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ただのおじさんの「フルス フルス フルス」    ………フルス(葫芦絲)は中国雲南省生まれのひょうたん笛です………

まろやかな音色のフルスに一目(耳)惚れした「ただのおじ」さんが日本でフルスを普及させようと一念発起。はてさて………。

あなたは通訳です。

2010年11月15日 | 日本語教師



孔府の入り口の門





二人の研修生は曲阜の近くの出身だ。


研修生に日本語を教えて2週間余り、少しずつ軌道に乗ってきた。

孔廟には中国の三大木造建築といわれる建物があり、中国で、もっとも最初に世界遺産に指定されたところでもある。泰安からバスで1時間で着くので、楽に行ける。

今回は初めて研修生を連れて行った。「あなたは○○です」、という表現は知っているので、電子辞書を示しながら「あなたは通訳です。」と言った。もちろん、この時期にはまだ、通訳というわけにはいかないのだけれと、中国人がいるのといないのではずいぶん安心感が違う。これで、あと1か月もすれば、少なくとも先生である私にだったら通訳をきちんと果たせるようになる。まさか、と思われるかもしれないが、今まで、ほとんどの研修生がそうであった。

今日は、リュックの中にフルスを忍ばせていったが、結局は吹かなかった。万里の長城でも敦煌の砂漠でも吹いたが、今日はちょっと恥ずかしくて、吹く勇気が出なかったのだ。帰ってきてから「せっかく行ったのに………」と、後悔している。


教え子 3 (同窓会)

2010年11月04日 | 日本語教師



3年前、聊城で別れた研修生たちの何人に会えるだろうか


教え子の馬君は「先生、夜はどうしていますか。暇でしょう。」という。
私は「暇はないよ。日本にいるときよりは雑用がなく、時間がゆったりしているので、自由に時間が使えていいよ。」と答えた。

そして、フルスの話をした。
フルスで、「竹田の子守唄」を吹いたら、馬君は「それは日本では子守唄ですね。先生に習いましたよ。」といった。
そういえば、「竹田の子守唄」と「里の秋」は聊城での研修以来研修生に教えている。これらの歌が日中共通の歌で、中国人もみんな自分の国の歌だと思っていると知ったのはそのころ、中国の検索サイトで中国の歌として見つけたからだ。

研修生たちはみんなメロディを知っているので、教えるのに時間がかからないのが、一つの理由だったが、いい日本の歌だからというのが本当の理由だ。あのころはフルスは先生が見つからず、まだ、人前で吹ける状態ではなかったので、研修生の前では吹かなかったはずだ。

 実際、私は今、フルスの練習ばかりでなく、インターネットのフルスの記事のチェック、そして、日本のフルス愛好者への連絡などで結構忙しい。また、いつか何かに役に立つだろうと、時間があるときには中国のフルステキストの一部の曲を五線譜になおしたり、説明文を日本語に訳したり、データ化している。

馬君は私が泰安を去るまでにこのあたりにいる研修生たちに連絡して、もう一度会いたいという。同窓会だ。もう、みんな日本語が自由に話せるはずなので、研修生たちのいろいろな体験を聞けるのが楽しみだ。

教え子 2(社長さんに電話)

2010年11月03日 | 日本語教師



部屋のパソコンから社長さんの携帯に電話をかける


教え子の馬君と会った。私の部屋で3時間ぐらい話した。
日本での研修生活は日本語検定には失敗したが、楽しい思い出がいっぱいだったようである。
富士山にも登った、九州横断、四国一周、東北地方にも連れて行ってもらった。
現在運転免許を取るために自動車学校に行っているそうだ。
同じ工場へ行った研修生張君は日本語検定1級を取得したそうだ。実際、3年間の研修期間中に、まじめに勉強すれば2級はとれるが、1級をとれる人はめったにいない。1級と2級の差は雲泥の差なのだ。

会社の話、社長さんの話にも及んだ。中国に帰るときは社長さん夫婦と一緒に来たそうだ。1週間ほど泰安に滞在され、馬君がいろいろ案内したそうだ。「社長さんが帰られてから連絡したか」と聞いたらまだだという。だったらここから電話をしなさいと、部屋から電話をさせた。
パソコンから日本の一般電話や携帯電話に1分3円程度でかけられるスカイプを利用しているので、日本の国内電話よりも安い。 私も、電話を替わって社長さんと話した。社長さんは「ああ、忠野先生。よく話に聞いていましたよ。」と、気さくに話して頂いた。本当にいい雇い主の下へ研修に行くと幸せである。馬君は日本を満喫して帰ってきたようだ。
 


教え子 (あり得ない偶然)

2010年11月02日 | 日本語教師



聊城の研修センターにおける会話の練習

 
聊城(りょうじょう)における面接方式の会話訓練

コンビを組んで教えている中国人日本語教師陳先生から突然「教え子が先生と会いたがっていますよ。」と言われた。
しかし、思い当たる節がない。というのはこの泰安の研修センターで教えた研修生は現在みんな日本に行っているはずだからだ。
ところがそれは泰安から120キロ離れた聊城(りょうじょう)の研修センターで教えた馬君だという。

聊城の研修センターで教えた研修生をどうして泰安の研修センターの陳先生が知っているのか。それは、とてもあり得ないような偶然の結果である。
実は泰安と聊城の研修センターはいずれも国の事業でやっていて聊城で研修を受ける研修生の中には泰安の研修センターで受け付けた者も混じっているのだそうだ。

2ヶ月前のこと、3年間の研修を終えて帰国後の手続きのため、馬君は泰安の研修センターにやってきた。事務所で手続きをしているとき、私とコンビを組んで教える予定の陳先生がそばの電話機で、日本にいる私に電話をかけ始めた。電話の内容を聞いていた馬君が、もしかして、「今、電話をされた忠野先生は聊城で教えておられたあの忠野先生ですか。」と、聞いたのだそうだ。「そうですよ。」と答えたら「それなら私の先生です。」ということになったのだ。

私は、今回泰安におじゃまするために何度か連絡をしたが、そのほとんどはメールですませた。たまたま急用があって陳先生が私に電話をされた時に、教え子の馬君が来ていたというわけだ。なんとまあ、この広い中国でこんな偶然もあるのだなと、驚いたり、感心したり………。まるで、映画のストーリーの設定だ。

馬君の電話番号のメモをいただき、さっそく電話したら懐かしい元気な声が返ってきた。そして、さっそく土曜日に会うことになった。
聊城で研修していた当時、馬君は、初めのうちはなかなか言葉が出ずに苦労していたが、だれよりもよく勉強していて、後半にはぐんと伸びたので、鮮明に記憶がある。土曜日に会うのが楽しみだ。


開講式

2010年10月30日 | 日本語教師

 

丸いモダンな建物は系列の保育園、その左奥の方に日本語研修センター



開講式で緊張する研修生

私は実際はすでに2日間教えたのではあるが、今日が正式な開講式である。
これは別の会社の施設を借りての事業であるから、北京からこの事業の管理者の方が来られて訓辞があった。私はそのあとに挨拶をした。管理者の方の話が「まだ、君たちは研修生候補である。この日本語研修に合格してはじめて日本に研修に行けるので、しっかりがんばってほしい。」と言う厳しい励ましの言葉であったので、私は「日本からはるばる君たちに正しい日本語を教えるためにやってきた。他のほとんどの研修所では日本人が来て教えることはないので、君たちは恵まれている。君たちを助けたい。そして、君たちのため、君たちの家族のため、そして日中友好のために仕事をしたい。」と、挨拶した。フルスとは直接は関係ない話だが………。


泰山登山遠足

-0001年11月30日 | 日本語教師




泰安の研修センターに来る研修生たちはすでに出国の準備をしてきている。
現在担当している研修生は来年の1月16日に出国と決まっている。

もう、日本に来たのと同じような気持ちで研修を受けてほしいからである。
日本での研修はふつう3年だが、それが3年と3カ月になったと思えばよい、ということだ。

センターに来た以上、日本と同じなので、自宅には帰れない。
結婚している者もいる。たとえ奥さんが出産されるような時でも帰ることはない。

ただ、例外もある。王君の場合は、奥さんが出産を控えていたが、胎児が逆子だということが
分かった。それで、母子ともに危険なので、帝王切開をすることになった。
それで、出産の日だけ帰郷が許された。

研修生たちの日本語の勉強は朝8時15分から、4時半まで、びっしり詰まっている。
夜は夜で晩自習の時間があり、その時の課題が与えられる。
携帯電話は預かり(取り上げ)られ、土曜日午後と日曜日だけ返される。

そんな厳しい研修生活だから、研修生たちはあこがれの日本に行って困らないように
他のことに気をとられずに真剣に日本語の勉強をする。

厳しい研修生活の中で、唯一の楽しみがある。
それは泰山登山である。
歴代の皇帝たちがこの山に登り、天の神に皇帝に就任したことを報告し
地の民に世を治めることを宣言する封禅の儀を行った道教のもっとも有名な山である。
泰安の町のすぐ後ろにあるその山に登り、中国での思い出を作ろうというわけである。

山頂で、ある研修生は日本での無事を祈り、ある研修生は家族の安全を祈る。
私はもちろん、山頂で「フルスが日本で普及しますように」と、祈りを込めて
吹くつもりだ。