら泣いてあやまった。
泣きじゃくる私の背中を撫でながら母親は「いいんだよ、ごめんね」と言ったのを今でも覚えている。
秋の旅は感傷的になりがち・・
コロナ過で年内に墓参りに行くことも叶わないので記憶に残る母を思い出して供養する。
きょうは天気がいいので七五三で詣でる家族連れが多い。和服に馴染めずにむずがる幼児が微笑ましい。
まだ、小学校に上がる前なので四~五歳くらいだったと思うが、その頃この神社下に住んでいたことを思いだした。
田舎から出てきた若い父と母は農家が営んでいたアパートを借りて住んだ。
玄関脇にソテツの木があったのを覚えているが、写真で何度か見ているのでその記憶だろう。
父はタクシーの運転手の職を得たばかりなのでアパートは会社の近くだったと思う。
当時の高島平は広い農地が広がるだけで荒涼とした風景が果てしなく続いていた。
見えるのは送電鉄塔か熊野神社辺りの緑濃い森くらいで東京と田舎の区別もつかない私にとってはどちらも似たようなものだった。
ほろ苦い記憶が微かに残る。
当時の我が家はひどい貧乏所帯で日々食べるコメにも事欠く始末だった。
あとで聞いた話だが、田舎育ちの母親は自分で買いに行くのが恥ずかしく、私に小銭と米穀通帳を持たせて少しばかりのコメを買いに行かせた。
梅雨だったのか?雨が降り続いたある日、いつものようにコメを買いに行った帰り道。
雨でぬかるんだ泥道を転ばないように米の入った紙袋を胸元に強く抱えて歩いた。
濡れた紙袋の底に穴が開いて米が少しずつこぼれているのに気づかず、コメの量が半分以下に減った紙袋を母に手渡しながら泣いてあやまった。
泣きじゃくる私の背中を撫でながら母親は「いいんだよ、ごめんね」と言ったのを今でも覚えている。
秋の旅は感傷的になりがち・・
コロナ過で年内に墓参りに行くことも叶わないので記憶に残る母を思い出して供養する。
御成塚通りを進み、延命地蔵堂脇の坂を降る。頭からつんのめりそうになるほどの急坂だ。
坂下から清水坂(旧中山道)を上り返す。
清水坂 説明板