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ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

2024-01-12 06:20:12 | 豊臣秀吉

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫) 

日本人の西欧文化受容に重要な役割を演じたフランシスコ・ザビエル。1549年に来日すると、旺盛な行動力で布教に邁進した。その間、スペインのイエズス会や友人宛に手紙を書き送る。いわく、日本人は知識に飢えている。神の存在に興味を示し説教に真剣に聞き入っている。いわく、日本はキリスト教伝道にふさわしい国だ……。書簡から、ザビエルの心情とその目に映った日本人像を読みとる好著。

amazonレビューを紹介します。

2019年2月4日に日本でレビュー済み

日本人ならその名を知らぬ人がいないと思われる、フランシスコ・ザビエル。そのザビエルが日本に滞在したのは、1549年8月から1551年12月までの僅か2年半足らずだったことにまず驚かされた。その間、鹿児島、平戸、山口で布教活動をした他、数か月をかけてミヤコ(京都)にまで足を運んだという。日本の政治権力に布教を公認させ、一気に信者を増やそうという計画だったのだろうか(その後の宣教師たちが織田信長に取り入ろうとしたように)。結局、ミヤコでは得るものは無かったのだが、ザビエルが一か所に腰を落ち着けず、精力的に活動していたことを窺い知ることができた。野心溢れる彼は、日本を離れ、次のターゲットである中国へ向かう。戦乱の日本に比べて、平和で、広大で、人が多く、豊かで、知的レベルの高い中国での布教を夢見たのである。だが、離日翌年の1552年12月、ザビエルはその中国で没する。彼がキリスト教を伝えた最後の国は、日本だったのである。

本書は、ザビエルが遺した数多の書簡の中から、日本に関連した部分を抜粋して構成されている。それによると、「ザビエルの見た日本」は、戦国時代の真只中にあった。ザビエル来日の年は、桶狭間の合戦(1560年)の10年前であり、天下統一には更に半世紀を要する。ザビエル自身、ミヤコへの道中で見た戦乱や泥棒の横行、そして荒廃したミヤコの様子などを手紙に書いている。また、彼が離日する1551年には、最初の庇護者である西国一の大名、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれる事件に遭遇している。下剋上の世界だ。さぞかし殺伐とした時代だった筈だが、ザビエルの伝える日本の庶民の特長は、盗みを嫌う、理性的、好奇心が強い、名誉と武勇を尊ぶ、親切、といったものである。。戦国の世にあっても、日本人が優れて道徳的であったことは、意外に、そして誇らしく感じられた。もしかすると、当時の日本人の方が人間として質が高かったのではないか。著者のミルウォード氏が指摘するように、清貧を旨とする健康的な生活や、我慢強さといった、ザビエルが伝える当時の日本人の美徳を、自分も含め平成の日本人の多くが既に失ってしまったようにも思えるからである。

ザビエルの離日後にキリスト教の信者は急速に増え、調べてみると、切支丹大名として有名な高山右近が洗礼を受けたのは1563年、10歳の時だったという。そのほか、大友宗麟、有馬晴信、黒田如水、小西行長などの著名な切支丹大名が現れるが、ザビエルのキリスト教伝道から彼らの入信まで四半世紀とかからなかったことは驚きに値する。因みに、豊臣秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を出したのはザビエル来日から僅か38年後の1587年である。それほど急速にキリスト教が広まった、ということを示しているが、どうしてそれが可能だったのか。ザビエルの手紙から思い当ったのは、以下の理由である。

第一に、ザビエルをはじめとする宣教師たちが艱難辛苦に耐えつつ(ザビエルは日本には美味しい食べ物がなく、冬が寒いことを盛んにこぼしている)、日本の民衆に施した善行があげられるだろう。ザビエルによれば、日本人は言葉より行動を見て人を判断する。そして、日本人を変えるには親切と愛以外にはないとも言っている。ましてや、時は戦乱の世である。偉そうに振舞う僧侶(ザビエルがそう書いている)に対して、貧しき者、弱き者を助けるキリスト教に共感する人々が増えるのは首肯できよう。

第二には、宣教師たちがもつ、科学を含めた先進的知識や思想があるだろう。ザビエルらは、地球が丸いこと、太陽や星の運行の原理、稲妻や雨が降る仕組みなどを日本人に教え、それによって大いに尊敬されたという。日本人にはそうした知識は無かったのである。当時の日本人からみれば、キリストの教えも科学的な知識も同一・不可分であったろう。そして、自分たちの無知を恥じ、ザビエルらが説く西欧の煌びやかな知恵を、貪るように受容したであろうことは想像に難くない。後年、幕末や大東亜戦争敗戦後の日本人が、欧米の先進的な知識や技術を、服装や料理などの習俗も含めて争って移入することになるが、それと同様の反応をした人が多かったのものと想像されるのである。

第三は、「利」である。ザビエルは良質の金銀を算出する日本との貿易を増やすことがポルトガル王の利益になるだろうことを、マラッカの司令官らに手紙で書き送っている。同様に、大内義隆や大友宗麟など有力大名に引見される際には、ポルトガルやその支配地(インド、マラッカなど)との貿易を薦めている。大名たち(織田信長もそうだろう)には、宣教師が布教許可と引換にとりもつ南蛮貿易と、そこからもたらされる利益と珍しい文物は、非常に魅力的だったものと考えられるのである。

現在、キリスト教は禁止されていないにも拘わらす信者数が急増しないのは、上記の2番目や3番目の「ご利益」が無いためかも知れない。山本七平氏によると、日本人が宗教に求めるものは、死後の極楽往生もさることながら、何と言っても「厄除け」「商売繁盛」「大願成就」などの「現世ご利益」だそうである。ザビエルの手紙を見る限り、仏僧を論破することに夢中になっていたザビエルに、この大事なことを教えた日本人はいなかったようである。

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