阪神間で暮らす

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自衛隊配備を問う! 宮古島の市長選挙

2017-01-22 | いろいろ

より

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第63回

   ヘリパッド建設やオスプレイ強行配備に反対する沖縄本島北部・東村高江の住民たちの闘いを描いた『標的の村』、そして美しい海を埋め立てて巨大な軍港を備えた新基地が造られようとしている辺野古での人々の戦いを描いた『戦場ぬ止み』など、ドキュメンタリー映画を通じて、沖縄の現状を伝えてきた映画監督三上智恵さん。今も現場でカメラを回し続けている三上さんが、本土メディアが伝えない「今、何が沖縄で起こっているのか」をレポートしてくれる連載コラムです。不定期連載でお届けします。

自衛隊配備を問う! 宮古島の市長選挙


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 今週末、日本の南の端っこの小さな島で、とてつもなく大切な選挙があるのだが、その重大さに気付いている人がどれだけこの国にいるのだろうか。沖縄本島からもさらに南に飛行機で40分、およそ5万5千人が住む宮古島だ。今回、この宮古島市長選挙で止められたら、まだこの国を救えるかもしれない、そんな濁流が徐々に私たちを飲み込もうとしている。ここから先、引き返せるポイントは少ない。流されながらも捕まってこの濁流から這い出すための岩は、この先には、もうないかもしれないと私は焦っている。

 2年前、唐突に防衛省が宮古島と石垣島にそれぞれ800人、600人規模の自衛隊ミサイル部隊を配置すると発表してから、二つの島は揺れに揺れてきた。沖縄本島と奄美にも同じ計画はあるのだが、次なる戦争として、にわかに浮かび上がってきた「先島戦争」(先島とは宮古島と石垣島のある地域全体をさす)の話に限定したいので今回は割愛する。とにかく、最西端の島・与那国島に続いて石垣島と宮古島にミサイルが配置されてしまうと、ここから軍事衝突が始まってしまうという話を、これまでも私は何度もこの欄で書いてきた。講演で話し、そしてその映画まで作った。けれども、ごく一部のメディア以外はこの南西諸島を想定している軍事衝突の危機をほとんど報じてくれない。だから今日初めてそんな話を読んだという方は理解できないと思うので、バックナンバーを読んでいただくか(第42回、第46回、第48回、第49回、第51回、第59回など)、3月公開のドキュメンタリー映画『標的の島~風かたか~』を観に来てほしい。

 あえて誤解を恐れずに一言でいえば、この南西諸島を軍事要塞化する計画は、自分の国の安全のつもりがアメリカの対中戦略に巻き込まれ損でしかなく、多大な犠牲を出しかねない方向に突き進んでしまっているということだ。その端緒となるのが地対艦ミサイルの設置である。日本の防衛省は、それを「抑止力」といい、仮に先島を舞台に軍事衝突が起きたとしても地域限定の戦争にとどめる考えだが、それが局地戦で終わる保証はどこにもない。いつの間にか日本が戦争当事国になるだろう。そんな物騒な話は初期消火に当たった方がいいとお考えの方は、ぜひ宮古島市長選挙に注目してほしいのだ。

 立候補しているのは、届け出順に、元県議の奥平(おくひら)一夫さん(67)、現職で3期目を目指すの下地敏彦さん(71)=自民推薦=、医師の下地晃さん(63)=社民、沖縄社会大衆推薦=、前市議の真栄城(まえしろ)徳彦さん(67)の4人だ。下地敏彦現市長は、受け入れの是非を市議会で話し合うことも、市民に問うこともなく、水面下のやり取りで防衛省と受け入れ態勢を整えてきた。自衛隊の容認派でさえもその不透明さに対する不信感が強い。だから保守の真栄城さんも自衛隊容認だが、市政刷新を訴えて立候補した。一方で革新系の下地晃さんは、自衛隊配備問題は国が決めることだとして明確な反対を表明していない。そこで元県議の奥平さんが自衛隊配備反対を前面に出して立候補し、翁長知事の応援を得ている。

 四つ巴の複雑な選挙だが、現市長勝利なら自衛隊配備の決定打になるし、奥平候補が勝てばブレーキがかかるということだ。だがこの問題で安倍政権は、辺野古・高江同様、強硬姿勢をとる。菅官房長官は先週、宮古島市長選挙の結果がどうあれ、自衛隊の配備方針に全く変更はないと言ってのけた。それだけこの選挙の動向を気にしているのであろうが、あきれた発言である。

 配備先の千代田・野原(のばる)という二つの集落が市議会に撤回要請を上げているにもかかわらず、黙殺して受け入れ表明に走った現市長。この市長に対して仮に市民がNOを突き付けたなら、それは宮古島市民が受け入れ表明を認めていないのであるから、民主主義国家ならば重く受け止めるとしか言えないはずだ。記者会見の場で易々と繰り返される民意軽視発言に対し、切り込まないでパシャパシャとキーボードを叩くだけの記者たちの無言が情けない。「市長選挙なんて、頑張ったって国防の方針は変えません。無駄ですよ」と反対する住民にいって無力感を与えようとする権力側のアンフェアな姿勢をなぜ追及できないのだろう。辺野古の埋め立てを急転直下認めてしまった前沖縄県知事しかり。沖縄県民の意見など聞いていたらなにもできない。知事や市長というトップだけをなんとか丸め込めばいいのだと高をくくったような現政府の態度。それは民主主義の全否定であり、国民主権を揺るがすものだ。

 でも、中央の記者たちがそれに麻痺していたとしても、宮古島の意気は軒昂である。

 新作映画『標的の島~風かたか~』は辺野古と高江の続報が半分で、あと半分は宮古島と石垣島の話なのだが、その宮古編の主人公は「てぃだぬふぁ 島の子の平和なみらいをつくる会」のお母さんたちだ。彼女たちは小さな子を抱えながら必死に自衛隊配備反対を訴えて活動をしてきたのだが、市長選挙の混迷を見るに見かねて、落選覚悟で市長選に打って出ようかという猛者の発言も飛び出したほど、この市長選挙を重視していた。しかし自衛隊断固反対の候補が出たため、これを歓迎。それならば、自衛隊反対の議員が圧倒的に少ない市議会から新しい市長を支えるべく、同日行われる補欠選挙への立候補を決めたのだった。

 候補になったのは「てぃだぬふぁ」共同代表の一人、石嶺香織さん。3人の乳幼児を抱えての出馬である。しかも、本人も周囲も選挙はズブの素人。街宣カーも告示日には間に合わず、ウグイスも候補者本人。運動員も少ないものの、みんなまっすぐな気持ちだけで参加しているので独特の熱気のある選挙戦を展開していた。彼女たちの活動を1年余り追いかけていたのだが、なまじ政治的な活動に疎かっただけに逆に怖いもの知らずで、溢れんばかりの正義感と行動力で突き進む。その行動力は清々しいくらいだった。特に香織さんは学級委員キャラでエネルギッシュ。ストレートな表現であちこち壁にぶつかり、たんこぶはできるけれども、そこを撫でながら泣き笑いして、すくっとまた立ち上がるような女の子だ。当然、まだ無名な香織さんだが、自衛隊配備を憂う人々の票を集めてどこまで票を伸ばせるか、今は全く未知数だが、楽しみでもある。

 今回の動画の後半は、神事を収録した。昨日17日、有名なユタ(神事をつかさどる人・霊的職能者)の方を呼んで、自衛隊配備予定地の横でこの土地が軍事的に利用されて争いが持ち込まれないよう土地の神様に祈る行事が行われたのだ。これは、すでに航空自衛隊のレーダー基地を抱えて苦労も多かった野原集落と、隣の千代田集落が主催したもの。自分たちの故郷である宮古島が他人の手によってさらに要塞化され、挙句、防波堤にされるなんてまっぴらだ。しかし彼らの集落が上げた抗議決議が宮古島市長に無視され、また国にも「市民の選択など国防に影響はない」と梯子を外された。ならば神や先祖を味方につけようという発想は、宮古島らしい。

 沖縄本島のユタに当たる職能者を宮古島ではカンカカリャ(神がかり)と呼ぶが、今回招聘された男性のカンカカリャは、私が30年ほど前、宮古島でシャーマニズムの調査をしていた時にしばらく通って勉強をさせていただいた方だった。当時から、珍しい大学出の男性ユタとして有名で、今も彼は引っ張りだこのようだ。その根間忠彦さん自身も、過去には保守系しか応援してこなかったということだが、自衛隊配備については島の未来が危ういと今回ばかりは断固反対で、すでに各地で祈願をしていたそうだ。各地域の神々がまだ大きな影響力を持っている宮古島ならではだが、どこでも大きな事業を始めるにあたっては、まずはその集落の神様が望むものかどうかを聞いてみるのが通例だ。そして根間さんが言うには、神の意思はそこにはない。争いしか見えていないということだった。

 宮古島の住民が、現時点で自衛隊の問題をどこまで理解しているのかはわからない。ガードマンを置くくらいの表層の理解だけで抵抗感のない人もいるだろうし、何より無関心層がまだ多いかもしれない。でも、無関心であっても、宮古島には先祖を敬い目上の人を大事にする文化が根強く息づいているため、おじい、おばあが望まないことはNOだし、神さまが拒否しているという案件は、基本的に進まなくなる。ここでは民主主義によるブレーキも働くが、神さまのブレーキも大きな威力を持つ。

 こんな話は迷信と笑う人がいるかもしれないが、人間の共同体だけでは見誤る判断を補完するシステムとして、畏敬の念を抱く神と、その神秘世界を存在せしめている豊かな自然がある。この、神と自然と共同体が三位一体で有機的に繋がっている場所では、住民の大事なものを奪うようなとんでもない事業は簡単に受け入れられない。民俗学を学んだものとして、豊かな伝統文化が息づいている集落に出会った時に私がいつも感心するのは、必ずそこには神と自然と共同体の調和があるということだった。とても抽象的なことを言っているようだが、私はまだ宮古島に生きる人々のその見えない力を期待し、信じている部分がある。

 人間の判断など、たかが70、80年の産物だ。しかし「神」という超越した存在に抽象化させて人々が先祖から子孫までスライドさせていく普遍的な価値観というものは、そこに生まれただけで過去の知恵から学び、未来に責任を持つ哲学を教えてくれる。時空を超えて必要な時に立ち現れて私たちの判断を助けるシステムとして機能する。

 戦後手にした、いや本当に掌握できていたのかどうかも今となっては怪しい「民主主義」というものは、たかが70年余りでぐらついている。沖縄の島々で、いまなお地域の規範や救済や歓喜をもたらす存在でありつづけている「神」のほうが、よっぽど確かな存在として機能しているのかもしれないと思うのは、民俗学者のたわごとだろうか。


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