哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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『許されざる者』

2009-05-30 | 映画
許されざる者 特別版 スペシャル・エディション

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 クリント・イーストウッド主演・監督映画の『許されざる者』を観た。今まで、クリント・イーストウッド関連の映画はあんまりチェックしていなかったのだが、『グラン・トリノ』の盛り上がりなどで無視もできず、とりあえず過去の傑作をと。ただ、これも傑作とされている『ミリオンダラー・ベイビー』は、僕はあまり好きではなかったんだよなあ。ヒロインがあっさりのぼりつめて、あっさり落ち過ぎているところとか。

 で、『許されざる者』なのだが、なかなか趣深い映画だった。西部劇映画も、僕はまったくと言っていいほど観ていないのだが、思ったほどドキューンバキューンもなく、倫理的な葛藤があり、考えさせる映画なのだ。

 主人公のマニーは以前は荒くれ者だったが、若く美しく優しい妻と2人の子供を得、妻を早くに亡くしながらもこじんまりと貧しいながらもまっとうな農場暮らしをしている。そんな彼らとは関係のないところで、男が売春婦を切りつける事件が発生する。保安官のダゲットの裁量でその事件はひとまず落ち着くが、切りつけられた売春婦の仲間たちは恨みに思い、自分達の蓄えから多額の報奨金で賞金首にかける。賞金首の男たちを殺すことを駆け出しのガンマンのボブにもちかけられたマニーは、悩みながらも子供たちの将来を考え、古い仲間のローガンと賞金首を追うことを決める。だが、賞金稼ぎによって街の平安が乱されるのを好まないダゲットは賞金稼ぎたちを傷めつけ、マニーも半死半生の目に合わされる。切りつけられた売春婦たちの助けを得て回復したマニーたちは、ついに賞金首を見つける。だが、ローガンは良心の呵責から殺すことを諦め、故郷に帰ろうとする。一方で、賞金首を二人とも殺すことに成功するマニーとボブだが、ボブは殺人と人を殺せるマニーを恐れ、さらにマニーはローガンがダゲットに捕まり、拷問の末なぶり殺しにされたことを知る。ローガンの復讐のため、ダゲットたち保安官の集う宿に乗り込み、一人で一党を蹴散らすマニー。そして、マニーはダゲットに、お前こそ許されざる者だと告げ、殺す。そして、街に秩序を告げ、マニーは去っていくのだった。

 というわけで、なかなか考えさせる映画だった。タイトルの『許されざる者』原題で”Unforgiven”というからには、何が許され、何が許されないのかが主要なテーマになるのだが、一見秩序を守る保安官であるダゲットが(行き過ぎたところはあるが)マニーに「許されざる者」だと告げられるのはなかなか難しいところではある。逆に言えば、かつて何十人あるいは何百人と(女子供を含め)人を殺したマニーは「許された者」ということである。では、なぜマニーが許されたかと言えば、妻によって改心されたこともそうだが、そもそも妻がマニーのことを認めたのはもともとマニーには見るべきところがあったからだと考えられる。実際に、映画のニュアンスにはマニーが若いころを本当はどう考えて過ごしていたのかはわからないという印象がある。とにかく、客観的には人を一番殺したマニーが一番悪いということになりそうだが、そのマニーが(人を拷問死させた)保安官のダゲットを「許されざる者」ということで、善悪の判断が難しくなっていることなのだ。あるいは、観客に善悪の判断について宙づりにさせた後で、「こいつこそ許されざる者だ」と一刀両断に断じることで、別の種類の倫理、善悪の判断を突き付けているということかもしれない。それとも、マニーは悪者扱いされながらも昔も今も苦しみながら人を殺しているが、ダゲットは正義の名をかり楽しみながら人を傷めつけ、もてあそび、殺したという彼ら自身の倫理感の違いなのかもしれない。
 僕自身は、この映画の内容と『許されざる者』というタイトルについて、とりあえずこういう考えを持ったが、これもまた「一応」という宙づりの答えである。どう考えても、マニーがダゲットを「許されざる者」だと断じるのはパラドキシカルに映らざるをえず、「許された/許されない」という判断自体が宙づりにされることこそ、この映画の真のテーマなのだというのが、私のファイナル・アンサーなのである。だが、そんな一意見にこだわらず、自分で観て考えるに足る映画だと思う。確かに良い映画。

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