文化調査船「ガラクタ号」 プログ版

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3月10日(日)のつぶやき

2013年03月11日 03時59分16秒 | 個人的な感想とか意見

いわゆる少子化問題対策としてではなく、生物種としての基本である「子を産み育てること」が蔑ろにされているという気持ちでつぶやいてみました。


「優れた指導者が他の人を導くのは当然だ」と教育されていると、自分が指導的立場になることを目指すか面倒なコトは他人任せにしようという心になるのだろう。そして「優れた人」を求める心を作り上げてしまう。意識しないうちに優生思想に染まるのではないか。


「全員が当事者として参加し考え協力するのが当然だ」と教育されていると、参加しても協力しない人を協力させようとするか切り捨てようとする心になるのだろう。そして「参加協力する人だけでやろう」という心を作り上げてしまう。意識しないうちにムラを作るのではないか。


「優れた指導者が他の人を導くのは当然だ」「全員が当事者として参加し考え協力するのが当然だ」を疑うことは簡単ではない。疑うこと自体が咎められるような雰囲気もある。これは何故なのだろう。


確かに疑うことは精神的には辛い。心の平安を崩すことになる。不幸であると言える。疑うことが不幸の元になることを知っているから、疑うことを悪とする発想も出てくる。神の言葉だから、指導者の言葉だから、権威者・専門家・識者の言葉だからと。疑う能力も奪いたくなるなるのだろう。平穏のために。


疑うことで心の平安を乱すことも恐れない、不幸になることを恐れない、悪と罵られることを恐れない、平穏な日常を失うことを恐れない。このような心境を誰もが持てるものではないだろう。だから疑うことは避けられる。疑う行為も疑われる行為も忌避されたり咎められるのだろうか。難しい。


幸福を望むというのはある意味、小説「1984年」のような世界を望んで居るのだろうか。


二年前に起きた大災害・大事故への関心を取り戻す為の番組が多くなっています。関心を持たない人にはどう映っているのだろうという思いもあります。敢えて見ない人も居るだろうと思います。


災害前の生活や共同体の繋がり、農業や漁業や観光業などを復活させて行きたい人は、原状回復をイメージしているだろう。一方新生活を考えている人は、再開発で新産業育成や不動産価値を高めることをイメージしているだろう。そのどちらも考えていない人も居るだろう。


自分とは違う人がいることを認識できない人もいる。認識しても、自分は正しく他が間違っているというように考える人もいる。どう考えたら良いのかと混乱している人もいる。どうでもいいと切り捨てる人もいる。


自分を受け止めることすら困難だと感じる今の私には、他人がどう考えているかなんてどうでも良いと切り捨てたいのだが、それが簡単にできない。悩んでしまい疑ってしまう。わかっているがやめられない。


文化人類学者の山口昌男氏が死去 「中心と周縁」理論  :日本経済新聞 - nikkei.com/article/DGXNAS… 一時期よく著作を読みました。