文化調査船「ガラクタ号」 プログ版

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政治の「責任」とは?

2009年10月30日 23時08分03秒 | 個人的な感想とか意見
新型インフルエンザのワクチンの接種回数を2回から1回にしても良さそうだという提案がされたそうですが、
厚生労働省の政務官の方は慎重に見極めたいとして、2回接種を原則として維持するようです。

ヘリコプター搭載型護衛艦の衝突事故では、その艦体の強度が案外低いということが露呈しましたが、
対潜水艦作戦の中心になるはずの新鋭護衛艦がすべて事故や試験のために作戦行動できない状況にあるようです。

高速道路無料化の社会実験に対して、JR7社は見送りの要望書を国土交通省に提出したそうですが、
多くの企業の存亡に関わるようなことを「マニフェストで国民と約束したから」と強行するようですね。

無駄な公共事業の見直しや中止もマニフェストで掲げられた項目ですが、
経済効率が悪い事業や当初目的が十分達成できない事業やランニングコストが掛かりすぎる事業はあると思いますが、
全くどんな効果もない「無駄な」事業はないと思います。

共通して言えるのは、政治を行うものが負う「責任」をどう考えているのかが見えてこないことです。
刻々と変化していく世の中で民間企業とは違う視点で国全体を見ることができているのでしょうか。
長期に渡って行う事業に関しては、コストや安全性を重視してより高い効果を挙げることができるように見直しを図る。
不測の事態に備える防衛には、防衛費をどう使えばより高く隙のない防衛力・戦争抑止力が得られるのかという戦略を。
緊急対応が必要とされる新型インフルエンザなどの高感染力の伝染病には、巧遅よりは拙速を尊ぶべきではないか。

一番重要なのは、マニフェストに掲げていても選挙で勝ったからとすぐに実行するのではなく、
改めて関係者の合意ができるまでの過程を尊重していくことだと思うのです。
それが民主主義と言うものではないでしょうか。

政治を行うものの責任は、国民個々の幸福を保証することではなく、
国民が幸福を追求する環境を保証することだと思うのです。

後で訴訟を起こされるとか、賠償を求められるとか、非難を浴びるとか、ミスを責められるとかを気にして、
結局何もしないという「責任回避」を如何に無くしていくか。

官僚主体で責任回避の政治をしてきたと自民中心の政権を非難してきた民主党ならば、
政治主導という形式でではなく、責任を回避しない政治をするという本質で差別化を図って貰いたい。

失敗をすることよりも、信頼を失うことを恐れて欲しい。

もし政治主導になっても責任回避の政治のままなら、更に国民よりの政党が求められるのではないかと思われます。

変化を受け入れるのは難しいのでしょうが

2009年10月24日 11時33分38秒 | 個人的な感想とか意見
先回まで夫婦別姓や戸籍や家族のことなどを考えてきました。
私はあらゆるレベルで多様な家族観を考えるようになって欲しいと思っています。

家族観を変えることが必要なのは、政府が行う政策の「家族モデル」の変更を促すからです。
日本経済成長期の「家族モデル」は、夫婦と2名程度の子がいる核家族でした。
男女平等の憲法ができたとはいえ、生活慣習はそう簡単に変わるものではありません。
夫が働き妻が家庭を守るというのが当然のように思われた時代ですので、それを前提に全ての制度を構築しました。
基本単位は「世帯」であり、独身者はいろいろな意味で社会的な評価が低かったものです。
(酷い話ですが、未婚者だと組織内での昇進や選挙の出馬にも悪影響がありました)
医療保険制度も、年金制度も、租税制度も、教育制度も、生活保護制度も「夫婦と子がいる世帯」を前提したのです。
そのため未婚や死別・離別などの理由で単身になった場合には、給付額が十分でなかったり負担が重くなる構造でした。

高度成長期が終わり何回かの不況を経験する内に、生活慣習が変わり始めました。
夫婦の共働きの増加です。
いろいろな理由で女性が労働する期間や時間が増加を始めました。
結婚しても退職せず、仕事を続ける人が段々増えてきました。
しかし結婚前はフルタイムでも、結婚後もしくは子育て中はパートタイムが主流だったため、
パートタイム(アルバイト)労働者市場が拡大していくことになります。
労働者の数が急激に増加したわけですから、それを前提にして社会慣習や産業が変化していくことになります。
今まで家庭内で行われていたことが、どんどん外部化されていきました。
外食中食産業の増加、様々な流通業の増加、交通量の増加を始めとして全ての消費行動が活性化されました。
これがもう一つの変化をもたらしました。
単身者の増加です。
結婚して夫婦でいなくてもそこそこ暮らしていけるという状況になってきたのです。
独身者はその経済力で完全ではないにしろ自立できる状況になりました。
すると未婚率は上昇し始め、結婚後でも離婚をためらわなくなってきました。

さてこういった変化に社会制度が追従できたかというと、そうではないと思います。
手直し程度の小幅な修正は多く行われてきましたが、「家族モデル」が未だ変更されていないのです。
ですから旧来の制度になれてきた人たちにとっては自然に感じられるシステムが、
増加してきている単身者にはかなり不利になっています。
そろそろ政策的に行う制度設計は、「家族モデル」から個人単位へ変更すべきではないかと思います。
個人単位で基本を創れば、多様な家族形態にも対応できると思うからです。
ただこれを主張すると、旧来の家族制度を崩壊させるという強い危機感を感じる方が多くいるようです。
更なる未婚率の上昇や、離婚を促すという考えです。
先日話題にした「選択的夫婦別姓」などはそのほんの一部に過ぎないのですが、ネット上の議論では猛反対の嵐です。
しかし制度設計を個人単位にして、生まれたときから死ぬときまでをトータルで考えるような設計をしていかないと、
社会慣習などの時代の変化に対応するのにかなりの時間的ズレを産むと思うのです。

社会的なマイノリティである存在であった単身者が、もはやマイノリティではなくなったという意識改革が必要です。

そして未だマイノリティであるさまざまな人も受け入れられるように変えていくべきです。
社会的マイノリティである身体障碍者、知的障害者、精神障碍者の方。
性的マイノリティである同性愛者、性同一性障害者、性未分化などで性別が付けにくい方。
文化的マイノリティである外国人・少数民族の方
宗教的マイノリティであるイスラームや既存宗教習慣を拒否される方。

こういった方を受け入れる「共生」社会をつくるために、心と制度の障壁を取り除けるようにしていきたいと考えます。

数十年後の「家族」を考えてみる

2009年10月19日 02時23分15秒 | 個人的な感想とか意見
現在の家族観は、一組の《夫婦と子》による単家族もしくは核家族と呼ばれる形態が多いようです。
昔は複数世代の直系血族が同居したり、複数の血縁単家族の同居もありました。
一人っ子同士の結婚が増加してきて、それぞれの両親と同居という2世代・3世代同居もあるようです。

さてこれから先、結婚という制度が実効性を持ち続けるのか、別の制度が必要になるのかは分かりませんが、
1.同居し生活をする「同居者」
2.お互いの生活を精神的・経済的に支え合う「生活協力者」
3.生活全般の支援を行う「扶養者」
という3つの観点で「家族」を捉えると家族を広く捉えることができそうです。

1を考えてみましょう。
同居人の構成は、男女・年齢・人数などや、2・3との兼ね合いでいくつものパターンが考えられます。
男性同士の場合や女性同士の場合はもちろん、師弟関係や、介護者と介助者の組み合わせなども入れることができます。
現在でも「家族のような付き合い」と称されることがあります。
数人のレベルから数十人レベルまで考えることもできそうです。
日本の直系3世代4世代同居とはちがう血縁一族同居は、アジアの農村部や狩猟生活を営む部族によく見られますが、
将来的には血縁がない複数の単家族の同居もありうるのではないかと思います。

2を考えてみましょう。
現在夫婦や家族で同居をしていなくても、生計を一にしていることは多くあります。
単身赴任で遠隔地に行っていたりする場合です。
親とは同居していないけれど、生計は一緒に管理している場合もあります。
これにも男性同士の場合や女性同士の場合はもちろん、師弟関係や、
介護者と介助者の組み合わせなども入れることができます。
逆に婚姻はしているが別居中で独立採算の場合は、経済的な面では「家族的」ではないということでしょうね。

3を考えてみましょう。
親が子をもしくは子が親を、法により扶養することを義務としています。
しかし支援の対象が血縁者だけとは限りません。
「里親」というシステムもありますし、集団で支援するシステムもあります。
教育経済面だけで言えば、奨学生制度もこの中に入れて良いでしょう。
社会全体で子育てを支援するという思想が普及すれば、国民全体で次世代を扶養するということになるのでしょう。
また国を超えた「里親」も行われていますので、「日本社会」ではなく「全世界」という所まで行くのかも知れないです。

さてこのように拡大した家族像・家族観を支えるのに、法に求めるモノは何か。
それはトラブルの予防・紛争解決の道しるべではないかと思います。
婚姻制度が法的に必要になった理由は、家族の扶養の問題と財産の相続の問題ではないかと考えます。
法に依らない結婚(事実婚)では、これらが曖昧になるからです。
戸籍の必要性が国による徴税と徴兵の管理のしやすさから来ていたのと同様、
誰に扶養を命じることができるか、相続を管理して納税精度を上げていくという要請が、
統治組織は法により管理された結婚制度を必要としたと考えられます。

であるならば、「家族」をもっと広く考え始めるにあたり重要なのは、
この2点を考慮した法を用意することではないでしょうか。

様々な形態の「家族」の間での扶養義務と財産相続のルールが上手く構築できれば、
法による婚姻が必要にならなくなるのでしょう。
すでに事実婚や未婚単身での出産が多くなった国々では、そのニーズに応えた法制度に変わりつつあります。

日本でも未婚率が急速に上昇しています。
原因は不景気などの経済的要因だけではないようです。
女性の経済的精神的自立が進んだ結果という面もあります。
見合結婚よりも恋愛結婚が主流になったという面もあるでしょう。
会社や職場が「見合の場」として機能しなくなったという要素もあるでしょう。
でも人とのつながりを拒否しているわけではありません。
年を取れば一人では生きていけないと気がつくと、
結婚という形式に拘らない、また違う緊密な人間関係を築きたくなるのではないでしょうか。
それが新しいカタチの「家族」になって行く気がします。

結局保護されるのは正社員だけなのか?

2009年10月13日 17時52分59秒 | 個人的な感想とか意見
派遣労働の原則禁止を表明していた民主連立政権ですが、識者に依ればこんな評価もあります。
「派遣禁止」による失業率10%:池田信夫(上武大学大学院教授)(Voice) - goo ニュース

記事に依れば、派遣が禁止されればパートやアルバイトに変えるか、正社員の残業が増えるか、労働基準法が適用されない外国人「研修生」が増加するだけで、格差はさらに増加すると予想されるそうです。

確かに日本では、一度正社員にすると簡単に解雇できないので、非正規雇用が調整弁的役割をしてきています。
不況下なのに例え生産効率が低い社員であってもその雇用を優先的に守り、それを補うより経済効率の良い非正規雇用者を頼らないといけない状況になっているのではないでしょうか。
私も「非正規であっても優秀な人材ならば正社員にしてもらえるはずだ」というのは、正に実社会を理解していない人の空論ではないかと思われます。



これは伝統文化の破壊なのか 世界共通文化への道程なのか

2009年10月13日 17時13分17秒 | 個人的な感想とか意見
本当は寛容な宗教であるイスラム教ですが、昨今は過激な主張をする一派のテロ行為ですっかり悪者扱いされていました。
そのイスラム文化圏であるシリアのブログのお話です。

ブログと宗教とマスターベーション(ニューズウィーク日本版) - goo ニュース

タグを付けて抜粋します。
(保守派の若者のブログ)
シリアでは自慰行為が若者の間で山火事のように広がっている。「秘密の習慣」に終止符を打とう。
(シリアの有名なブロガー)
不条理と偽善と聖人ぶった態度に対抗すべく、これまでに経験したこともないような『シリアのオルガスムス』に達しよう。
(過激な主張をするブロガー)
麻薬やポルノにふけり、ラマダン(断食月)中に堂々と飲食する「モラル崩壊週間」をしよう。
部族主義や時代遅れの考え方に反対しよう。


記事依れば「ブロガーや専門家によれば、インターネット上のセックス映像や性に関する話に、シリアの世俗政府は中東のほかの国よりはるかに寛容」のようです。

(ワシントン中近東政策研究所のシリア専門家)
極度の権威主義国家の場合、大目に見られることは一気に表面化する
シリアの聖職者はネットポルノの広がりを警戒しており、それが(保守派の若者のブログ)の書き込みにつながった可能性もある。
実際、(保守派の若者のブログ)はマスターベーションの害を説く宗教的な引用だらけだ。

日本のネット社会でも、積極的な発言や書き込みをする方々はどちらかというと「より保守的な主張<正論>を強調する人」と、私のような「より変革的な主張<異論>を強調する人」と、「より否定的な主張<本音>を強調する人」が多いですね。議論が噛み合わないか、罵り合いになってしまいがちです。

日本から心理的に離れた場所の異なる文化圏でも、日本のネット社会とそんなに変わらないことにほっと安心したというか、親しみを感じたというか、繋がっている感を持ちました。

そのうち世界中の文化圏の人たちと、一緒にアニソン歌って盛り上がる日が来るのでしょうか?

温泉文化については保守派です

2009年10月13日 10時00分13秒 | 個人的な感想とか意見
本日深夜に出立して、いつもの所に行ってきました。
下呂温泉噴泉池です。

残念なことが2つ起きていました、
1.囲いができていた。
2.22年2月から男女とも水着着用が義務化。

温泉に水着を着て入りたくねえ!!!!!


多分に女性客の増加で、観光協会が「気配り」をして裸の男性客を追い出すことになったのでしょう。
温泉マナー・混浴マナーが酷い輩が出没するのは確かですが、そのために本当の温泉ファンを失うことにならないか心配です。
私はいつも車に水着は常備していますので入るだけなら問題ないのですが、

温泉に水着を着て入りたくねえ!!!!!

ということだけなのです。

場所が場所だけに、「公然猥褻」とのからみもあるでしょうが、温泉文化・混浴文化を否定された感じで落ち込んでいます。

他にも関連した情報や他の温泉での情報がありましたらコメント下さい。

戸籍制度

2009年10月06日 21時11分36秒 | 個人的な感想とか意見
選択的夫婦別姓についての議論も、盛んになってきました。
賛否双方の意見や感想が活発に載るようになりましたので、
関心のある方は一読してはいかがでしょう。
「夫婦別姓導入」政府が来年にも民法改正案提出へ あなたは夫婦別姓に賛成ですか、反対ですか? - goo ニュース畑

こちらの方にも投稿しましたが、私は現行の戸籍制度や婚姻制度にも問題点が色々あると考えています。

いつも疑問に思っていることがあります。
戸籍に於ける「本籍」というものが果たしている役割は何なのでしょうか。
日本の領土ならどこにでも自由に変更できるそうです。
私には形式的な戸籍管理自治体の標識以外の意義が見いだせません。

行政上・司法上の様々な活動は、住所を管轄する自治体を中心に行うように決められています。
住民基本台帳法により、住所等届け出る内容や管理する項目が決められています。
ただこれも、実際の状況まで確認できません。
届け出た内容が実際と異なっていると、サービスを受ける上で困るのは住民だという前提だからです。

出生地を特定しておくことや、生年月日・家族関係を把握しておくことが何故必要なのか。
それは個人を特定して、納税の義務や債務から逃れられないようにするためです。
家族関係の記載は、家族間の法的関係を整理しやすくするために必要なものです。
つまりは様々な法を執行する上で便利であるから必要とされているものです。

封建制時代には領主ごとの行政制度があり、その行政上の最小単位は「家」という共同体でした。
地域的の血縁者や使用人を含めた管理ができたからです。
都市の長屋なら大家単位で管理をすることがありました。
個人の特定は、どの家に属するのかという判別になります。

明治になり、国が直接管理する上でより近親の血縁者の集まりである「戸」という中国の概念を持ってきました。
「戸」単位で「籍」という住所で管理する「戸籍」です。
日本流に武家の家制度をモデルにしていたため、戸主は家父長であり、基本的な権限は戸主に集められました。
戸籍からの移動が必要な婚姻や独立には、すべて戸主の同意が必要でした。
個人の特定は、戸主の氏名と本籍により行われました。現住所ではありません。

日本国憲法を施行する時に、一挙に欧米型の個人を単位とするところまでは進みませんでした。
夫婦と子を単位とする新戸籍制度に変更されたのです。
当時の技術的な問題として本籍は残されたと考えられますが、
個人の特定は新戸籍をベースにした住民票によることになりました。

現在の住民基本台帳法第7条によると記載事項は、
1.氏名
2.出生の年月日
3.男女の別
4.世帯主の氏名及び世帯主との続柄
5.戸籍(本籍)
6.その自治体の住民となった年月日
7.住所及びその住所を定めた年月日
8.別の自治体から移動してきた場合は前の住所と年月日
9.選挙人名簿に登録されているか
10.国民健康保険の被保険者かどうか
10の2.後期高齢者医療の被保険者かどうか
10の3.介護保険の被保険者かどうか
11.国民年金の被保険者かどうか
11の2.児童手当の支給を受けている者かどうか
12.米穀の配給を受ける者かどうか
13.住民票コード
14.前各号に掲げる事項のほか、政令で定める事項
だそうです。
行政上のサービスなど、個人の特定をするために必要な事項だと納得できるモノもあれば、
「以前の名残」と思われるモノもあります。
将来住民票コードが基礎年金番号や自動車運転免許証番号・納税者番号と共通化され、
個人を特定する「記号」となっていく可能性があります。

現状の制度は、文化的な背景や歴史的な経緯も考慮しつつ、
社会状況や生活実態などの変化を取り入れて、
制度を見直す必要があるかどうかを「常に」問いかけることが必要であると考えます。

人間を考える・・・独善的になりがちな私への「戒め」

2009年10月06日 13時46分31秒 | 個人的な感想とか意見
急激な少子高齢化
国際分業の高度化

この数十年で周りの環境が大きく変わりました。
それに伴い私たちの生活も大きく変わってきています。
でもそれに頭がついて行っていません。

親の世代と同じような「成功体験」を子供に期待しています。
今、80年代の人たちは60年代の人へ、
60年代の人たちは40年代の人たちへ、
40年代の人たちは20年代の人たちへ、
そしてこれから生まれて来るであろう人たちへ。
果たしてそれは期待できるのでしょうか?

期待できないことを感じている人たちがいます。
彼らは何とかしようと、社会のしくみや政治のあり方を変化に対応させたいと考えています。
しかしそれに反対する人たちが多くいます。
今までのやり方で成功してきた「成功体験」の持ち主です。

「今までうまくいってきたのに何故変えるんだ。」
「俺たちの利益を何故減らそうとするんだ。」
「何であいつらのために自分たちが犠牲にならなきゃいけないんだ。」
「ほかのために回す金があったら自分たちのために使ってくれ。」
こういった人間の心理を変えるのはかなり難しいですね。

全ての人間がどんな場面でも合理的な判断をするならば、
「ゲーム理論」が導く最適な結果に落ち着くのでしょうが、
そんな簡単なものではありません。

世の中には一見無駄や不正な利用に見えることが多くあります。
それらは人間の心理をよく考えてあり、社会の円滑な動きを助けるモノだったりするのです。

全ての国民が聖人君子のような善人ばかりならば、社会主義の実験は成功したでしょうが、
その国の指導者ですら独善的であったわけですからうまくいくはずがありません。

人間は理性だけの生物ではないのです。

政治の指導者も企業家も科学者も社会活動家も、独善的になりがちですが、
そんな弱点だらけの人間を相手にしなければならないのです。

私も勉強したり知識を得たり思索をするとつい独善的になりがちですが、
反省し戒めながら行きたいと思います。