文化調査船「ガラクタ号」 プログ版

ツイッター連携・まとめ投稿機能が終了してしまったので、体調と気分次第で転載するしか・・・とほほ

10月27日(日)のつぶやき

2013年10月28日 04時17分40秒 | 個人的な感想とか意見

あいちトリエンナーレ2013最終日、岡崎康生会場を回って来ました。「展示会場、展示物、展示の配置、雰囲気」という準備されたものだけでは十分ではなく、「会場にいる観客の動き、会話、雰囲気」が合わさって「アート体験」になる、つまり「観客も作品の一部」を前回よりも更に実感しました。

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今回はフラッシュ撮影でなければ写真撮影可能(動画は不可)な展示会場、展示作品が多数だったので、展覧途中からはどんどん撮影していきました。いわゆる展示された作品を撮影するのではなく、観客やスタッフを含めたスナップ撮影を多くしました。ネットには上げませんよ。


以前に比べて記憶力が落ちているので追体験をするためのヒントになればと思って撮影したモノなので、公式カタログを読むときに参照出来るようにしておくつもりです。名古屋市美術館と愛知県美術館ではほとんど撮影しませんでしたが、その分記憶に強く残るように行動してきました。


今回のあいちトリエンナーレ2013には多くの観客が訪れたようですが、日頃このようなアートイベントに足を運ぶことのなかった人が何か面白いと感じた展示作品やパフォーマンスを見つけたなら大成功だと思います。


26日深夜に放送されたNHKEテレ、"新世代が解く!ニッポンのジレンマ「いま芸術は…?クリエイター原論2013」" nhk.or.jp/jirenma/201310… を見ていました。「教養としての近代までの芸術」から抜け出せない人に見て欲しかったですね。


アートに対して、心地よさ・安らぎ・癒やし・浄化・休息などを求める人もいるし、元気・情熱・勇気・興奮を求める人もいる。逆に心地悪さ・不安・罪悪感・共犯感・絶望といったものを求める人もいる。思考の自然な流れの誘導や合理性を追求も含まれるが、それに反抗した"衝撃"を求める心も満たす。


私はこの頃、人が心に望んだモノ・頭に浮かんだモノを実現したいという欲求から生まれた全てがアートだと思う。更に何か工夫をして頭の外で再現できたものが全てアートだと思う。それが偶々実用的なものなら工業的な技術として強調されるし、感覚に訴えかける要素に重きを置けば芸術として強調される。


その意味で、科学者や技術者が色々工夫した生み出したものもアートだと思う。数学者の生み出した数式や証明や概念ですらアートだと思うし、iPS細胞を生み出すシステムもアートだと思う。スポーツのスーパープレイもアートだし、街のゴミを拾うこともアート。


何かの行為をアートだからと規制反対をする人もいるが、あるアートがどう扱われるのかは人に寄るし社会による。全てが許されると思わない。社会的に規制をしようという運動は歴史的に数え切れない。それでもアートが全滅してしまうことはない。人が人である限り何度でも繰り返し起こる現象だとと思う。



10月26日(土)のつぶやき

2013年10月27日 04時20分01秒 | 個人的な感想とか意見

テレビでも速報来た。最大震度4か。


平成25年10月26日2時17分 気象庁発表 きょう26日02時10分ころ地震。震源地は福島県沖(北緯37.2度、東経144.6度、牡鹿半島の東南東290km付近)震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は6.8と推定 jma.go.jp/jp/quake/20131…


気がつかないうちに「Chrome のお知らせ」というメニューが生えていた。何だろう。


地震の後、津波注意報の情報を見ているうちに朝生まで見てしまった。眠いけれど寝られない。


あいちトリエンナーレ名古屋栄会場に来ています。先日買えなかった公式カタログも購入できました。休憩後ベロタクシーに乗って、長者町へ向う予定です。その後、納屋橋会場を見て帰るつもりです。会期終了日の明日は、もう一度岡崎康生会場を回れたらと考えています。体調が持てばですが。


先ほど愛知県美術館ではウエディングドレスの女性とスタッフらしき人たちが、披露宴の打ち合わせをしつつエレベーターに乗って行きました。多分トリエンナーレ会場内展示物である教会を使って式を挙げたのでしょう。良い企画だと思います。


ツイート通りあいちトリエンナーレ長者町会場と納屋橋会場を回ってきました。長者町から納屋橋までの歩きで疲れてしまい、靴の締め付けを何度も調節しながらの移動となりました。長者町に多くあった日常と同居するアートと、納屋橋会場の非日常体験・思考を提供するアートは対比的で面白かったです。



10月25日(金)のつぶやき

2013年10月26日 04時13分21秒 | 個人的な感想とか意見

中身(なかみ)の反対を「外身(そとみ)」と表現する人が結構いる。どうも違和感が強い。とは言え適切な反対語が思いつかない。外皮、外側、外殻、外縁、包装などと使い分けすることになるのだろう。もしかしたら「外身」が一般化するようになるのだろうか。日本語は面白い。


OS X 10.9 Marvericksの不具合報告が色々出ているようだ。自分のiMac 2007 midはデュアルディスプレイの新仕様は上手く作動している。今解決できていない問題はMail.app の動作が期待通りにならないこと。IMAPとスマートメールボックスは支障あり。


iWork'09(Numbers, Pages, Keynote)のパッケージ版を利用している。AppStoreでの無料アップデートを可能にするには、OSの言語モードを英語にする必要があると聞いて試してみた。確かにダウンロードできた。しかしアップデートする価値があるかどうかは別。


iWorkの3つの新バージョンのAppStoreでの評判はすこぶる悪い。試しにダウンロードしたKeynote3.0を立ち上げてみた。基本メニュー以外がすっかり無くなっている。隠されたのかと思って探してみたが、ごっそり機能を削除してしまったようだ。資産がある人から苦情が出るはずだ。


どうやらNumbersとPagesも似たような感じで、かなり機能を削ってしまったようだ。それに旧バージョンで作製したデータを開けると、勝手に改変してしまいデータの一部を消してしまうようだ。「新規購入者向け無料」の代わりに機能制限をして、有料アプリ販売者に配慮したのか?


ということで、もしiWork'09のパッケージ版を利用している人がバージョンアップを考えているのなら、慌てずに様子を見た方が良いと思います。



10月23日(水)のつぶやき

2013年10月24日 04時14分36秒 | 個人的な感想とか意見

10月22日(火)のつぶやき

2013年10月23日 04時12分42秒 | 個人的な感想とか意見

新燃岳、火山の状況に関する解説情報 第52号 平成25年10月22日18時00分 福岡管区気象台・鹿児島地方気象台 seisvol.kishou.go.jp/tokyo/STOCK/vo… "噴火警戒レベルを3(入山規制)から2(火口周辺規制)に引き下げ"

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平成25年10月22日 気象庁 発表 第127回火山噴火予知連絡会 霧島山(新燃岳)の火山活動に関する検討結果 jma.go.jp/jma/press/1310…


新燃岳についての今回の発表は、現在把握している限りの観測されている現象や数値などから、避難の準備する間もなく大きな噴火が起きる可能性はかなり低いであろうという予測をして、警戒レベルを下げたということだと思う。警戒しなくても良いという意味ではない。上手く伝わっているだろうか。


気象庁が色々な注意報や警報や特別警報を発表したから警戒するという態度は、どうも自分の感覚とは違う。自分の警戒レベルを上げる切っ掛けの一つではあるが。これからも気象庁の予報が外れても損害賠償責任を問える存在にしたくない。何らかの権限と責任は、選挙で選ばれた者にこそあるべきだと思う。

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10月20日(日)のつぶやき

2013年10月21日 04時14分15秒 | 個人的な感想とか意見

2月末に防災科学技術研究所 強震モニタ提供の実験が終了してから数ヶ月。現在、新強震モニタが試験運用中だ。防災地震Webで表示される強震モニタの機能強化版。今ちょうど福島沖の地震に反応した。


このような画像が表示できる。防災地震Webでは更新間隔が2秒に対して、新強震モニタは1秒である。警告音や最大震度予測などの情報表示がされる。 twitpic.com/dhz7yi


Google Chromeの緊急地震速報Extentionと併用しているが、音声は新強震モニタの方が優先するようだ。


震源が陸地から離れた海であるときは、このタイプの地図では震源がわかりにくいという問題は残る。もう少し広く、気象庁のTOPに表示される気象レーダー降水強度分布観測マップほどの範囲の表示がされるものが用意されると、津波を警戒しなくてはならない震源が沖合の場合も確認しやすいと思う。



10月19日(土)のつぶやき

2013年10月20日 04時11分57秒 | 個人的な感想とか意見

この頃、「単なる愚痴」を「希望・要望」とか「指示・命令」だと受け止め右往左往して疲弊している気がする。それは家庭内でも災害被害者もクレーム対応者も医者も役人・省庁も。それに対応して行動をしても発言者は満足することはなく、対応した人は寧ろ反感を買うことになっている気がする。


自分が何をやっても上手く行かないイライラを「愚痴」の形で表現するだけでなく、「周囲に当たり散らす」「他人へ転嫁する」という行動にしてしまう場合もあろう。更に暴力行為にまでエスカレートしていく人も居よう。やはりこれにどのような対処しても収まることはないようだ。難しい。


クレーム対応の常套手段である「(対処の)引き延ばしをする」「(時間経過による)沈静化をまつ」というのは、相手の感情的な一時的な過剰反応に対してはある程度有効だと思う。しかし反復継続している不安感によって行動しているなら、そのような手段は逆効果になるだろう。


愚痴に隠れている「何か」、イライラの真の原因が見えれば対処が出来る事もある。しかしそれが内面・性格・精神的な履歴に寄るものだと、本人の認知と能動的な解決意欲なしに動くことは危険に思う。


その環境から逃げ出して解決できる場合もあるが、できない場合もある。外から見ていると簡単にできそうなアイデアが上手く行かないのは、対象になる人が居るのは「一つの・単純で・分解可能な・環境」ではないからだろう。部分に対処し解決すれば全体も解決できるというものではない。


私自身がこの「面と向かって浴びせられる愚痴」に右往左往してしまう人間だ。パニックに陥ってしまう。共感して欲しいだけという会話には参加できない性格。これも他人と距離を置きたくなる理由の一つだ。何を言っても反感を買ってしまう。


自分のしているこのツイートも「愚痴」なのだろう。だから自分が変わらないとどうしようもない気がする。


「部分に対処すれば全体の課題が解決できる」というタイプの問題なら、論理によって対処できそうな気がするけれど。そういう世界に逃げ込みたいとしている自分と、そうではない課題の世界に残りたいという自分は、矛盾した存在ではないと思う。



10月18日(金)のつぶやき

2013年10月19日 04時13分39秒 | 個人的な感想とか意見

この後見てみたいのは名古屋の長者町エリアと納屋橋エリア。近隣の豊田市美術館の特別連携事業展覧会「反重力」。岡崎会場ももう一周回ってみたい。ガイドブックやカタログを利用して補完したい情報も在るが、やはり展示作品そのものと向き合わなくては。まだ10日残ってるので挑戦したい。



10月17日(木)のつぶやき

2013年10月18日 04時55分05秒 | 個人的な感想とか意見

久し振りにツイートができる精神状態になって来た。ちょっと嬉しい。


先日13日の日曜日に、あいちトリエンナーレ名古屋会場のうち白川公園エリアと栄エリアを回って来られた。岡崎康生会場とは違うタイプの強い印象を与える作品が面白かった。今日17日は並行企画である岡崎美術博物館の企画展に母を連れて行ってきた。母は事前の予想以上に楽しんでいたようだ。


また機会があったら作品について感想を書きたい。



10月12日(土)のつぶやき

2013年10月13日 04時49分21秒 | 個人的な感想とか意見

Twitterのタイムラインをリアルタイムで追うことがなくなって久しい。興味がなくなった訳でもネットから離れている訳でもなく、長時間パソコン画面を見ながら椅子にに向かって居られないだけ。横になっている時間が長く、タイムラインを眺めるのも、明け方2時間くらいに集中している。


明け方2時間で一日分のタイムラインをまとめて読んで時々返信しているだけっていう状態は、一週間録画しておいたニュース番組を日曜日にまとめて見るような感覚だ。

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この頃はタイムラインと関係なく一方的につぶやくことが多い。ホントに自己満足行為になっている。自分が一般社会常識に欠け、他人の気持ちがわからない上に、良識とされるものに懐疑的で反感を買いやすいことも自覚している。それでも自分が迷っていることを言いたくてしょうがない。


ついでに下らない独り言。私は英語が苦手なのだが、英語だけが苦手なのではない。日本語も苦手だ。正確に表現すると、一般的な語学学習課程に付いていけない。聞いたままの発話を真似することや文を暗記することができない。聞いて意味を理解したり文を読むことはできるのだが。


これは語学学習だけに支障が出るのではない。音楽も同じ。耳で聞いて歌を覚えることができない。歌詞も暗記できない。声に出して身体に叩き込むのに人の何倍も時間が掛かる。こういうのも一種の学習障害だと思う。映画やドラマのセリフも、視覚化されていないモノは頭に残らない。


私のようなタイプの学習障害の持ち主が高度な教育を受ける機会はどうなっていくのだろうか。正規の大学教育を受ける機会は減るのだろうか。大学院なら更に厳しくなるのだろう。教育こそが社会を大きく変える力だと思うのだが、「○○には教育の機会など必要ない」支持者が増加しているような気がする。



10月6日(日)のつぶやき

2013年10月07日 04時26分26秒 | 個人的な感想とか意見

三善晃さん死去 作曲家 文化功労者 80歳 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/entertainments…


先週録り溜めたドキュメンタリー番組や経済情報番組を流し見している。現状の問題点を指摘して改革改善のヒントを探そうとする傾向のプログラムを選んでいる。現状で利益を享受している側からすれば改悪になることや、善悪関係なく改革による変化を嫌う層に対しての扱いがぞんざいな気がする。


一般的に「無駄を無くす」とか「経費削減」という標語的な理念が先行しがちである。しかし無駄のように見えるものに高い緩衝効果があったり、別の効果を生んでいるモノがある。削減前の経費で維持されていた産業もある。単純に番組の趣旨に賛同できない理由だ。


私も理念的には「先人が多くの失敗や犠牲を重ねて得られた知識を活用していないこと」はとても大きな損失で有り無駄だと思うが、だからと言ってそれを学ぶ前に現実問題に対処しなくてはならない。


私は問題を多角的な視点から捉えていく態度を強化する材料として、これらのドキュメンタリーや経済情報番組を参考にしている。だからと言って特有の固定した思考の枠組み(に従っているように振る舞うのも含む)を否定する気はない。正直言ってそちらの方が人生の満足感が高く見えるからだ。


もし、多角的な視点を持つことや様々な価値観を許容することで人々が幸福になれるのなら、今より多くの人がそうなりたいと思うのではないだろうか。自分が使っている(浸かっている?)特定の価値観への信奉性が高いと幸福感を感じる割合が高いから、簡単に許容出来ないのではないかと思う。


論路的にはそれぞれが矛盾するような価値観でも自分に都合の良いものを組み合わせて使うことで幸福感が得られるとか、自分に少しでも利益が生まれそうに感じる改革は受け入れるがそうでないものは受け入れないというような単純なモノではないだろう。


「こうすればバラ色の未来が訪れる」という雰囲気が漂う脳天気な番組よりは見たいと思うドキュメンタリーや経済番組ではあるが、大抵の場合見ていくと更に問題が複雑に見えてきて消化不良感を増すのだから、私はきっと幸福を目指していないのだろうと思う。


自己を賞賛し他者を毀損することや論争に勝つことを目的とせず、ある問題を多角的に考え掘り下げていく手段としての「討論」や「対話」をする機会をあまり持てない。代わりとしているのが先ほど挙げたテレビプログラムのようなものだ。心理学で言うカタルシスを求めていない。


だから自分の不満を解消する目的では利用していない。知識を得て不安を解消する効果は多少ある。解決に結びついたり満足感を得るということは殆ど無い。それでも見てしまう。未だ自分が求めているモノがよくわからないで、振り回され居るような気はする。どう自己肯定に結びついているのか不明。


(このように色々書いて投稿している行為は、自己肯定欲求を満たすものだと自覚できるのだが)


私は自分の負の感情も嫌なのだが、他者の負の感情への耐性が低い。現実でもフィクションでも苦手だ。ドラマでも負の感情を表現するシーンの視聴に耐えられない。強い欲望が表面に出るシーンも苦手。恋愛ドラマもダメ。話題になったドラマの殆どは避けるしかない。かなり脆弱でつまらない奴だろうなあ。



10月5日(土)のつぶやき

2013年10月06日 04時30分19秒 | 個人的な感想とか意見

@gessanyokoyama 新刊難民が多い昨今ですが、無事「ツールド本屋さん」2巻を手に入れました。行きつけ書店はコミック予約が可能なので助かっています。口絵の滑り台写真の明るさと後ろ姿の雰囲気のアンバランスなのが笑えました。ゲッサン11月号の展開も楽しみです!



10月4日(金)のつぶやき

2013年10月05日 04時22分27秒 | 個人的な感想とか意見

今日はNHK Eテレ「バリバラ」をオンタイムで視聴中。盲聾者の生活の紹介。視覚と聴覚が利用できない中で、どういう工夫をして生活しているのかは純粋に面白い。接触手話や指点字など会話手段が多様にあることも知った。しかしそれぞれの状況は一様ではないから一般化してはならないようだ。


盲聾者が周りと会話が可能な状況になっていれば、工夫次第で伝え合う事柄が殖やせるだろうし、活動範囲を拡大できるだろう。仕事や趣味に活躍できるだろう。会話困難な状態が放置されていたならば、ヘレン・ケラーが世に知られることはなかった。養育者や教師や通訳者など周囲の環境も重要だ。


一時期、聴覚障害者を扱ったドラマの影響なのか、手話の学習が流行したことがあった。確かに手話は会話手段に一つとして有効だ。しかし手話でなければ会話が成立しない訳ではない。会話をしたいという強い欲求が双方にあれば、何らかの会話手段が工夫できると思う。


世には動物や植物などの生物と「会話」をして居る人が多く居る。それどころか道具や岩とか静物との「会話」を模索している人も多く居る。知識がないから困難だと思い込まず、会話の場から逃げない姿勢がスタートなのだろう。


(いつものように多義的な文章です。「盲聾者」を別の語に置き換えて読めるように書いています。)